海姫

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 海姫                 玄川蝦夷  黒潮を遡る船の舳先に立って、夜空を見上げる。  深い紺色の星空に、流星群が見えた。  しかし為朝には、それが不吉を告げる凶兆には感じられなかった。  それよりも、崇徳上皇や父である源為義と共に白河北殿に立て籠もっていた際に、不意に夜空から襲ったあの時の火矢の雨を思い出していた。  夜空を駆ける星星を見上げながら、先の保元の乱の戦の記憶と邂逅する。  崇徳上皇側に付いた源為義と、その八男の為朝は、保元元年七月十一日の鶏鳴の頃に、後白河天皇側に付いた兄義朝と、平清盛、源義康の夜襲を受けた。  為朝も御殿から出てこちらから夜襲を掛けようと進言したが認められず、そのうちに敵が夜襲を仕掛けて来たのだ。あの時、敵の夜襲よりも先に打って出ていれば、戦果は変わっていたかもしれない。  そして強弓で知られる為朝は、白河北殿に雪崩れ込もうとする敵兵を、一人また一人と、その弓矢の餌食としていたが、兄達の軍を追い払うのは叶わず、白河北殿は敵の手に落ちて、崇徳上皇勢は敗北した。  その後、仁和寺に逃げ込んだ崇徳上皇は捕らえられ、讃岐へと配流の身となり、父為義は打ち首となった。 都を離れて四十五日間も潜伏し、近江国坂田で身を隠していた為朝自身も捕らえられて、伊豆大島への流罪とされたのだ。 「嵐が来るかもしれやせん」  為朝の背後で櫂を漕ぐ鬼の一人が言った。  彼等八丈島の鬼の云う南方の竜宮に、この船が辿り着けるかどうかは、その櫂を握る膂力に懸かっているのだ。  伊豆大島に配流となった為朝は、その強弓で、瞬く間に伊豆諸島北部を支配下に治めた。しかしそれを知った朝廷は、為朝討伐の船団を伊豆の海原へと派遣した。  その時、伊豆大島に居た為朝は、影武者に割腹を命じると、そのまま八丈島に向かって、朝廷にまつろわぬ民である鬼共と合流した。そして彼等の仲間が住む、遥か南方に浮かぶ竜宮と呼ばれる島々を目指したのだ。  南方の竜宮を目指す航海は幾日も続いた。  嵐を抜け、四国も九州も通り過ぎた頃、やっとその島影が見えた。  鬼の一人に訊くと彼は言った。 「あれが竜宮の一つ、姫ヶ島でやす」  水平線に浮かぶその黒い影は、まるで横たわる怪物の如く見えた。  ※    ※  陽が沈みかけていた。 背後に浮かぶその巨大な落日と、それを映す琥珀色の海以外に見えるのは、前方から漂って来るあの島だけだ。  漁船が波を切る度にその黒い島影が大きく揺れる。 「もう直ぐ祭りだからねぇ。島民以外は、みんな島から追い出されちまうんだ」  舵を取る漁師が話し掛けて来た。  二週間前に殺害された佐久山も、その祭りが目当てだったのかもしれないと、吾妻謙一は思った。 「長く滞在する予定なのかね」  漁師が舵を握ったまま、正面の島影から視線を逸らさずに、船尾に座る吾妻に訪ねた。その漁師の視線を追うと、琥珀色の海原に巨大な怪物が横たわって居る様に見えた。 「いえ、一泊したら東京に戻るつもりです」  吾妻は嘘を付いた。事件の真相に繋がる収穫があるまで、島を離れるつもりはなかった。  退屈な入院生活が終わり、彼が署に戻ったのは、つい三日前の事だ。  出勤して署のデスクに腰掛けると、同僚の仲間優子が疲れた笑顔で話し掛けて来た。訊けばもう二週間も帰宅せず、署に泊まり込んでいるらしい。 「何か大きな事件でもあったのか」  入院中も新聞やテレビのニュースは目にしていたが、二週間も帰宅出来ないほどの事件があったとは、初耳だった。 「吾妻君が入院中に、面倒臭い事件が起こったの。例の入江に仏さんが上がったのよ」  例の入江とは、海流の関係で、水難者や自殺者の遺体が流れ着く入江の事だ。正式な名称が有るか無いかは知らないが、この所轄の人間が「例の入江」と言ったら、まず最初にその入江を思い浮かべる。 「事件と言ったな。水難事故や自殺じゃなく、他殺の遺体が上がったという事か」 「ええ、殺害された後に、海に遺棄されたのよ」  それが何故どんな風に、面倒臭い事件なのだろうと、吾妻は小首を傾げて訊いた。 「腐乱や、魚か何かに啄まれて損傷が酷いのか」  海から引き上げられた遺体ならば、海洋生物に荒らされて、損壊がある事ぐらい珍しくない。そのせいで、身元がまだ割れてないのだろうか。 「それは違うわ、腐乱もない綺麗な遺体だったもの。でも現場で検視を行った島田係長も戸惑う様な殺害のされかただったけどね。男性の遺体なのだけど、その…局部が無かったのよ」  なるほど、身元云々ではなく、殺害のされ方が問題なのかもしれない。 「海洋生物の仕業ではなく、局部が欠損していたのならば、刃物か何かで切断されていたのか?」 「いいえ、局部の欠損が大型の魚類か何かの仕業ならば話は簡単だったのだけれど…」 「は?」  吾妻は思わず素っ頓狂な声を上げた。今、海洋生物犯人説は否定したクセに。 「その『は』よ。遺体の局部は、歯で噛み切られていたの」 「人間の歯か」 「そう、局部の根元に、噛み切るために、何度も噛み付いた跡が残されていたわ。死因は、その局部切断による失血死。そして、その後に海に遺棄されたみたいなの」  局部を噛み切られて死亡。その内容ならば、なかなか報道され難いだろう。どおりで、新聞やテレビのニュースではこの事件には触れていないはずだ。もしかして、署内でも箝口令が敷かれているのかもしれないと、吾妻は思った。 「その猟奇的な殺害方法が、面倒臭い事件と言った理由か」 「いいえ、それは捜査を困難にさせている直接の要因ではないわ」  では、まだ外にも仲間を疲れた笑顔にさせる理由があるらしい。 「遺体は局部が欠損していた以外には綺麗だったと言ったでしょ」 「では海に遺棄されてから、そう時間が経って無いんだな。近場から流されて来たって事か。殺害現場も既に判明しているのか?」 「ええ、被害者の身元も判明しているわ。被害者は静岡県在住の大学の助教授で、沖縄には土着の民間信仰のフィールドワークに行くと、周囲に洩らしていたそうよ」  土着の民間信仰と聞いて、吾妻は嫌な予感がした。 「ここの管轄で、事件に発展しそうな土着信仰と言えば…」 「姫ヶ島よ。被害者は海姫信仰の調査のために、姫ヶ島に滞在中にあの島で殺害されたのよ」  吾妻の予感が的中した。それならば捜査が難航しているのも頷ける。  三年前の夏の事だ。東京のテレビ局のスタッフが、姫ヶ島の海姫信仰と秘祭を取材しようと、彼の島を訪れた。  しかし波止場に上陸した所で、島の祭事を司る『姫守衆』と呼ばれる連中に取り囲まれ、テレビカメラを取り上げられて海に投げ捨てられた。身の危険を感じたテレビスタッフ達は、その場で折り返しの定期船に乗って退散したと云う。テレビ局は、秘祭の言葉の意味を理解していなかったのだ。  沖縄の人間ならば、排他的で閉鎖的なその島にはまず近寄らない。行くのは、郵便局員と何も知らない観光客だけだ。知りたい、もしくは知っていて来島しようとする部外者は、テレビスタッフと同じ目に遭う。 「例によって、島民の閉鎖的で排他的な態度の前に、捜査は難航中よ。金城警部が中心に動いてるけど、島民は示し合わせたように、事件は観光客同士のトラブルか何かが原因だろうっって応じるだけ。私達が最初に聴取した島民からそう言っているのだから、口裏合わせをしたのは、警察が島に入る以前でしょうね。島民のみならず、島に駐在する交番勤務の警察官まで非協力的なんだから呆れるわ。姫ヶ島出身の制服警官らしいけど」 「島民の口が堅いのなら、被害者の身元や交友関係、殺害当日の行動を端緒に捜査するしかないな。被害者は、どんな人物なの」 「被害者の身元は、彼を島まで運んだ漁船の船長のお蔭で判明したわ。 島に滞在するために宿泊する予定の宿の名を、船長に話していてね。殺害時に身に着けていた衣服や財布や携帯電話は、まだ未発見だけど、その宿には手荷物が残されていて、そこから身元が分かったのよ。でも宿の宿泊者名簿によると、被害者の名前は宮守栄一。住所は千葉県になっていたわ」 「さっき静岡県在住って言ってなかったか?」 「姫ヶ島の宿に残されていた宿帳の名前と住所は偽称ね。調べたけれど、その住所に宮守なる人物は在住してなかったわ。だけど、姫ヶ島に渡る前に、沖縄本島の空港近くのホテルに一泊していたのが、荷物にあった領収書から判明していて、そちらには本名で宿泊していたわ。そのホテルの宿泊者名簿よれば、本名は佐久山良一。四十五歳。静岡県の伊豆の国市在住ね。宿泊者名簿の職業欄には大学助教授とあったわ。静岡県警に確認した所、確かに佐久山良一は実在していて、伊豆の国市の大学で助教授をしながら、本も執筆していたみたい。それと、この佐久山さん、一ヶ月前に伊豆の八丈島で起こった、別の殺人事件にも絡んでいるらしの」 「八丈島で怒った殺人事件?」 「私からの説明はここまで、後は署長から本を借りて、詳細を聴いてちょうだい」 「本って、佐久山のか」 「いいえ、喜多吾郎のよ。昭和初期の物書きで、姫ヶ島の海姫信仰について、あれこれ書いているのよ。署長が郷土史家に頭を下げて、吾妻君のために借り受けて来たんだからね。感謝しなさい」 「俺のためってどういう事だ?」 「他の捜査員は、事件が起こってから、何度も姫ヶ島に出入りしていて、島民に顔を覚えられているわ。だから吾妻君が適任って事」  吾妻の脳裏に『内偵』の二文字が過ぎった。  そして今、彼はこうして姫ヶ島に向かう漁船に乗船している。 「あんた、仕事は何をしてるんだい」 「東京でフリーのカメラマンをしています」  漁師の問いに慌てて応えた。 「ファインダーを覗く時、眼鏡が邪魔にならないかい」 「ああ…仕事の時は、コンタクトに代えるんです」  本物のプロのカメラマンがどうしているかは知らないが、吾妻は適当に受け流すつもりで応えてみた。  漁船のエンジンが「ボボボンッ」とバラついた音をたてる。  あれこれ訊かれる事は想定済みで、偽称の身分や履歴は考えてあるが、話が想定外の物に及ぶと不味い。吾妻は鞄から喜多吾郎の本を取り出すと、それを開いた。本を読んでいれば、漁師も話し掛けて来ないだろうと踏んだからだ。  しかし、その思惑は外れて、舵を握る漁師は、人懐っこい笑顔で話し掛けて来る。 「あの島は月に一度の祭りの日になると、島民以外はみんな島から追い出されて、島民が所有する船以外は着岸も許されなくなっちまうんだ。何せあの島には変わった神様が居て、祭りの日には、島民以外が島に滞在するのを許さないらしいんだわ。その神様ってのはな…」 『黒詞探訪記』  喜多吾郎は、その著書の上中下ある内の下巻の大半を、姫ヶ島の海姫信仰についての記述に割いている。 『その島の島民が崇める神を、海姫と云う…』  喜多の本によれば、姫ヶ島には神道とも仏教とも違う、また沖縄独特の御嶽とも異なる独特の聖域があったと云う。そこには大蛇権現並びに源為朝も合祀されているが、島民の信仰が最も篤いのが海姫だとある。  『海姫』とは、蛇の身体に女の頭を載せた人頭蛇体の妖怪で、一般には『濡女』と呼ばれる。しかし別名『濡女子』『濡嫁女』『磯姫』『磯女子』『海女房』など複数の異称があり、その一つに『海姫』の呼称がある。  海姫について紹介する次の頁には、『百怪図巻』に描かれた濡女を模写したと注意書きされた、挿し絵が添えられていた。それを見る限りでは、頭部から生える濡れた長い頭髪が、そのまま蛇体になった様な艶めかしい姿をしている。(この解説チェック)しかし海姫には、上半身が人間で下半身が幽霊の如く霞んでいる者や、普通の女性の姿をしている者も在ると云う。  挿し絵の頁を捲って続きを読む。  喜多吾郎曰く、姫ヶ島に伝わる説話によれば、海の彼方の常世より来たる竜の化身である大蛇権現が、後に伊豆大島より琉球に渡った鎮西八郎為朝の娘と結ばれて、女児を授かった。その女児は、竜と人の混血を表す姿をしていた。その女児こそが、姫ヶ島で尊崇される女怪、海姫だと云う。  そして女児が生まれると、大蛇権現は島をその異形の娘に任せて、自身は常世に戻った。  喜多は、そう記述している。 「…という変わった神様が居る島でね。あんたも捕って喰われない様に、気をつけな」  漁師がカラカラと笑う。  それに反応して視線を上げると、姫ヶ島の巨大な島影が迫っていた。  その虚空に開らかれた、巨大な怪物の口の如き黒い影を見詰めていると、そこが常世への入り口に感じられてならない。あの常世への入り口に、惨殺された佐久山の魂が待っている。  その暗く巨大な陰に包まれながら、漁船はゆらりゆらりと波止場に着岸しようとしていた。  吾妻は喜多の著書を閉じて鞄にしまうと、船尾から舵を取る漁師のもとに移動した。 「着いたよ。帰りの船はどうするんだい」 「帰りは、定期船で本島に戻ります」  そう応えると、漁師は少し残念そうな顔をした。小遣い程度の運賃の収入が、往復分ではないのが惜しいのだろう。  漁船が波止場に横付けにされる。  吾妻は、片道分の運賃を漁師に渡すと、波に揺れる漁船から波止場に降りた。船酔い気味だった吾妻は、足下の安定した固いコンクリートの感触に少し安心した。  そして船を旋回させる漁師と別れの挨拶を交わすと、定期船の無人の待合室の小屋を素通りして、港から海岸線沿いの道路に出た。  時刻は午後六時半。  まだ陽も完全には沈んでいないが、港に面した町には、もう住民は寝静まってしまったかのように静寂が漂っている。 暗く影が落ちる町並みに並んだ街灯の下には、行き交う人の姿は見えない。  吾妻は、肩から鞄を下ろすと、中から地図を取り出し、その街灯の下まで行った。そして灯りに照らして今夜の宿の位置を確認した。 宿は、この港沿いの町並みを南下して一キロほど歩いた所に在るようだ。  吾妻は、地図を鞄に仕舞うと、鞄を肩に掛け直し、粗雑なコンクリート製の道路を宿に向かって歩き出した。  左手には家々が、右手には港に係留された漁船が連なり時折波に揺れる。辺りは寂寞としていて薄暗く人の気配はしない。これで家々の軒先の灯りが無かったら、廃村にでも迷い込んだ気分になるだろう。  しかし何処かの家から漏れる味噌汁の匂いがした。  今日の収穫を調理しているのであろう味噌汁の匂い。  人の生活の気配に、少し安心する。  そんな事を感じながら歩みを進めて行くと、やがて港独特の甘ったるい匂いが遠ざかり、進む先に『青海』と掲げられた看板が見えて来た。  佐久山も宿泊していたこの青海という民宿に、今夜吾妻は泊まる予定だ。  蛍光灯の切れかかった看板がバチバチと音を立てている。それを横目に宿の門を潜り、庭の飛び石に従って入り口まで行くと、その引き戸を開けた。  引き戸がガラガラと音を立てる。  宿の玄関は狭く、看板と同じ様に天井の蛍光灯が切れかかっていた。  すみません、と声を掛けるが誰も返事をしない。二度声を出すと、漸く奥の座敷から、芭蕉布の衣装を身に着けた白髪の老婆が姿を見せた。  そして老婆は、吾妻の顔を覗き込み、 「これはこれは、いらっしゃいませ。西野様で御座いますか」  と偽称するつもりだった名前を言い当てた。何故、偽名を知っているのか。偽名なのだから、西野なんて人間は居ない。だから事前に、この顔が西野である事を知っていた筈が無い。まさか沖縄県警の吾妻の顔を知っていて、その刑事が西野と偽称する事を知っていた訳ではあるまい。それでは潜入捜査の前提が、根底から崩れ去る。  そんな事を勘繰って脂汗を掻いた。 「どうぞ御部屋に案内いたしますので、お上がり下さいませ」  額の汗をさり気無く手の甲で拭って、靴をスリッパに履き替え、老婆の後に続く。  通された部屋は、二階の角部屋の和室だった。 「今夜は西野様しか宿泊されていませんので、どうぞゆっくりと寛いで下さいませ」  そういう事か、予約をしていた宿泊客が吾妻しか居ないのなら、名前を言い当てられたのも頷ける。 「それでは夕食の準備をいたしますので、失礼いたします。準備が出来たら呼びに参ります」  老婆は嗄れ声でそう言うと、ギシギシと床を鳴らしながら、階下に降りて行った。  老婆が去ると、卓袱台にあった備え付けのポットと急須で湯呑みに茶を淹れた。そして出涸らしになるまで、何度も啜った。  殆ど潜入捜査と言える内偵。幾ら人員が不足していたとはいえ、気が弱く愚鈍な自分に任せるにはハードな仕事だ、と内心ぼやいた。しかし、こうして既に姫ヶ島に上陸してしまった今、そんな弱音は吐いていられない。  吾妻は、これから自分が取るべき行動を再確認するために、警視庁の刑事二人から聞かされた、八丈島の事件の説明を思い出した。    仲間から佐久山殺害の説明を受けると、その後、吾妻は署長室に向かった。  ノックをして署長室に入ると、テーブルを挟んだソファーには、署長と見知らぬ男性二人が座って話し込んでいた。  署長が立ち上がり、二人に吾妻を紹介する。男性二人は、警視庁の刑事であり、安曇と高幡だと名乗った。紹介が終わると、署長が吾妻を隣の席に招いた。そして、彼の事を姫ヶ島で内偵を行う刑事だと知ると、安曇が口を開いた。  安曇は、沖縄からは遠く東京都に属する八丈島で起こった、殺人事件の概要を語り始めた。その事件には、姫ヶ島で殺害された佐久山良一が関わっていると云う。 「その佐久山殺害に関連して、わざわざ沖縄までいらしたのですか」  吾妻が訊くと、安曇は額の汗をハンカチで拭いながら応えた。 「八丈島の事件に佐久山が関わっていたのもあるのですが、その殺人事件の加害者と思わしき被疑者が、今回佐久山が殺害された姫ヶ島に本籍地を持っているのですわ」 「奇妙な偶然だろ、吾妻」  署長が言いながら、汗を拭う安曇に気付いて、エアコンのリモコンを手に取り設定温度を下げる。 「その被疑者と云うのは、どんな人物なのですか」 「あんた八丈島の近海で発見された、海底遺構は知っているかね」  吾妻の質問に、安曇は全く関係の無い質問で返した。少なくともその時は吾妻はそう思い、「はあ」と間抜けな声を出してしまった。  すると安曇は、吾妻がその質問に全く存知していないのだと悟って、簡潔に説明を始めた。 「今から一ヶ月半前に、八丈島の近海から海底に設えられた遺構物が発見されましてね。これは海洋地質学の研究に従事していたダイバーが発見したのですがね。その海底遺構から、石棺の様な物が引き揚げられて、その中に一枚の海洋生物か何かの鱗が納められていたのですわ。こう、かなり大きな鱗がね」  安曇は、そう言ってテニスボール程の間隔を開けて、両掌を向かい合わせた。 「吾妻は入院中だったから、知らんだろ。ずっとベッドの上で、片足を吊して身動きとれなかったんだからな」  骨折が完治したばかりの左膝を、署長が軽く叩いた。 「その海底遺構を調査するために、伊豆の国大学から、佐世保教授と佐久山助教授が、八丈島に派遣されて来ましてね。地元のダイバーの協力を得ながら、その海底遺構を調査していたわけなんですが、そのダイバーの中に佐世保教授殺害の被疑者である嘉手納隆が居ったんですわ」  なるほど、そういう経緯で被害者と被疑者が八丈島で出会ったわけか。そして嘉手納と云う苗字も、如何にも沖縄に本籍地がありそうな苗字だ。 「その佐世保教授が殺害された経緯は?」 「佐世保が殺害された理由は、恐らく物取り。佐世保は殺害される前に、役場に保管されていた鱗を『人に見せるから』と断って持ち出していて、その遺体発見後に、佐世保の手荷物から鱗は消えていた。つまり犯人は、その鱗を奪取する事が目的で、佐世保を殺害した可能性が高いと考えております」  私の質問に、安曇が身を乗り出して応えた。その説明に、高幡が続ける。高幡は、妙に爛々とした双眸の安曇と違って、落ち着いた面持ちで話し始める。 「それともう一つ、佐世保の荷物からは、佐世保が行方不明となる前に、佐久山から譲渡されていたギザギザ十円が消失していた。佐久山が佐世保にギザギザ十円を譲渡したのは、複数の人物が目撃していて、佐世保の荷物にギザギザ十円が在った事は間違いない」 「ギザギザ十円と云うと、あの製造枚数が少なくて、希少価値が有るとか無いとかの、縁にギザギザの溝が入れてある奴でしょう」  吾妻は指先を、ギザギザと山形に動かしながら、高幡に訊いた。 「そのギザギザ十円だ。佐世保が役場から鱗を持ち出す際に、同伴していた佐久山が、役場の自販機でギザギザ十円を使用しようとしているのを佐世保が見て、譲って欲しいと言ったらしい。価値が有ると言っても対した値うちではないし、佐久山も軽く応じて佐世保に手渡したのだそうだ」  そのギザギザ十円が何故、佐世保の荷物から消えたのだろうか。吾妻が、それを訊こうとすると、安曇が話しを先へと進めてしまった。 「佐世保は役場を出た後、八丈島にある嘉手納のアパートに行くと、別れ際に佐久山に伝えています。そして嘉手納によれは、確かに佐世保は訪れたけど、海底遺構の調査の予定について少し話した後、嘉手納のアパートを出て行ったと云います」 「つまり佐久山からギザギザ十円を貰った佐世保は、その足で嘉手納のアパートに向かい、その後、消息不明となったんですね」 「ええ、そして三日後、佐世保の遺体が山中に埋められているのが、警察犬により発見されたのです。しかし発見された佐世保の遺体と荷物からは、先述の通り、鱗とギザギザ十円が無くなっていたんですわ」  安曇はそこまで喋ると、一旦息をついた。 「その殺害方法や凶器と、嘉手納が被疑者とされた理由は?」  核心を訊いてみると、勢い良く喋り過ぎの安曇に代わって、高幡が応えた。 「我々は無くなったギザギザ十円の行方を探した。その十円が荷物に無いのならば、どこかで使用したのだろう。ならば、その十円を見つければ、失踪当日の佐世保の行動がある程度掴めるはずだと考えたんだ。そして島内の、商店、山麓の公園にある自販機の、二カ所からギザギザ十円が発見され、自販機の物から佐世保と佐久山の指紋が検出された」 「二人の指紋以外は?」 「採取されていない。それと山麓の公園の公衆トイレの中に血痕が見つかった。つまり殺害現場は、その公衆トイレだろう。遺体には鈍器で殴られた跡が在った事から、佐世保は、何者かと共に公園に向かい、そこで撲殺されたのだと我々は踏んでいる」 「では、教授に譲渡されたはずのギザギザ十円を使用したのは誰なのですか。指紋は佐世保と佐久山の物しか採取されていないと…。それでは、佐久山が犯人だった可能性が高いのでは」  吾妻は、現在知り得る限りの情報から、当然の推知を述べた。すると高幡は、首を振って応えた。 「確かにギザギザ十円からは二人の指紋しか検出されなかった。しかし佐久山には現場不在証明があるので、佐久山が佐世保と共に自販機のある公園に行き、佐世保の財布にあったギザギザ十円を使ったわけではないはずだ。第一、佐世保は自分で欲しいと言って、佐久山からギザギザ十円を貰ったのだから、せっかく貰ったギザギザ十円を自身が自販機で使用したり、同伴者に譲渡するとは思えない」 「その同伴者が佐久山だった場合、貰ったギザギザ十円を、また佐久山に返すのは不自然ですね」 「つまり、佐久山ではない誰かが、佐世保を殺害した後に、教授の荷物から硬貨を取り出して、自販機で飲料を購入した可能性が高い」  確かに、その通りだ。佐久山が犯人だと目するのは、不自然な点が見られる。 「では、佐世保が使用したのでもなく、同伴者が佐久山だったと仮定する事も出来ないのならば、その佐世保の財布にあったギザギザ十円を使用したのは誰なのです」  それは嘉手納であるとの答えに結びつくのであろうが、吾妻は馬鹿みたいに、その答えへの経緯を自分で考える事を放棄して、答えを求めた。高幡は、その刑事らしからぬ吾妻の疎漏な質問に、不満一つ言わずに丁寧に応えてくれた。 「ギザギザ十円を使用した人間は、自販機に投入する際に、手袋を使用していたのかもしれない。だから佐世保と元々の所有者である佐久山の指紋しか検出されなかったのではないかと考えている」 「自販機でジュースを購入した後、缶のプルタブを開ける際に、厚い手袋をしていると、プルタブに指先の爪を引っ掛けられないから、手袋を外した可能性もあるのでは?」 「その通り。だから我々は、自販機脇のゴミ箱から数個の空き缶を回収すると、その指紋の検出にあたった。そして佐世保を殺害した可能性のある、佐世保が行方不明となった当夜に現場不在証明の無い関係者の指紋と照合してみたんだ。しかし現場不在証明の無い関係者の指紋は、それ等の空き缶の物とは一つも一致しなかった。しかし関係者の中で、嘉手納だけは、指紋照合の協力を拒んだ」 「怪しいですね」 「当然、嘉手納を疑った。そして嘉手納が島内のレストランに行った際に、素手で触って使用したフリードリンクのグラスを手に入れ、指紋を検出しようと試みたんだ。すると確かに嘉手納が触ったはずのグラスからは、指紋が一つも検出されなかった」 「どういう事ですか」  吾妻は、思わず眉根を寄せた。高幡の言う事が理解し難かったからなのだが、あるいは頭の悪そうな反応をしてしまったかもしれない。 「文字通り、嘉手納の指紋は無かったんだ。素手でカップを触ったのにもかかわらず」  高幡が言い終えるか否かに、吾妻の表情を見た安曇が、嬉しそうに笑った。 「当然、今の吾妻さんと同じ様に、我々も困惑しましたが、指紋が検出されないぐらいで、嘉手納に向けた疑いの目を逸らすわけにも行きませんわね。しかし嘉手納を取り調べしたくとも、任意同行は拒否され、なんとか逮捕状を取ろうとしていた矢先に、嘉手納は八丈島から、姿をくらましやがったのですわ」  グラスに嘉手納の指紋が無かったのは、結局謎のままだ。  その後、嘉手納のアパートを捜索したが、ここからも指紋は検出されなかったと云う。恐らく嘉手納は、部屋の指紋を全て拭き取ってから、姿をくらましたのだろう。そして、その一ヶ月後に、嘉手納の本籍地である姫ヶ島で、佐久山助教授が殺害された。  何か因果関係があると睨んでも当然だろう。  その後、姫ヶ島の島民に顔を知られていない、安曇と高幡、そして吾妻の三人での、姫ヶ島に潜入しての内偵捜査が検討されたが、署長がそれを却下した。  秘密裏に捜査を行っても、三人の刑事が共に行動していれば、それと気付かれ警官ではないかと勘繰られる。すると島民は必ず排他的な態度に出る。つまり警官の気配を感じさせた途端に、島民は口を噤む可能性が高いという事だ。それは、佐久山殺害事件に関しての、金城警部達の捜査を見ていれば明らかだった。 「お前が一人で、島に潜入しろ。お前は、見た目が警官の面をしていないからな。その上、まだ姫ヶ島には未踏だろうから、島民に面が割れていない。佐久山殺害と、八丈島の事件は関連している可能性が高い。先ずは、姫ヶ島入りした後の佐久山の行動を洗う事と、嘉手納が姫ヶ島に里帰りしているかどうかの有無を調べろ。その後は、携帯電話で随時指示を出す」  そう言って、署長は吾妻一人を姫ヶ島に送り出した。  別れの桟橋には、安曇と高幡も見送りに来ていた。  ギシリと床が軋む音がした。  振り向くと、老婆が部屋の前に突っ立っている。 「御食事の準備が整いましたので、一階の食堂までおこし下さいませ」  そう呟く様に言うと、老婆は階下に降りて行った。吾妻もその後を追う。  食堂に入ると、煮魚と漬け物の夕食が用意されていた。  夕食を採りながら、『実は私が刑事である事は、既に露見してやいないか』などと、気の弱い吾妻は、そればかり考えていた。  食堂に老婆の姿は無い。  もしかしたら、今頃、刑事が来た事を、他の島民に電話で報せてやいないだろうか、と脳裏に不安が過ぎった。  すると老婆が食堂にやって来て、サービスだからと、一升瓶の泡盛とコップを置いて出て行った。  普段酒は呑まない吾妻としては、どうしようかと悩んだが、せっかくのサービスに手を付けないのも失礼だと思い、部屋に戻って呑もうと、食事を終えると一升瓶とコップを持って階段を上がった。  そして食事の間に敷かれた布団の上に胡座をかくと、酒を呷り始めた。コップの酒を啜りながら、明日からの捜査について考える。  明日はまず最初に、海姫神社に行ってみたいと考えていた。佐久山も確実にそこに行ったはずだからだ。そして、その次が嘉手納の本籍地。  その二つは確りと、自分の目で確認しておかなければならない。  その後は、携帯電話で署長の指示を仰ぎながらの行動となるだろう。  吾妻は鞄を開くと、署から支給された携帯電話を取り出した。心細い潜入捜査に於いて、この携帯電話は、唯一の署との連絡手段となる。  そして、その他に鞄に忍ばせている物を確認した。  まず姫ヶ島の地図。そして全島民の名前と住所が記されたリスト。被疑者、嘉手納隆の顔写真。喜多吾郎の著書。カメラマンを装うためにも役に立つ、鑑識から借り受けた一眼レフカメラ。島民に身分証の提示を求められる機会があるかもしれない事に備えた、偽の身分証。犯人逮捕に必要な手錠。そして拳銃と弾丸十五発。  吾妻は拳銃を手に取ると、まだ弾丸の入っていないそれの作動を確認した。これを使う機会など、無ければ良いが…。  そして、布団の上に広げたそれ等を鞄の中に仕舞い直すと、鞄を枕元に避けて布団の上に仰向けになった。  どれくらいそうして居ただろうか。知らず知らずに吾妻は眠りに就いて居た。そして夢を見た。  人間が水の中で呼吸出来る筈は無いのだから夢に決まっている。  辺り一面は珊瑚礁に囲まれている。そして頭上には、コバルトブルーの水面に、陽光が揺らめく。  何と美しい光景だろう。  一つだけ場違いな物があった。水面に俯せに浮かぶ佐久山の遺体だ。  佐久山の唇が動き、ゴボゴボと泡が漏れる。  吾妻に何かを訴えて居るのだろうか。  しかし、その声は聞き取れ無い。 「駄目だ、何を言っているのか判らない」  夢の中で、吾妻はそう呟いた。  すると、そこで夢から覚めた。  目を開けると、蛍光灯と天井の木目が視界に入る。  突然、携帯電話の着信音が響いた。  慌てて鞄から携帯電話を取り出す。  しかし着信音は鳴っているのに、画面には発信者の表示が無い。  少し躊躇した後、通話ボタンを押して、耳に当てた。 (に…げろ)  絞り出すような声で、そう聴こえた。  かかって来た時と同じ様に、唐突に通話が途切れた。  吾妻は暫くの間、その奇妙な通話について沈思黙考していたが、布団に戻った。  しかし、どうしてもさっきの電話が気になって、まんじりともしないまま夜が過ぎるのを待った。  翌朝、宿で軽い朝食を採ると、まだお日様が高くない内に宿を出た。  港から続く海岸線沿いの道を南に向かって進む。  防風林として、道沿いに植えられたハイビスカスが、まだ眠気眼の瞳に赤く焼きつく。  沖縄では防風林として植樹されたハイビスカスは、嫌になるほど目にするが、この島では何故か、ハイビスカスに混じって椿の木も多く見かけた。  早春に咲く椿は、今は開花していないが、時期になれば道路脇一杯に咲き誇るのだろう。  吾妻は、そんな光景を想像しながら、ハイビスカスに彩られたコンクリートの歩道を進む。  この長閑な沖縄の原風景だけを目にすれば、誰もがそれに見惚れて、ここで凄惨な殺人が行われたなどとは、想像にし難いだろう。だが、この因習と土着信仰の残る姫ヶ島では、その島民の閉鎖的な気質故に、陰惨な密事も起こりうるのかもしれない。  吾妻は歩みを進めながら地図を開いた。  姫ヶ島は、大きく分けて五つのブロックから成り立っている。  まず港のある西側。ここには港に面した姫磯集落があり、民宿青海もこの一画の端っこに位置している。この姫磯の住民は、殆どが漁師で、その外は民宿を営む家が二軒あるだけだ。  次に島の南側。ここは平地が少なく、住居を構える者は皆無に等しく、島の南南西に打ち捨てられた炭焼小屋があるだけだ。だが、この南側には、少し重要な物がある。それは島の中央に位置する、角蛇山の山頂に建てられた海姫神社に登る、階段と鳥居がある事だ。それに鳥居の前には八郎城址と云う史跡もある。そして東側の姫ヶ浜集落と、北側の姫神集落。  今吾妻は、海姫神社に向かうために、島の南側に歩みを進めている。  鞄から取り出した地図を開いて、鳥居までの道のりを確認する。道なりに進んで途中で一度左折するだけだが、その手前に今は使われていない炭焼小屋に続くT字路があるため、鳥居へと続く曲がり角と間違えない様にしなければならない。しかし鳥居に続く坂道の入り口には横に喫茶店がある。その喫茶店を目印にして行けば間違える事は無いだろう。  暫くの間、地図を開いたまま、前もろくに見ずに進む。チラリと視線を右にずらすと、海岸の岩場が見えた。  気付くと、左手に舗装されていない細い道と炭焼小屋が見えた。という事は、あの前方に見える曲がり角の先に史跡と鳥居があるのか。確かに喫茶店らしきアンティークな店舗も目に入った。  鞄に地図を仕舞い、歩みを速める。  坂の下から史跡を挟んで見上げると、中腹の鳥居は良く観光ガイドで見る写真にある、観光名所の格式高い神社の様な立派な物ではなく、有り合わせの木材を繋ぎ合わせて造られたのかと思えるほどに、形だけ神道の物に則った粗末な鳥居だった。  鳥居の脇には、これも風化して粗末に見える木製の立て札がある。ここからは遠くて読めないが、恐らく『海姫神社』と標されているのだろう。そして社があるであろう角蛇山の頂上は遥か彼方だ。 「この坂と階段を上がるには、ちょっと暑過ぎるな」  吾妻は鞄から、ペットボトルを取り出すと、中の水を一口飲んだ。宿の自販機で買った、冷水であったはずのそれは、既にぬるま湯になっている。  兎に角暑い。 「仕方がない、入ってみるか」  吾妻はそう呟くと、喫茶店の軒先を潜った。店内に居たウェイトレスが、いらっしゃいませ、と元気な声を出す。エアコンが効いた店内の室温に、救われた気分になる。吾妻は一番奥手のテーブルに付くと珈琲を注文した。  しかし沖縄県警に赴任して初めての初夏を、まさかこの、噂に聞いていた姫ヶ島で過ごす事になるとは考えて居なかった。  赴任したばかりの、不慣れな沖縄の孤島での潜入捜査に当たらせるのには、確かに不安もある、と署長は言っていた。しかし沖縄の風土に馴染んでいない吾妻だからこそ、島民に疑われずに観光客に成りすませるだろう。それが署長の考えだった。  確かに、この暑さには慣れていない。生まれが北関東の吾妻には、この暑さはかなり堪える。  そんな事を考えながら、珈琲を飲み終える。  レジで清算する際に、 「明日の祭りあるでしょ。ほら結構有名な秘祭。秘祭である事が有名って意味だけどね。あれは、やっぱり島民以外は参加出来ないのですか」  ウェイトレスに訊いてみると、彼女は無言で軽く頷いた。  やはり明日は島に滞在するのが難しいか。では、どうやって明日以降の捜査をしようか。そんな事を思案しながら喫茶店を出ると、史跡に続く坂道を登り始めた。角蛇山の中腹の石垣の史跡に着くと、島の様子が一望出来た。  島の西側の姫磯集落よりも大きな東側の姫ヶ浜集落。あそこは姫磯集落で捕れた魚介類の加工工場があるのと、観光客向けの小中規模の宿があり、海水浴の出来る浜辺もあるため、観光業でも栄えている。それに、島の役場や郵便局、子供が通う学校も姫ヶ浜集落にある。  そして、ここからは角蛇山が邪魔をして見えないが、島の北側のなだらかな傾斜の集落。そこは島で一番古い集落で、この島に最初に人が住み始めたのは、その北側の姫神集落だと云う。  吾妻は山頂を見上げると、鳥居を潜って階段を登り始めた。山頂の境内までは、十分程だった。海姫神社に着くと、境内の木陰のベンチに座り、暫く身体を休めた。  そして携帯電話を取り出すと、署長に定期連絡の電話を掛けた。定期連絡と云っても、今の所、報告する事は何も無い。これから本格的に動きます、とだけ伝えて通話を切った。 そして携帯電話を鞄に仕舞うと、ベンチに腰掛けながら眼前の社を吟味した。  その社は、海姫と云われる妖怪じみた女神を祭っている所を除けば、見た目は至って普通の神道形式の社に見て取れる。  木陰に居たお陰で、汗が引くと、吾妻は社の周りをぐるりと一周してみた。別段変わった所は無い。  しかし、喜多吾郎の著書によれば、明治時代から始まった廃仏毀釈のついでに行われた黒詞弾圧の前までは、ここには神道とも沖縄独特の御嶽とも違う、この島独自の形式を取った聖域が存在していたと云う。  喜多吾郎は、その黒詞弾圧の憲兵隊に付き添って、その失われる黒詞について記録を残す事を許可されていたのだと、著書の序文にある。  昭和初期。それまで外部の者を受け入れず、その信仰に関しても島民以外には秘匿としてきたこの島に、銃を装備した二十名の憲兵隊が来島した。島民は最初、その上陸に抵抗したが、銃を持った憲兵隊の前には、排他的で知られる島民もなすすべが無かったと云う。  この憲兵隊上陸の際の悶着で、島民一人が銃殺され、三人の島民が憲兵隊の横暴により負傷している。  この憲兵隊の来島は、反国家的な淫祠邪教が存在するとの通報を受けての物であったが、憲兵隊は碌に事実確認もせずに、後の海姫神社となるこの聖域に強引に立ち入ると、そこに火をかけ焼き払った。  吾妻は現在の社に近付いて、中を覗き込んでみた。  社の中には野太い角が祀られていた。社の脇に立てられた立て札には、その角が大蛇権現の物であると記されている。もう一度社の角を覗き込んで見る。  そんな風に社の開き戸に張り付いていると、突然背後から声を掛けられた。 「こちらへは観光にいらしたのですか?」  振り向くと、お茶を乗せた盆を両手に持った、赤い袴の巫女らしき小柄な女性が、和やかな微笑みを浮かべて立っていた。  吾妻は慌てて、 「あ、はい、東京から参りました。海岸線を歩いていたら、山の中腹に鳥居が見えたもので、参拝しようかと思って…」  突然の神社の関係者の登場に、内心ハラハラしながら取り繕った。 「そうですか、なかなか島民以外の方の参拝は少ないのですが…」 「え…ええ、私、神社巡りが趣味なもので、つい足が向いてしまって」  緊張から脂汗が吹き出る。  それを見止められたのがいけなかったのか、 「暑い中、御参拝本当にありがとうございます。私はこの神社の巫女で石井と申します。どうでしょう、冷茶でも如何ですか?」   巫女は屈託ない笑顔で勧めて来た。  突然の歓待に、正直吾妻は戸惑った。あまり島民と慣れ合って、口を滑らせて余計な事を言ってしまい、刑事だと露見しては不味い。かと言って、まったく島民と接触せずに、佐久山殺害や嘉手納隆に関する情報が得られるとも思えない。  佐久山が何故殺害されたのかを捜査するためには、来島してからの佐久山の行動を把握する必要がある。それには当然、島民からの情報が必要だ。  まず事件当時の佐久山の行動を洗う事。それと嘉手納隆の帰郷の有無を調べる事。それを捜査するのがお前の仕事だと、先程も署長から重ねて申し付けられたばかりだ。  そこで吾妻は、この巫女から何か聞き出せないかと思い、素直に勧めを呑む事にした。 「私は西野と云います。それでは、御言葉に甘えて、一杯だけ…頂きます」  吾妻は笑顔で応えた。 「そうですか、ではどうぞ」  石井はそう言うと、吾妻に冷茶を差し出した。吾妻は、それを一気に飲み干しながら、まずは世間話程度の話題からと、神社の話を石井に振ってみた。 「そうですか、ここへはあまり観光客は来ないのですね。大蛇権現と云うのは、どんな神様なのですか。角が祀られていて、名前に蛇が付くなら、単純に竜を連想しますが」 「その通りです。大蛇権現様は、ニライカナイから姫ヶ島に来島して、この島を開いた竜神の化身なのです」  ニライカナイと聞いて、吾妻は思い出した。 沖縄県警に赴任して二ヶ月目に結婚した妻から、琉球の開闢神話を何度か聞かされた事がある。  その開闢は、アマミキョと呼ばれる、ニライカナイから訪れた一柱の女神に始まると云う。このアマミキョと云う名前は、アマは『彼方』を、ミは『海』を、キョは『人』を意味しており、訳して繋げると『彼方の海から訪れた人』となる。 琉球では、海の彼方に神の国ニライカナイがあると信じられて来た。 アマミキョはその神の国から訪れた女性なのだから、女神となる。  その姿は青衣を纏い、頭に白い鉢巻をしていたと云う。  ニライカナイからやって来たアマミキョは、最初に久高島に上陸すると、対岸の沖縄本島に渡り、今は浜川御岳と呼ばれる洞窟に住み始めた。  ある日アマミキョは、二羽の鶺鴒が遊ぶ浜に、貝を拾いに行った。  すると、そこでソネヒコと名乗る若者と出会った。 そして後に、二人は三男二女を授かった。長男は首里の国王となり、次男は玉城の城主となり、三男は農民の長となった。 そして長女は神司である聞得大君となり、二女は村の巫女であるノロとなった。  その内、島民が増えると、アマミキョはニライカナイを訪ねて、ニライカナイの神より稲穂を授かる。そして御穂田を拓いて、その種子を播いた。明治時代までは、毎年その御穂田に田植えをして豊作を祈願する祭が行われていたと云う。  吾妻は妻から、そんな話を聞いていたのを思い出した。 「ニライカナイから来島した神と云う事は、アマミキョと同じなのですね」 「ええ、大蛇権現様も、アマミキョ様と同じく、ニライカナイから様々な御利益を島民に授けて下さったのです」 「それは有り難い神様です」  吾妻が、そう愛想笑いをすると、社務所に向かっていた石井は振り向いて笑った。 「良かったら、社務所でおかわりなど、いかかですか?」  石井が微笑む。  今、一杯だけだと、言った筈なのに…。  そして暑い、兎に角日差しが暑い。  暑さにやられたのか、一瞬だけ石井の笑顔が、あの百怪図巻に載っていた海姫の恐ろしげな顔に見えた。  吾妻はそこで、突然背後に気配を感じた。 「…ろ」  耳元で何かが囁いた。  何故か振り向く勇気は湧かなかった。  昨夜の夢の、海中に浮かぶ佐久山の姿が脳裏に想起された。あれは飲酒が見せた、ただの悪夢の筈だ。  再び囁きが聴こえる。 「に…げ…ろ」  酒はとっくに抜けているはずだ。幻聴を聴く筈が無い。  巫女が笑って、社務所の扉を開けて手招きしている。  その視界が陽炎の様に揺れて薄らいで行き、意識が遠のいて行く。熱中症か。吾妻は心の中で呟いた。  そして、そのまま地面に倒れ込んだ。  波打ち際に座る、その少年は、何処か遠い最果てでも眺める様に、水平線から視線を外さずに、辰哉に声を掛けた。  夏休みに兄と二人で、この姫ヶ島を訪れていた武蔵野辰哉は、一人で海岸線を歩いてみたいと兄に断って、島の南東の浜辺を散策していた。  岩場を抜けると、彼は居た。 「何処から来たの」  少年は背中を見せたまま振り向きもせずに、辰哉の気配を感じだのか、唐突にそう訊いた。  辰哉はその突然の呼びかけに、自分が話し掛けられたのかと戸惑い、周りを見回してみたが、やはり自分と浜辺の少年以外には、この場には他に誰も居ない。 「僕の事?」  辰哉が、少年の背中に訊き返すと、少年は微かに肩を揺らして返事をした。 「沖縄の人じゃないね」  それは話し方のアクセントから、少年はそう判断したのだが、図星だった辰哉には、少年が魔法でも使って、それを見破ったのかと錯誤を起こさせた。 「東京から来たんだ」  辰哉が応えると、少年は漸く振り向いて顔を向けた。  褐色の肌が、切れ長の大きな一重の透き通る様な白眼と、良く陽光を映す黒眼を引き立てていて、厚目の唇と力強い鼻骨をしていた。結った長い黒髪と、華奢な身体を見た限りでは、少女と見間違うかもしれない。年頃は辰哉と同じくらいに見える。 「僕、辰家リョウ。君は?」  その名前を聞いて、辰哉はやや驚いた。 「タツヤリョウ?僕は、ムサシノタツヤ。同じタツヤだね」 「同じじゃないじゃないか。君は下の名前がタツヤなんだろ。東京から来た高校生かい?」 「うん、東京の高校生だよ。昨日の朝に、この島に着いたんだ。君はこの島の子?」  辰哉は、少年の衣服の生地が、沖縄独特の芭蕉布であるのに気付いて訊いた。 「生まれも育ちもこの島だよ」  そう言ってリョウは、辰哉を吟味する様に上から下まで舐め回す様に眺めた。  辰哉もそれに気付いて、まだあどけない色白の顔を赤らめて、円らな瞳を節目がちにして戸惑った表情を見せた。  するとリョウは微笑して言った。 「初めて来たのなら、島を案内してあげるよ」  リョウは立ち上がると、辰哉の片手を掴んだ。そして浜を早足で歩いて、辰哉を連れて行く。 「まずは史跡と神社に案内するね。その後は…、色々連れてってやるよ」  辰哉は自分の掌に触る、リョウの柔らかな指先の感触に、胸の鼓動を早くした。  そしてリョウのなすがままに、浜辺を早足で付いて行った。 額にひんやりと触る冷たい感触に目を覚ました。視界に見えるのは、見慣れない天井と、吾妻の額に濡れタオルを置いたばかりの、か細い指先だ。  ここは何処だろう。  確か先程まで、海姫神社の境内で、石井と名乗る巫女と話をしていたはずだ。その後、ニライカナイの話題が出て、社務所に入る所で意識が途絶えた。  失神する直前に、混濁する意識の中、昨夜の電話で聴いたのと同じ声を耳にした気がする。  天井が見えるという事は、失神した私を、その後、誰かが家屋に運び込んだのか。  吾妻は、朧気な記憶との対話から、意識をはっきりさせると、半身を起こした。  すると傍らに居た石井が言った。 「たぶん、軽い熱中症か何かでしょう。突然、倒れられたから、驚きました」  そういえば、倒れる前に、兎に角暑かったのを覚えている。 「ここは、社務所ですか」 「ええ、西野様は身体が大きいから、運び込むのに苦心しました」  小柄な石井にとっては、自分を社務所に運び込むのは、さぞかし大変だっただろう。  吾妻はそう考えながら、熱中症の余韻なのか、吐き気を催す火照る身体に不快感を感じつつ、額からだらしなく垂れる濡れタオルを片手で外した。  そして畳の上で胡座をかいて、周りを見回す。 「小綺麗な社務所ですね。良く清掃も行き届いていりのが判ります。石井さんの性格でしょうか」 「神様にお仕えする身ですから、手抜きは出来ません。神様は、何でもお見通しですから、怠慢は直ぐに、身に降りかかる神罰に変わります」 「海姫様は、厳しい神様ですね」 「とても怖い神様です」  そんな雑談をしながら微笑み合っていると、窓から吹き込むささやかな微風の気持ちよさに、二人の会話が止んだ。そして吾妻はふと我に帰った。海姫様の厳しさの話しよりも、佐久山のこの島での行動や、嘉手納の消息について訊かなければいけなかった筈だ。 「つかぬ事を伺いますが、この島出身の嘉手納さんという方を御存知ですか?」 「嘉手納…と云うと、隆君の事ですか?嘉手納隆君なら、小学校が同じで、同級生でした。けど、どうして?」 「そう、その嘉手納隆さんです。嘉手納さんとは知り合いで、最近音信不通なので、どうしているかと思いまして…」 「隆君に会うために、来島なされたのですか?」 「いえ、沖縄の島々を巡って琉球の文化を満喫するのが、旅行の目的です。この島に来たのは嘉手納さんを訪ねに来たわけではありませんが、来島した際に、ふと嘉手納さんがこの島出身であるのを思い出して、今頃どうしているかと気になって…。嘉手納さん、実家に戻っているのでしょうか」  嘉手納の帰郷の有無と、それを知りたがる嘘の理由を前置きして質問してみると、石井は笑顔で応えた。 「私も隆君とは、久しく会っていませんわ。何年か前に彼が島から引っ越して以来、音沙汰無しです。確か泳ぎが得意で、伊豆でダイビングのインストラクターをすると言って引っ越して行ったと覚えています」 「そうですか、私も嘉手納さんとは、もう何年も連絡してなくて…。八丈島に旅行した際に、彼が趣味であるダイビングの話を、得意げに語っていたのが懐かしいです」  嘉手納との知り合いを装うために、適当に話を合わせた。 「隆君は、この姫ヶ島以外に行く所も無い筈だから、八丈島に不在ならば、実家に戻っているかもしれません。でも、隆君が戻って来ているなんて話しは聞いていないから、戻っているのに噂を聞かないのだとしたら不自然ですね。この島に居るなら、隆君を見かけた人から、自然と噂が広がる筈です。何せ狭い島ですから、噂なんてあっという間です」 「じゃあ、帰郷はしていないのだろうか…」 「まさか帰郷したのに、人目に触れずに実家に閉じこもっているはずは無いですわ。帰郷したならば、私も知っている筈です」  普通なら、そう考える筈だろう。しかし八丈島で殺人事件を起こしたかもしれない身であるならば、帰郷しても実家に引きこもっている可能性は高い。 「嘉手納さんの実家は、確か島の北側の姫神集落でしたよね」 「ええ、姫神集落の南の端っこですわ」  そう応えた石井の表情が、一瞬引きつった気がした。その石井の一瞬の表情に、吾妻は何かの手応えを感じた。姫神集落に向かう意志を見せたら、彼女は表情を引きつらせた。   それはつまり、吾妻の勘の申す所、やはり嘉手納隆は帰郷しているのではないか。彼女はそれを隠そうとしている。  ついでに佐久山に付いても問い質そうかと思ったが、深追いして警察官だと感づかれるのを恐れ、それは思い留まった。 「そうですか、では嘉手納さんは帰郷されていないのですね」 「そう思いますわ」  吾妻は本心とは裏腹に、残念そうに項垂れて見せた。そして腕時計を見やると、 「もうこんな時間か、そろそろお暇しないと…」  呟いて、立ち上がった。  熱中症の余韻で、まだ足下のふらつく吾妻は、石井に深々と頭を下げて介抱の礼を言うと、荷物を肩に担いだ。そして壁に寄りかかりながら畳を歩いて、社務所を出ようとした。 「大丈夫ですか。もう少し休んだほうが宜しいのでは…」  石井の気遣いに、大丈夫です問題ありません、と応える。そして社務所から出る際に、心配する石井に会釈をして、別れの言葉を述べると、境内に出た。  外はお日様が、丁度真上に来ていて、今が一番暑い時分だ。  境内から階段に移動して、それを小走りで駆け降りる。  階段を降りると、遺跡が見えた。遺跡から先は、なだらかな下り坂になる。  その遺跡に差し掛かった所で、突然声を掛けられた。  振り向くと、石垣の遺跡の陰から、縁無し眼鏡を掛けたロングヘアーの女性が現れた。何処かで見た事がある。そうだ、朝の喫茶店で横のテーブル席に座っていた女性に間違いない。  女性は、徐に近付いて来ると言った。 「貴方、警察の方ですか?」  警察の人間かと問われて、吾妻は冷や汗を流した。 「何故、警察の人間だと?ただの観光客ですが…」  発汗しながら嘘八百を申し上げる。 「喫茶店で、貴方がお尻のポケットから財布を出した際に、ワイシャツが捲れ上がって、ズボンに挟んだ拳銃が見えたのです」  吾妻は、そんな失態を自分がやらかしたのかと知って、顔面蒼白になった。 「それで、私が警察官ならば、何の御用が?」 「もしかして、佐久山助教授の捜査の最中なのかと思って声を掛けました」  この女は島民だろうか。いや、それにしてはアクセントが沖縄人らしくない。 では何故この島で起こった佐久山殺害事件を知っているのか。マスコミは、まだ報道していないはずだ。  佐久山の殺害事件を知っていて、警察関係者でもなく、島民でもないならば、後は佐久山の身近な人間しかいない。 「貴女は、何処からいらしたのですか?」  すると女性は、辺りを警戒する様に見回した後、声を殺して言った。 「私は、稗田ゆきみ。佐久山助教授の教え子です」  そして何かを懇願する様に、吾妻を見詰めた。 途中、二人の男女とすれ違い、坂を登ると、そこには石垣の遺跡があった。坂道の上の広場の西側に、長さ二十メートル程の石垣が拵えられていた。  ここがハチロウグスクだよ。リョウは遺跡の石垣の上によじ登ると、両腕を広げながら言った。 「グスクって確か、沖縄の言葉で城の事だよね。誰が造った城なの?」 「鎮西八郎為朝っていう、大和の偉い御武家さんだよ」  辰哉が訊くと、リョウは青空を見上げたまま応えた。 「だから八郎城なんだね」 「登って来てごらん」  リョウはそう言って、石垣の上に跪くと辰哉に手を伸ばした。 「高い所は苦手なんだ」 「それは残念。景色が良いのに」  しかし辰哉が背を向けると、リョウは石垣の上で這いつくばって両腕を伸ばし、辰哉のTシャツの袖を掴んだ。 「何だよ!何するんだよ!」  そのままリョウは、辰哉の両脇を掴むと、彼の体を石垣の上に引き上げ様とする。 「判ったから、判ったって。自分で登るよ」  石垣の途中まで引っ張り上げられた辰哉は、リョウに掴まれながら身体の向きを変えると、自分の四肢で石垣を登った。  そして辰哉が登り切るのを待っていたリョウがやっていたのと、同じポーズを取ってみた。二人して、石垣の上で両手両足を大の字に開き深呼吸する。 「気持ち良いだろ。為朝になったみたいで」 「為朝は、ここでこんなポーズを取っていたの?」 「これが一番、ここからの景色を眺める時に気持ち良いポーズなんだから、当たり前だろ」  武士たる者である為朝も、そんな稚気に溢れる御巫山戯をやっていたなんて信じられない。 「あそこを見て」  リョウは島の東側の大洋を指差した。  青い珊瑚礁が何処までも広がっている。 「あそこにニライカナイがあるんだ」 「ニライカナイ?」 「沖縄の人達が、神様の住む楽園と言っている理想郷さ。沖縄人の魂は、亡くなると、あのニライカナイに向かうんだ」 「リョウも?」 「僕も何時かね。あの楽園に。辰哉も行きたい?」  リョウが辰哉の顔を覗き込んだ。 「僕は…」  そんな楽園があるなら行ってみたい。でも、こちらの世界に戻ってこれなくなるのは困るな。あ、でも行くのは、死んでからだから、どちらにせよ現世には戻れないか。  辰哉はそんな事を取り留めもなく考えいた。 「行きたくないんだね…」  辰哉の表情を伺っていたリョウは、少し残念そうに呟いた。 「じゃあ、判った。次はこの階段を登った上にある、海姫神社に向おう」  そう言って、リョウは辰哉の腕を掴んで石垣から飛び降りた。  危うく着地に失敗して、地面に転倒する所だった辰哉が、リョウを睨む。  リョウは、そんな事は気にも留めずに、辰哉の腕を引っ張って階段を駆け上がって行った。 吾妻と稗田は、取り敢えず朝訪れた坂道の下の喫茶店に入店した。  吾妻達二人が今日二度目の入店をすると、カウンター内に居たウェイトレスは、怪訝な表情を一瞬見せたが、直ぐに笑顔を作り直した。  吾妻は稗田を連れて、店内の一番奥のテーブルに着席した。 「じゃあ、貴女は佐久山助教授の殺害事件を御遺族から聞いて、佐久山の身に何が起こったのか、事実を確かめ様と来島したのですね」 「はい、それと慰霊のためでもあります。殺害現場に花を手向けようと…。でも殺害現場が何処なのか、島の人に訊いても具体的に判らなくて」  そこに丁度ウェイトレスが、水の入ったグラスを二つ持って来た。  一旦会話が止まる。  珈琲を二つ注文すると、ウェイトレスは戻って行った。  吾妻は横目でウェイトレスがカウンター内に入るのを確認すると、小声で会話を再開した。 「佐久山助教授の殺害現場は、警察の捜査でも、まだ具体的に判明していません。貴女は佐久山助教授の教え子だと言っていましたが、伊豆の国大学の学生さんと云う事で宜しいのですか」  そう訊ねると、稗田は鞄から学生証を取り出して、それを提示した。確かに伊豆の国大学の学生で間違いない様だ。専攻は歴史民俗学だと云う。  慰霊のために、わざわざ静岡県の伊豆半島から来訪する程だから、佐久山助教授とは別段良好な師弟関係だったのだろう。 「佐久山助教授とは、よほど仲が良かったとお見受けします。大事な師を亡くされて、辛い想いをされた事でしょう」 「佐久山助教授とは、大学に入ってから知り合ったわけではなく、もともと叔父と助教授が知り合いで、子供の頃から何度か面識があったのです。それで入学してからも目を掛けていただいて、メールアドレスも教えていただいたりして、勉学以外にも色々と相談に乗ってもらったりしていました。佐久山助教授が亡くなる当日も、メールのやり取りをしていたんです」  それを聞いて、吾妻は驚いた。佐久山の荷物は宿泊先から回収されているが、殺害された当時に身に付けていたと思われる衣服と財布、そして携帯電話がまだ発見されていない。だから警視庁も沖縄県警も、佐久山の携帯の通話やメールの履歴から、当日の佐久山の行動を伺い知る事は、まだ出来ていないはずだ。 「その送受信記録を警察関係者に提供された事は?」 「いえ、そういう事はしていません…どうしてですか」  ならば、稗田の携帯電話にある、佐久山とのメールの交信記録を閲覧すれば、警視庁も沖縄県警もまだ掴んでいない重要な情報が確認出来るかもしれない。  そこにウェイターがカップに淹れた珈琲を二つ持って来た。 「珈琲になります」  ウェイターが笑顔を見せながら、カップを二つ、テーブルに置く。 「ありがとうございます」  稗田がウェイトレスに笑顔で応える。そしてウェイトレスが去ると、吾妻は話を続けた。 「佐久山助教授が所有していた携帯電話は、まだ発見されていないのです。だから貴女の携帯電話にある、その佐久山助教授とのメールの送受信の記録は、佐久山助教授殺害事件を捜査するのに、重要な糸口となるかもしれません」 「そうだったのですか。私、佐久山助教授の携帯電話が発見されていない事を知らなかったので、このメールのやり取りは、とっくに警察の方も知っていると思っていました」  そう言って、稗田は鞄から携帯電話を取り出して、吾妻に見える様に佐久山と送受信したメールの画面を開く。  佐久山と稗田がやり取りしたメールは、まとめると次の通りだ。メール文の頭には、送受信時間、送信者の苗字、件名を順に示している。 9:15・稗田・おはようございます・お久しぶりです。フィールドワークに行かれたとお聞きしました。また飛鳥路ですか? 9:20・佐久山・おはよう・半月ぶりだね、元気にしていたかい。飛鳥じゃなく、今回は沖縄だよ。 フィールドワークというのも、ちょっと違うかな。 9:40・稗田・沖縄行きたい・沖縄良いですね。ニライカナイの海で泳ぐの素敵です。美ら海の写真、送信して下さい。 9:50・佐久山・ニライカナイの海・昨日訪問した神社と、美ら海の写真を送信するよ。 その写メールには、先程まで吾妻が居た、海姫神社の本殿を撮影したと思われる物が一点と、何処かの高台から海を撮影した物が一点あった。海姫神社の本殿を正面から撮影した物は、南を向く社の右側に影が伸びている。つまり、佐久山が殺害される前日の七月二十日の午後に、海姫神社で撮影された物だろう。その写真には、ファインダーの左側に立つ人物の影が、境内の玉砂利に写っている。佐久山は北に向いてカメラを構えていた筈だから、恐らくこれは佐久山の影ではなく、別の誰かの影だけが写り込んだのだろう。  次に美ら海の写真。これは写真を見る限りでは、何処かの高台から海を撮影した物に見える。写真には、灰色の屋根を持つ、高い防風壁に囲まれた家々の向こうに、青い海が輝いていた。そして画面の右から陽光が差して、建物の影は左に伸びている。  昨夜宿泊した姫磯集落や、史跡から眺めた姫ヶ浜集落には、この様な住宅地は見られなかったから、これは島の北側の風景である可能性が高い。だとしたら、影の向きから察するに、これは午前中に撮影された物だろう。  海姫神社の写真が、稗田とメールの送受信をする前日に撮影された物である事は、佐久山のメールの文面と写真の被写体の影の向きからも判る。しかしこの美ら海の写真は、稗田とメールのやり取りをしている最中に、稗田から写メールの送信を頼まれた後に撮影された物かもしれない。写メールの送信時間が、写真にある住宅から伸びる影の長さと向きに一致する。  そこで、ふとある事を思い出した。確か嘉手納の本籍地となっている住所は、この島の北側の姫神集落ではなかったか。その北側集落に佐久山が訪れていた。  佐久山が一ヶ月前に関わった八丈島での佐世保教授殺害事件。その被疑者である嘉手納隆の出身地が、この佐久山殺害の舞台となった姫ヶ島である。それが判明した時点から予想されていた事だが、やはり佐久山は嘉手納に会うために姫ヶ島に来島したのではないか。  それがどんな理由だったかは不明だが、佐久山には八丈島から失踪した嘉手納を追いかけたい理由があって、この島の北側集落にある嘉手納の実家に向かったのかもしれない。  島に着くと、佐久山はまず、海姫神社に参拝した。そして本殿の写真を撮影する。その写真にある佐久山以外の影の正体は、巫女の石井の物かもしれない。佐久山は海姫神社で石井と出会い、嘉手納の実家の住所を訊いた。石井は嘉手納とは幼なじみで実家を知っていると言っていたし、佐久山の立場から考えても、島民が皆、海姫神社の氏子ならば、神社の関係者に訊けば嘉手納の実家の住所も判明するだろうと考えて、石井にそれを訊ねて知ったのかもしれない。  そして翌日の午前中に、佐久山は嘉手納の実家に向かった。  そこで稗田から沖縄の写真を送信してほしいとメールがあり、昨日の海姫神社の物と、その場で撮影した美ら海の写真を送信した。  しかし稗田とメールでやり取りする暇があったと云う事は、その場で嘉手納に会えた訳ではなさそうだ。もし嘉手納と久し振りの対面中ならば、メールなどやっている場合ではないだろう。恐らく、留守だった嘉手納を待って、暫くその場に待ちぼうけていたのではないか。だから稗田とのメールのやり取りも出来た。  吾妻は、佐久山の行動をそう推理した。  この高台からの写真が、果たして佐久山が待ちぼうけていた際の、嘉手納の実家から撮影された物かどうかは、実際に島の北側の嘉手納の実家に行ってみれば判る。  そして写真と景色が一致すれば、佐久山が嘉手納との再会を目的に姫ヶ島に来島したとの推理も間違いはないだろう。  その確証が持てたら、安曇と高幡に連絡する必要がある。それに嘉手納の実家に行くならば、嘉手納の帰郷の有無も確かめて連絡するのが当然だ。 「ありがとうございます。この写メールは、重要な参考となります」  そう礼を述べると、 「お役に立てたのなら光栄です」  稗田は嬉しそうに笑った。  吾妻は、直ぐに姫神集落に向かおうかと思ったが、まだ注文した珈琲に手を付けていない事を思い出した。稗田もまだ、珈琲を飲み干していない。  嘉手納の実家に向かう前に、少し休憩しようと取り敢えずカップを口に運んだ。 暫くそうして、二人で珈琲を飲んでいた。吾妻は佐久山が嘉手納を追った理由をあれこれと想像していたが、沈黙に堪えられなくなったのか、稗田が口を開いた。 「八丈島の近海から、海底遺構が発見された時の、佐久山助教授の嬉しそうな顔が、今でも忘れられません」  そういえば、吾妻はその海底遺構について詳しく知らない。 「海底遺構と云うのは、どんな物なのですか。随分前から、沖縄の海底に人工的に造られたとしか考えられない、遺跡らしき物が幾つも発見されていると云うニュースは耳にしています。それと類似した物なのでしょうか」 「沖縄の海底人工物は、昔、沖縄が琉球古陸と呼ばれる陸橋だった頃に、地上に造られた構造物が、海面上昇や陸橋の崩落で海底に沈んだ物とも言われています。だけど八丈島の海底遺構は、地上にあった物が沈んだと云うよりも、何者かが地上から海底に持ち込んで沈めた物ではないかと、佐久山助教授は考えていた様です」 「地上から運搬して沈めたのならば、沖縄の海底人工物の様に巨大な物ではなく、もっと小振りな物なのでしょうか」 「大きさは、縦横共に三メートル程の正方形の岩盤で、その上に長さ一メートル幅五十センチ程の石棺が乗っていました。その岩盤の四隅には、柱が立っていたのであろう四つの穴がありました。柱があったと云う事は、元々は屋根や壁のある小屋の様な造りの中に、その石棺が収められていたのだと思います」 「例の鱗と云うのは、その石棺の中から発見されたのでしょう」 「はい、鱗を祀った社か何かだったのではないかと、佐久山助教授は推知していました」  そこまで聞いて、吾妻はカップの底の珈琲を飲み干した。 「それと…」  稗田が言い掛けて止めた。 「それと?他にも海底遺構から何か見つかったのですか」  稗田は、少し考えた振りを見せてから言った。 「佐久山助教授から、石棺の写真を見せてもらいましたけど、石棺の蓋にはレリーフがありました。人頭蛇体の何かを描いたレリーフです」  それを聞いて、吾妻は喜多吾郎の著書にあった海姫の挿し絵を思い出した。 「人頭蛇体、この島で崇拝されている海姫に似ていますね」 「はい、正に」  吾妻には何故、姫ヶ島の神と八丈島の海底遺構が繋がるのかは判らなかったが、佐世保教授殺害事件と佐久山助教授殺害事件が嘉手納隆と云う人物により繋がる様に、その海姫により繋がる姫ヶ島と八丈島にも、何かまだ暴かれざる秘密があるのではないかと興味を感じた。  しかし、そろそろ嘉手納の実家に向かわねばならないからと、海底遺構の話を終わりにして、稗田に別れの挨拶を告げた。  すると、稗田に姫神集落までの足はあるのかと心配された。確かに、この島にはバスも走っていないので、徒歩で向かうしかない。  そう応えると、なら私が旅館から借りているレンタカーを使えば良いと勧められた。 「旅館がレンタカーを貸してくれているなんて知らなかった」 「私が昨夜宿泊したのは、姫ヶ島の村長の家族が経営している旅館で、島で一番大きな宿なんです。レンタカー業務以外にも、レンタサイクルやレンタボートなんかもやっているみたいです」  そんな会話をしながら、レジで清算をして喫茶店を出た。  そして遺跡に登る坂道の下に路上駐車してあった、赤いレンタカーに向かうと、稗田が運転席に、吾妻は助手席に乗り込んだ。 「ここが海姫神社。大和の神社と変わらないだろ」 「うん。もっと沖縄のガイドブックで見た様な御嶽みたいな感じかと思ってたよ」  階段を登り切り、境内の玉砂利を踏みながら、二人は話す。  リョウは突然走り出し、社の両開きの扉の前にある三段の階段を飛び越えて、格子の扉から社の中を覗き込んだ。  そして辰哉を手招きする。 「ねえ見て、あれが御神体だよ」  辰哉も駆け寄って、リョウを真似して、格子の隙間から中を覗いてみる。社の中には、角笛の様な物が祀ってあった。 「あれは、この島を最初に治めていた神仙の頭にあった角なんだ。神仙はニライカナイから来た竜の化身で、あの角で為朝の娘のホトを突いたら、この神社の御神体である海姫が産まれたのさ」 「ふ~ん、不思議な話しだね」  辰哉にとっては、それはとても物珍しく、何時までも神仙の角を眺めていた。  その様子を見て、リョウは笑った。 「辰哉、楽しそう」 「うん、かなり楽しいよ。こんなの初めて見た」 「じゃあ、次はもっと面白い物を見せてあげる。付いて来て」  リョウは社の裏手に回り込むと、玉砂利の境内から、境内を囲む林の中に分け入って行く。 「何処に行くの」 「いいから付いて来て。この獣道を進むと、アブがあるのさ」  リョウは歩きながら話す。辰哉はその後を追い掛けながら訊く。 「アブって何の事?」 「アブってのは沖縄の言葉で、大和の言葉に訳すと穴の事だよ。洞窟とかの」  獣道は葛折りになっていて、ぐんぐん下って行く。 「その穴に何があるの?」  しかしリョウは、突然口を噤んで喋らなくなった。 そうして暫く歩くと、山の中腹の開けた場所に出た。  そこには蓋をされた、大きな井戸があった。  リョウは、その井戸に近寄り、蓋をずらして井戸の脇に落とした。 そして井戸の中を指差して、「見て」と辰哉に言った。  辰哉も井戸に近寄る。  井戸の中には、縄梯子が垂れ下がっていた。 「ここを降りるの?」  辰哉が面食らって声を上げる。 「そう、ここを降りるの。さあ、早く行こう」 「で、でも、何で降りなきゃいけないの」 「下に見せたい物があるからだよ」 「こんな穴の中に?」 「秘密基地みたいな物さ。秘密基地は中々大人に見つからない場所に造る物だろ」 「ちょっと…怖いな」 「僕が一緒だから大丈夫。それに秘密基地に着いたら、二人で話したい事がある」  そう言われて、辰哉は井戸の中を再び覗き込んだ。  縄梯子があるから、落ちたりする事は無いだろう。それに地上に戻れなくなる事も。 「じゃあ、僕が先に行くから付いて来て」  リョウが井戸の縁を跨いで中に入る。縄梯子がリョウの動きに合わせて揺れる。 「早くぅ」  リョウの声が井戸の中で反響して、辰哉の耳にも届く。  辰哉は勇気を振り絞ると、井戸の縁に足を掛けて、縄梯子を降り始めた。 そして足下から吹き荒む冷たい風に身震いした。  島の南東にある喫茶店を出た吾妻と稗田は、そのまま島の東の観光業を中心に成り立つ姫ヶ浜集落を北上した。島の東側には、昨夜吾妻が宿泊した島の西側にある港町とは違い、洒落たペンションや旅館が軒を連ねていた。海岸沿いの通りには、土産物屋や小振りの繁華街らしき裏路地も見えた。  しかし浜辺には、観光客の姿は疎らだ。  明日の秘祭に備えて、今夜はどの宿も観光客の受け入れを拒否しているせいか、もう大半は、定期船に乗って島を離れ始めているのだろう。  浜辺に疎らな、海水浴客の姿も、夕方には全く姿を消す筈だ。  観光集落を抜けると、左手の山と、右手の海岸沿いの岩場に挟まれた細い道路に出た。  道は大きく左にカーブする。そして暫く進むと、平地に近いなだらかな傾斜に、高い防風壁に守られた家々が、犇めき合う様に建ち並ぶ集落に入った。  喜多吾郎の著書によれば、この島の北側に位置する姫神集落は、姫ヶ島で最も古く、姫ヶ島に人が住み始めた最初の集落だと云う。  稗田がアクセルを踏む力を緩める。二人が乗る自動車は集落の中をゆっくりと進んだ。  嘉手納の本籍地となっている住所は、地図で確認した所、斜面の上の方、殆ど高台に近い場所に位置している。  稗田に指示して、車をその嘉手納の本籍地に向かわせた。車が坂道を登り始める。  沖縄県警の調べによれば、姫ヶ島の嘉手納の本籍地には、現在誰も居住していない筈だ。  嘉手納隆の両親は、七年前に事故で亡くなっており、嘉手納隆はそれに合わせて、八丈島に転居している。つまり無人の廃屋の筈なのだ。  しかし、佐久山は帰郷した嘉手納を探して、この姫ヶ島に来島した可能性がある。  果たして嘉手納は、佐久山の目当てどうりに、実家に戻っていたのだろうか。 「止めてくれ、あそこかもしれない」  吾妻は、古ぼけた崩れかけの防風壁のある一軒家に、『嘉手納』の表札があるのを見付けて、稗田に停車する様に指示した。  『嘉手納』の表札のある家の、屋内からは防風壁が邪魔をして死角になる位置に車を止めると、稗田には車外に出ない様に言い渡して、吾妻は一人で車を降りた。そして爪先立ちで背伸びをして防風壁の中を覗いて見る。  平屋の一軒家の縁側が見えた。雨戸は閉められていない。  七年前に嘉手納隆が八丈島に転居して、長く実家を離れるのが前提だったのならば、雨戸くらい閉めて行きはしないか。ならば今こうして、雨戸が開いているのは、嘉手納隆が戻って来ている証かもしれない。  次に、入り口に回ってみた。  防風壁の切れ目から、敷地の庭に入る。そこで振り返って集落の北の美ら海を眺めて見る。間違いない、佐久山の写メールと同じ景色だ。佐久山は間違いなく、ここに来たのだ。吾妻はそう確信すると、再び嘉手納の実家に向き直った。  警察としては、この廃屋に嘉手納隆が居るのか居ないのか、確認する事が重要だ。もし嘉手納隆の所在がここにあるのならば、直ちに沖縄県警本部で待機している安曇と高幡に知らせる必要がある。  しかし、ここに嘉手納隆が戻って来ているのならば、その身に警察の手が迫っている事を気付かれたくない。  取り敢えず吾妻は、足音を起てずに、平屋の周囲を一周してみた。  だが、どの窓にもカーテンがしてあり、屋内の様子を伺い知る事は出来ない。  平屋の周囲を一周して、玄関の引き戸の前に戻ると、思い切って引き戸に手をかけてみた。もし鍵が掛かっていないなら、それが嘉手納隆かどうかは不明でも、ここには誰かが居て、この建物を使用しているという事だろう。その誰かとは、嘉手納隆である可能性が極めて高い。  引き戸に掛けた片手を横に動かしてみた。引き戸はカラカラと音を発てて開いた。しかし玄関には靴が一足も無い。靴箱も無いのだから、鍵が開いているだけで、誰も居ないという事か。  玄関から屋内を眺めると、全室襖の開け放たれた屋内には、家具も何も無い和室が三室あるのが判った。玄関から見て、一番手前に横長の十畳程の部屋が一つ。その奥に、五畳程の小部屋が二つ。要は、この平屋は正方形の形をしている。そして玄関は、そのまま土間に繋がっている。  吾妻は、土間の竈に寸胴の鍋が置かれているのに気付いた。鍋が竈に置かれているという事は、やはり誰かがここで生活しているのか。  吾妻は、玄関から土間に移動して、竈の前に立った。  鍋の中は空だろうか。そうならば、生活の痕跡とは言えず、嘉手納隆の帰郷の証拠とはならない。しかし鍋に中身があれば、嘉手納隆の帰郷の可能性を安曇と高幡に連絡する必要がある。  吾妻は、鍋の蓋を思い切って開いた。中には醤油か何かの煮汁が溜まっていた。  その真っ黒な煮汁の水面から、何かの体毛がはみ出している。 「何だ?これは…」  吾妻は、煮汁に沈んでいる物を確かめようと、鍋を手前に傾けた。煮汁が鍋の片面に寄って煮込まれていた物が姿を現した。  吾妻は、思わず悲鳴を上げた。  鍋には、大量の鼠が煮込まれていた。  気色の悪い料理に、暫く呆然としていると、今の悲鳴に気付いた稗田が車を降りて来て、玄関から顔を覗かせた。 「何かあったのですか?」  稗田が、眉根を寄せて訊く。 「あったけど、見ない方がいい」  そう言って、吾妻は鍋に指を入れた。かなり熱い。この鼠を調理した人間は、まだそう遠くには移動していないだろう。  そして鼠の死骸を見るのに堪えられなくなって、視線を鍋から反らして振り返った。  先程玄関から屋内を見渡した時は死角になっていて気付かなかったが、土間から見渡すと、向かって左手奥の部屋の右側の壁に、大量の写真が貼り付けられているのが見えた。 「もう、ここまで不法侵入したのならば、同じだよな」  吾妻は、そう呟くと、靴を脱いで板張りの室内に上がった。稗田も、それに続く。  何十枚と云う写真が、無造作に貼り付けられた壁に近寄って、良くそれを見てみる。  写真には、吾妻が勤める警察署の玄関口が写っており、そのどれもに署を出入りする渡嘉敷署長や金城警部、それに仲間刑事や他の警察官の姿が写されていた。  その被写体の殆どが、佐久山殺害事件を担当した刑事や制服警官ばかりだ。 「いったいコイツは、どういう事なんだ…」  吾妻は、思わず呻いた。  嘉手納は、もしかすると、他の島民と共に、佐久山殺害事件に関して、姫ヶ島に出入りしていた警察官を監視していたのか。  そこまでする理由はいったい何なのか。 「吾妻さん…これ…」  稗田が写真の群れの、一番端にある写真を指差した。  その指差された写真には、署から出て来る吾妻の姿が写されていた。  その下の写真には、渡嘉敷署長と安曇と高幡に見送られて、姫ヶ島に向かう漁船に乗り込む吾妻の姿も撮影されていた。  潜入捜査など、最初から島民にとっては予想の範疇で、それを見越した監視の目に堂々と引っ掛かっていたのだ。  青海の婆さんも、喫茶店の店員も、神社の巫女も、みんな自分を刑事だと知っていて、素知らぬ顔をしていたのかもしれない。  吾妻は、急いで車に戻ると、荷物から携帯電話を取り出して、署に連絡を取ろうとした。  しかし携帯電話は、ボタンを押しても電源が入らない。良く見ると、携帯電話のボディから、水滴が滴り落ちている。  誰かが、携帯電話を水に浸けて壊したのだ。  だけど誰が…。  今朝、神社の境内に居た時は、携帯電話を使用出来たのだから、壊されたのはその後だ。つまり壊したのは、石井しか居ない。  吾妻が熱中症で失神している内に、破壊したのだろう。  他の所持品も何かされていないか確認したが、問題は無かった。  一番の命綱となる、ズボンと尻に挟んであった三十八口径回転式拳銃とポケットの弾丸は、石井も気付かなかったのだろう。拳銃は悪戯されておらず、正常に作動する事が確認出来た。  携帯電話を破壊された隙を与えた自分も悪いが、よくよく考えてみると、あの神社での冷茶を飲んだ後の不自然な失神も、熱中症ではなく、何か一服盛られたのではないかと疑いが湧いて来る。  それは、西野と名乗る男が嘉手納の家の写真にある刑事と、同一人物であるかどうかを確認するために、荷物を物色するための時間を作る事が目的だったのかもしれない。  荷物には警察手帳や手錠、そして嘉手納の写真が入っていた。それを見られたのならば、間違いなく西野の事を、嘉手納の捜索をするために来島した警察官だと認識するだろう。  それにあの石井の引きつった表情。石井は吾妻を嘉手納の実家に行かせないために、嘉手納の帰郷を否定していたのは明らかだ。しかし吾妻が嘉手納の実家の所在地を確認して、姫神集落への訪問を示唆する態度を見せたために、嘉手納捜索を妨害したかった石井としては、彼の逮捕を危惧して思わず顔を引きつらせたのだろう。  携帯電話の破壊は、その嘉手納発見に際しての増援要請の妨害、もしくは捜査全体の妨害のためかもしれない。  それだけではない、石井は私が海姫神社を去った後に、警察官が嘉手納の実家に向かったと、当の本人に連絡した可能性だってある。嘉手納の実家が戸締まりもしてなかったのは、もしかしたら警察官が来ると知って、慌てて逃げたからではないか。 「これから、どうするのですか?島民はみんな貴方が刑事である事は、知っている可能性があるわ」  心配そうな面持ちの稗田に問われた。 「携帯電話の破壊に、警察官の監視。これは捜査に協力出来ないなんて物ではない。捜査妨害所か、捜査への抗戦とも取れる。島民がそう出るならば、こちらもコソコソと捜査するつもりはない。稗田さん、貴女が宿泊する旅館は、確か姫ヶ島の村長が経営する宿でしたね」 「ええ、島で一番大きな旅館で、正確には村長の奥さんが経営している旅館よ。でも村長も、その旅館と同じ敷地に住んでいるはずだわ。旅館の隣に村長の苗字の表札がある民家があったもの」 「では案内して下さい。こうなったら姫ヶ島に関して、全てを知りうる可能性と権限をも持ち併せる人物を、直に問い詰め捜査への協力を要請する必要がある。それと携帯電話を貸してもらえませんか。署に連絡を取りたい」  吾妻は、そう言うと、運転席に乗り込んだ。しかし助手席に座った稗田が、 「ああ…私の携帯電話、バッテリーがもう…」  ポケットから取り出した携帯電話を見詰めて言った。 「じゃあ、しかたがない、交番で電話を借りよう」  この島の交番に勤務する制服警官は、この島出身の地元民で、佐久山殺害事件の捜査に非協力的であったと仲間優子から聞いているが、今は背に腹は替えられない。その非協力的な警官に頼んで電話を貸してもらい、署に連絡を取る他に手段がない。 「姫ヶ浜集落に着いたら、まず交番に行って、署に連絡して嘉手納捜索のための増援要請をする。その後、村長宅に向かう」 「村長と何を話すのですか」 「嘉手納に逃げる時間を与えてはいけない。その逃走を阻むためにも、一刻も早く村長と交渉して、姫ヶ島からの船舶の出港を一時的に禁止する必要がある。それを捜査協力という形で、村長にお願いする」  隠密行動の前提はあっさりと崩れ去ったのだから、今はあからさまに行動出来る。  そして村長も、佐久山殺害に関しては知らぬ存ぜぬを通せても、既に逮捕状が取れている容疑者を島民が隠匿している可能性が既知であると通告すれば、その隠匿は認めなくとも協力までは拒めまい。もし拒む様であれば、捜索妨害があった事実を伝えて、島民が嘉手納を確実に隠匿しているとの前提を強気に押し、犯人隠匿や逃走幇助が検挙の対象となりうる事をちらつかせながら交渉するつもりだ。それでも捜査協力を拒まれた場合は、署長に連絡して近隣の島々の港に検問を張った上で、増援を呼んで姫ヶ島を一斉捜索するしかない。 「判りました」  稗田を納得させると、吾妻はエンジンを掛けてアクセルを踏み込んだ。 その頃、辰哉はリョウの後を付いて、洞窟内を歩いていた。  井戸の底に降りた後、横に折れた長い横穴に入った。洞窟の中には、長いコードで繋がった電灯が所々にあって、暗闇に閉ざされる事は無かった。  そしてリョウの案内通りに幾つかの分岐を曲がって進むと、広間の様な開けた場所に出た。  その広間にも電灯が点いていて、地下の底だと云うのに、視界は悪くない。  地下の広間には、小振りの池と、平屋の屋敷があった。 「ここは、何なの?」  辰哉が訊くと、  リョウは口を裂いて笑った。 「竜宮城の入り口にようこそ」  車内から見上げると、先程まで青かった空は、薄墨の如き積雲が広がり始め、陽光を閉ざして島を暗く包んでいた。 島の東側に位置する姫ヶ浜集落に着くと、二人を乗せた車は、まず交番に向かった。  島に唯一の交番に吾妻が駆け込むと、木造の質素な造りの屋内には、二十歳前後の青年と、島に唯一の警察官である制服警官が、向かい合った椅子に腰掛けて話し込んでいた。  吾妻が警察手帳を見せながら、本島から来島した刑事であると名乗ると、制服警官は立ち上がって敬礼をした。 「姫ヶ島勤務の六奈です」 「私は捜査一課の吾妻だ。至急××署の渡嘉敷署長に連絡したい旨があるため、電話を拝借したい」 「何かあったのですか」  そう驚いて見せる六奈の表情が、一瞬口元だけ歪んだ気がした。  笑ったのだろうか。  だが吾妻は、その真意を問うている場合ではないと、話しを続けた。  八丈島の殺人事件、並びにこの島での佐久山殺害事件に絡んで、被疑者の所在の確認中に、島民による捜査妨害があった疑いや、その潜入捜査事態の露見の疑いもある、と簡潔に六奈に説明した。 「その上、被疑者である嘉手納は、帰郷している可能性も高い。だから嘉手納捜索のための増援の要請をしたい」 「要請して、吾妻刑事は、これからどうするのですか」 「私は村長宅に向かって、嘉手納が逃走出来ない様に、島にある全ての船舶の使用禁止を村長にお願いする」  吾妻は、仲間から聞いていた、捜査に非協力的だと云う、この制服警官が何と反応するのか、少し不安を覚えた。  しかし六奈は、躊躇も無く答えた。 「判りました、では増援要請は私がしておきます。吾妻刑事は一刻も早く村長との交渉を」  それを聞いて、吾妻は安心すると、 「では後は頼む」と言い捨てて急いで車に戻った。  そして稗田の案内で、海岸線の通りから路地に入り、その奥まった所に門を構える、旅館『はいびすかす』に到着した。  吾妻は稗田に車内に待機するよう指示すると、車を降りて旅館の門を潜った。  門から旅館の玄関までは、玉砂利の地面に飛び石が拵えられている。  その旅館の向かって左側に、古ぼけた二階建ての民家が見えた。  吾妻は途中まで飛び石伝いに進み、そこからは飛び石の進路を逸れて玉砂利を踏み鳴らしながら、広々とした敷地を民家へと向かった。  民家の玄関には、『青嶋』と表札がある。  吾妻は呼吸を整えると、インターホンのチャイムを押した。  暫くして若い女性の声で返事があった。  まず警察手帳をインターホンのカメラに提示して、自分の名前と身分を名乗る。そして、先日の佐久山良一殺害事件について青嶋村長とお話しがあります、と来訪の要件を説明した。  すると相手は、少々お待ち下さい、と言ってインターホンを切り、そのまま五分程その場で待たされた。  そして徐に玄関が開くと、白髪に馬面の初老の男性が姿を現し、「中へどうぞ」とぶっきら棒に言って、吾妻を室内に上がらせた。  和室の客間に通されて、男性に差し出された座布団を受け取って座ると、対面に座った。 「私が村長の青嶋だが、警察が何の用かね。佐久山とかいう観光客の事件には、もう充分に協力したはずだ」  と節目がちに言った。 「いえ、佐久山良一殺害の件もそうですが、あれから捜査に進展がありまして、その佐久山良一殺害事件に絡んで、今は嘉手納隆という姫ヶ島に本籍地を持つ人物の捜索をしています。村長は嘉手納隆については御存知ですか」 「名前を聞いた事ぐらいはある。だか全ての島民について詳しく知っているわけではない」 「そうですか。嘉手納隆は、一ヶ月前に八丈島で起こった殺人事件の容疑者なのですが、佐久山殺害にも関与している可能性があります。八丈島の事件以降、嘉手納は行方を晦ましていましたが、先程その嘉手納の本籍地である実家に訪問した所、生活の痕跡が見付かりました。嘉手納は島に帰郷しているのではないでしょうか」 「そんな話を私にされても、存知していないから何も応えよいがない」 「その嘉手納に関しては逮捕状も取れています。もし嘉手納が帰郷しているのならば、村長に捜索への協力をお願いしたくて、今日は訪問いたしました。要は嘉手納の拘束のために、村長の権限を使用して頂きたいのです」 「私にどう協力しろと言うのだね」 「警察の増援が来るまで、嘉手納が島から離れられない様に、島内の全ての船舶の使用を禁止してほしいのです」 「そんな事をする権限は、私には無い。無理な話しだ」 「では権限を行使するのではなく、村長から島民の皆さんに、捜索への協力を訴えて頂けませんか」  そう言うと、村長は渋い顔をした 「無理だ。そんな事を島民に強要しなければならない正当な理由もない」  村長や島民に、協力を打診すると云う形では無理か。吾妻はそう判断すると、話を続けた。 「それは、島民の中には嘉手納隆の身柄を隠匿したいと考えている者も居るから、協力は出来ないと云う事でしょうか」  すると村長は顔を赤らめて大きく呼吸をした。 「もし嘉手納とか云う容疑者が帰郷しているのならば、誰も捜索への協力を拒む者など居やしない。だが、その嘉手納隆が本当に帰郷している証拠があるのかね」 「嘉手納の家には、調理中の鍋と、警察官を撮影した写真が無数にありました。嘉手納の実家で、誰かが生活をしながら、警察の動きを監視しているのは確かです。そして、それは恐らく嘉手納本人でしょう」  すると村長は、赤かった顔を青くして、目を瞠った。 「それに私の携帯電話が、何者かにより破壊されました。これは明らかに捜索妨害です」  村長が吾妻を睨みつける。 「しかし警察は、捜索妨害や犯人隠匿や逃走幇助の捜査をしているわけではないのです。嘉手納の逮捕が、まず優先事項と私は考えております。村長、嘉手納の逮捕に協力して頂けませんか」  村長は、鬼の如き形相で応えた。 「嘉手納逮捕だけで、警察は満足するかね」 「嘉手納以外に、法を犯した者が居なければ、それ以上の満足は望まないはずです」  すると村長は何か勘考しているのか、目を閉じて俯いてしまった。しかしその勘考が、あまりにも長い。客間の壁掛け時計の長針が、目盛りを三つ動いた。吾妻は業を煮やして、とどめを刺すつもりで言った。 「もし協力いただけないのならば、増援の警察官と共に、姫ヶ島を一斉捜索するまでです」  それを聞いて、村長はゆっくりと両目を開けて、口も開いた。 「この島には長い歴史と、それが故に色々と人目に曝したくない部分もある。佐久山殺害の際は、何とかあんた等警察を誤魔化したが、逃走犯が隠匿されている、もしくは潜伏していると判断すれば、島の隅々まで徹底的に捜索するのだろう」  そう言って村長は、吾妻の目を真っ直ぐに見つめた。曝したくない部分とは何なのか、少し気になったが、そんな事はどうでも良かった。それよりも、その村長の言葉には、一斉捜索をされるぐらいなら、今この場で嘉手納の身柄を引き渡した方が良い、と云う意味合いも含まれている様に取れた。だから吾妻は、交渉が上手く進んでいるのだと考えて、素直に捜査に関する質問にのみ応えた。 「ええ、その通りです。逃走犯を捜索するためには、洩れる所なく島の隅々まで捜索しなければなりません」  吾妻がそう説明すると、村長は席を立った。そして、ちょっとすまない相談して来る、と言うと隣の部屋に入って襖を閉じた。  村長が隣の部屋に入って二十分が経った。時折、隣の部屋からひそひそ声が聞こえて来る。しかし二人分の声ではなく、村長の声しか聞こえてこない所をみると、携帯電話での会話の様だ。  誰と何を相談しているのかは知らないが、こうしている間にも嘉手納は島から出ようと逃走の準備をしているかもしれない。吾妻が焦燥感に苛まれていると、襖が開いた。  そして村長は申し訳なさそうな顔で言った。 「すまない、やはり協力は出来ない。北の連中が納得してくれなかった」 「北の連中?」 「この島で一番古い、姫神集落の連中だ。彼等が納得してくれなければ、私にはどうする事も出来ない。それにもう手遅れだ。嘉手納があんたの仲間を人質に取ってしまった」 「仲間?」  吾妻がそう訊き返すと、玄関に繋がる廊下に面した背後の襖が開いた。  振り向くと、警視庁から渡された嘉手納の写真と瓜二つの壮健な顔つきの男が、片手に鉈を持って立っていた。  その隣には、拳銃を抜いた六奈が、左腕で稗田を抱えて右手に持つ拳銃を稗田の頭に当てている。  吾妻は、あまりの光景に唖然として動けなかった。 「直ぐに二人共、始末する必要がある」  嘉手納が鉈を持ち上げて言う。 「始末?」  吾妻が阿呆面で聞き返すと、 「電話を壊したのは、最初からあんたを孤立させて、こうして拉致する機会を窺うためだ。間抜けにも人質を提供してくれた今が、その機会だ」  嘉手納は笑った。  しかし村長が狼狽しながら、鉈を持ち上げた嘉手納を制止した。 「ここでは困る。それに佐久山の時の様に失敗しない様、もっと計画的にやらねば」 「では嘉手納さん、吾妻刑事は貴方を追って島を出た事にしましょう。 だから、その後はどうなったか判らないと。私が証言すれば、県警も信じるでしょう。後は始末する場所と埋める場所を考えるだけです」  六奈が嘉手納に提案する。 「それじゃ俺は、島から出なければいけないのか」 「警察はその内、貴方を指名手配にするでしょう。だから、このまま島に留まれば、何れ観光客の目に止まって通報されて、再び島に警官が溢れる事態になります」  六奈が嫌らしい笑顔で言うと、村長が続けた。 「そうだな。もう事件は、これで最後にしてほしい。そのためにも嘉手納さんは島を離れるべきだ。そうすれば、この二人を始末した後の辻褄も合うのだろう」  村長は疲れた表情で言って、六奈を見詰めた。 「嘉手納さん?」  六奈が村長の視線を受け取って、嘉手納に渡す。 「それは考えておく。それより先に、この二人の始末だ。今は取り敢えず、ここの地下室に監禁して置こう」  嘉手納はそう言って、吾妻に付いて来る様にと仕草を取った。 「すまんな」  立ち上がった吾妻に、村長が声を掛けた。  嘉手納が先頭を歩き、その後に吾妻、稗田と彼女に銃口を向ける六奈、村長の順に廊下を進む。  そして廊下の奥まで来ると、嘉手納が床の取っ手を掴んで持ち上げた。床下の階段が露わになる。そして階段を降りると短い廊下があり、その先には開き戸と、それを開けると書庫があった。 吾妻と稗田は、その書庫に放り込まれた。  そして外から鍵をされたのか、戸を引いてもビクともしない。  部屋の外にあった嘉手納達の気配が、階段を登る三人分の足音に変わると、憔悴した様子の稗田が口を開いた。 「これから、どうするのですか」 「まだ、こいつが残っている」  吾妻はズボンと尻の隙間から、拳銃を取り出して稗田に見せた。 「さっきは、君が人質になっていたから、使えなかった。だが次に誰かが来た時、つまり私達を始末する準備が整って、この戸を開けた時は、使用させてもらう」  吾妻はそう言いながら、ポケットから弾丸を取り出して、拳銃に装填した。 ここで待っていてね。  辰哉はそう言われて、屋敷の中に一人で居た。  障子を開けて外を見ると、リョウが屋敷の前の池で、沐浴をしている背中が見えた。  日焼けした肢体が目に眩しい。  その光景を見詰める事に、何だか罪悪感を感じて、辰哉は障子を閉めた。  部屋の中を歩き回ったり、あれこれ見たりもしないでね。 そうも言われている。  しかし手持ちぶたさに、辰哉は今自分が居る座敷より奥の襖を開いてみた。次の間があった。  次の間には、部屋の隅に瓶が二つ並べてある。  辰哉は近付いて、右の瓶を覗き込んでみた。  中には、干からびた海鼠の様な物が詰まっていた。  その一つを摘まみ上げて、良く見てみた。  それは男性の性器だった。  辰哉は小さく悲鳴を上げて、それを瓶に戻した。  では左の瓶には何が詰まっているのか。  辰哉は恐る恐る中を覗き込んだ。  中には、パースを無視したポーズで、裸の女が詰まっていた。  パースがおかしいのは、女が有り得ない形に、頭や四肢を曲げたり捻ったりしているからだ。  女の双眸は白く濁り、割れた顔面からは赤黒い泥土の様な物が垂れ流されて固まっていた。  自分でも驚く程の大声が、喉から周囲の闇に放出された。その悲鳴の有り得んばかりの反響と、恐怖から噴出した脂汗が目に入った刺激から、我に返る。  背後の闇がギシリと鳴った。  振り向くと裸のリョウが立って居た。  辰哉は破裂しそうな心臓の鼓動に堪えながら、 「どうして、これはそうなったの」  瓶を指差して、良く判らない質問をした。 「性器は血統を守るためだよ。竜宮の血と人間の血が混ざると、海姫が産まれてくるからさ。その横の瓶の女は母さんが殺したんだ」  辰哉はリョウの説明を理解出来なかった。 「…僕、東京に帰れるよね」  辰哉は気付くと泣いていた。 「無理だよ」  リョウは冷たく言い放った。  すると次の瞬間、辰哉はリョウに体当たりした。  辰哉の突然の行動に、バランスを崩して倒れるリョウ。  辰哉は、そのまま障子に体当たりでぶつかると、屋敷の外に飛び出した。  そして、出口の井戸を目指して広間から洞窟に走り込む。  辰哉は洞窟の中を闇雲に走った。途中、幾つか分岐があったが、来た時の正しい分岐など覚えていない。  目の前に何度目かの分岐が迫り、勢い余って分岐の分かれ目の壁にぶつかる。 「辰哉君、逃げないで…」  背後から、リョウの呼ぶ声が近付いて来るのが聞こえた。  村長宅の地下室の書庫に監禁されている、吾妻と稗田の二人は、嘉手納達が戻って来るまでの間、ただ無為に過ぎて行く時間を埋めようと、この島の特異な一面について話し合っていた。  それは、これから島民により自分達に下されるであろう処分に怯えて取り乱していた稗田を落ち着かせるためでもあった。稗田に何か違う事を考えさせようと、吾妻が彼女の専門分野である民俗学の話題を振ったのだ。 「そもそも喜多吾郎の著書にもある通り、姫ヶ島の秘祭は、不老の神仙大蛇権現を祭る海姫神社に、長寿の祈願をする祭なのよ」 「長寿の祈願か、確かそんな事が書いてあったな。大蛇権現てのは、どんな神様なんだい。竜宮から来た竜の化身だと喜多の著書にあったが」 「浦島太郎が亀に連れられ竜宮城に行った話しは有名だけど、『続浦島子伝記』では、亀の化身である神女と共に浦島子はトコヨに向かったとあるの。トコヨとは、始皇帝に命ぜられ童を引き連れた徐福が、不老不死の仙薬を手に入れるために目指した、東海中の蓬莱山と同じ字を書くのよ。蓬莱山と書いてトコヨと読むの。その浦島太郎が神女に案内された竜宮こと蓬莱山で、浦島子は不老長生に効能ある仙薬の類を食すのね」 「じゃあ竜宮とは、その不老の仙薬がある蓬莱山の事なのかい。そこから来た神仙だから、大蛇権現は不老長生で、崇拝する者にも、その御利益があると」 「竜宮からもたらされる利益は、長生だけじゃないわ。沖縄では、竜宮の事を一般的にニライカナイ、もしくはニルヤと云うけど、アマミキョの伝説なんかでは、稲穂を島に遣わしてくれたりと、豊作の利益をもたらしたりもしているわ」  柳田国男は、『海上の道』の中で、沖縄のある地域では、竜宮の事を、ニルヤもしくはそれと類似した名称で呼んでいると記述している。また、奄美大島では竜宮と訳す語り部もあるが、ニルヤの類似である根屋やネリヤの名称をもって語るのが一般的だと解説している。  ニライカナイについても、儀来河内、つまりニライカナイが、竜宮と同一である事は、琉球の伝説を蒐集した『遺老説伝』の筆者や、『琉球神道記』の筆者袋中上人にとっても判っていた事だが、その認識が民間にはあまり広まらなかったとも記述している。  つまり竜宮とは様々な異称があり、続浦島子伝記では蓬莱山。琉球列島ではニルヤやニライカナイ。そして、それ等は、どれも海の彼方にある理想郷なのだ。 「でもニライカナイと云うと、アマミキョの伝説が有名だけど、竜宮や蓬莱山と云う呼び方だと、やはり浦島太郎を思い出すから、不老長生をイメージするわね」 「不老なんて夢物語が、あるわけないだろ。それに竜宮、蓬莱山、ニライカナイ、ニルヤが同一だという話しも、海の彼方に理想郷があると云う思想が共通すると云うだけで、本当に海の彼方に理想郷があって、様々な名称で呼ばれていると云う話しでは無いはずだ」 「もちろん不老なんて夢物語かもしれないけど、昔から不老不死や不老長生は渇望されていて、佐久山助教授は、日本人が古代から蛇を崇めるのは、蛇の脱皮が肉体の新生、つまり生き続けながらにして新たな身体に生まれ変わる事の象徴とされて、長生の象徴でもあったからだと講義していたわ。大蛇と名の付く神仙に長生を祈願するのは不自然じゃないわ」 「摂理に逆らった不老長生はかなり難しいと思うが、まあ渇望するのは自由かもしれない。そう言えば、その竜神の娘である、この島で最も崇敬の厚い海姫も、人頭蛇体、つまり蛇だったな」 「大蛇権現に海姫。この島も例外ではなく、古来から日本人は蛇を崇めていたのよ。神社の注連縄や破魔矢なんかは、その蛇信仰の表れなの」 「注連縄や破魔矢が?」 「そう、神聖な注連縄は、見るからに二匹の蛇の絡み合う交尾の姿でしょ。矢についても、蛇神と云われる三輪大社の大物主神が、丹塗り矢に姿を変えて、勢夜陀多良比売と交わる説話が、古事記に記述されているわ。どちらも蛇を象徴しているのよ。だけどおかしいの、この姫ヶ島の神社には、それ等の蛇の象徴がまったく見当たらないのよ」  稗田は小首を傾げて、海姫神社への疑問を口に出した。 「そう言えば、社に注連縄が無かった」 「御神木も無いから、そこに巻き付けられているはずの注連縄もね。社務所での破魔矢の販売も見なかったわ」 「そう云えば、神社に祀られているのは、竜神である大蛇権現の角だと巫女が言っていた。明日の秘祭で出される山車も、喜多吾郎の本によれば、源為朝を象った物だそうだ。角は蛇の象徴とは捉えにくいが、竜は殆ど蛇に近いし、名前も大蛇権現だから、蛇を祀っている内に入るのかもしれない。だが肝心要の…」 「海姫がいないのね。何故かしら。それも蛇の象徴が見当たらないのと関係あるのかもしれないわ」  すると、地下室の引き戸の外から、青嶋村長の声が聞こえた。 「蛇の象徴が無いのは、それはユダヤの神と同じだからだ」  鍵が開錠される音がして、戸がそうっと開く。  吾妻は脱出するチャンスが訪れたと踏んで、尻の拳銃に手を伸ばした。そして入室して来た村長の様子を伺う。 「ユダヤの神?」  稗田が、そんな吾妻の狙いなど気付かずに、村長に疑問を投げ掛ける。 「それ以上は何も言えん。ただ、もう一つ説明しておきたい事がある」  村長は、眉根をハの字に持ち上げて言った。 「これから私達を始末するのに、説明が要るのか?」  吾妻が尻の拳銃を、何時でも取り出せる姿勢で、村長に間合いを詰めながら訊いた。 「私はお前達を始末しようなどとするつもりは無い。これから二人を逃がすつもりだ」  それを聞いて、吾妻と稗田は顔を見合わせた。 「逃がしてくれるんですか」  稗田が顔を明るくして、村長に詰め寄る。 「だがその前に聞いておいて欲しい。この島の島民の歴史と、姫守衆の話しをな」  村長はそう言うと、書庫の入り口付近の、山積みにされた本の山に腰掛けた。 「島民の歴史、と言うのは?」  逃がしてくれると聞いて、僅かに警戒の解けた吾妻が、尻の拳銃から腕を離して問う。 「我々の先祖はな、皆流人の子孫なんだ」 「流人と云うと、罪を犯して島流しを言い渡された罪人と云う事か。この島の島民全てがか?」 「そうだ。ほぼそう言って間違いない。だが、それには二系統ある。一つは竜宮から追放された罪人である、姫神集落の住民達だ。姫神集落は遥か昔に、竜宮で罪を犯した者達が、属国だった琉球に追放されて拓いた集落なんだ」 「そんなのは、伝説の域を出ない話しだろ。竜宮なんて実在するわけが無いのだから」  吾妻が食って掛かると、村長は首を振って応えた。 「確かにそう思うだろうが、この島の島民は、皆それを信じて疑わない。それに姫ヶ浜集落や姫磯集落の住民も、流人の子孫だ」 「それも竜宮から流されて来た先祖の子孫なのか?」  吾妻が訝しげに眉を顰める。 「いや違う。あんた達は、曲亭馬琴の『椿説弓張月』は知っているかね」 「馬琴は、江戸時代の戯作者ですね。確か椿説弓張月は、保元の乱で敗れて伊豆に流罪となった源為朝が、様々な苦難を乗り越えて琉球に辿り着き、為朝の息子の舜天丸が琉球の舜天王となるまでを描いた、貴種流離譚だと記憶しております」  吾妻は稗田のその言葉を聞いて、喜多の著書にあった、為朝がこの島に訪れ、島を統治する大蛇権現に娘を嫁がせた話を思い出した。秘祭に措いて、為朝の山車が練り歩くのも、その故事に由縁があるのだろう。  村長は、稗田の応えを聞くと、なら話しは早い、と膝を打った。 「椿説弓張月は、内容の殆どが創作だが、為朝が琉球に流れ着いたと云う説話は、馬琴が戯作に描くまでもなく、琉球に伝わっていた伝説なのだよ。為朝は琉球に来ると、まずこの姫ヶ島に上陸した。そして姫を大蛇権現に嫁がせると、島を離れて沖縄本島に向かったのだ。その後、為朝の息子舜天丸が王になると、この島が竜宮から配流された罪人の島だと為朝から聞かされて知っていた舜天王は、琉球で罪を犯した者を姫ヶ島に流して、流人島としたのだ。つまり、姫ヶ島は二重に流人を受け入れる事となったのだよ」 「それが私達を逃がすのと、どんな関係があるんだ?」  吾妻は村長の回りくどい話しに、業を煮やして訊いた。すると村長は、一息ついて、まあ聞いてくれ、と断って話しを続けた。 「その後、数百年の間の事だ。この島では、流人以外にも犯罪者を受け入れる、悪い風習が出来てしまった。流罪となった罪人達が、まだ刑の確定していない仲間の犯罪者を、この島に呼び寄せて匿う様になったのだ」  それを聞いて、吾妻は目を瞠って言った。 「そいつは見過ごせないな。その悪習は、今でも続いているのか?」 「この島が流人島ではなくなった今でも、その悪習だけが残り続いている。その匿われている連中こそが、姫守衆だ。彼等は、普段から顔を覆う白装束の衣装で身を隠し、島の山中の隠れ家に匿われる変わりに、島民が崇拝する海姫や大蛇権現への忠誠を誓わされ、秘祭の儀式の守護者の責務を負う。これは遥か中世から続く因習なんだ」  三年前に、テレビ局が島で取材をしようとした際に、姫守衆が強硬な態度で妨害した理由が判った気がした。彼等は、秘祭を守る責務もあるが、自らの素性の露見を恐れたのもあり、取材を妨害したのだろう。 「姫守衆は、そんな犯罪者の集まりだ。今、島には六人の姫守衆が居るが、その内四人は殺人を犯して島で匿われている。嘉手納は、その姫守衆に、あんた等の始末を手伝わせるつもりだ」 「だがそんな事をしたら、警察が大挙して押し掛けて来る。どんなに殺人の痕跡を隠しても、潜入捜査中の刑事が失踪したら、やはり姫ヶ島の島民が疑いをもたれるだろう」 「判っている。だから私も嘉手納や姫神集落の連中にそう言って説得した。だが彼等は納得してくれない。私を含む姫ヶ浜集落や姫磯集落の住民は、後から姫ヶ島に入った流人の子孫だから、先住民である姫神集落の連中には逆らえないんだ。姫神集落の連中が、琉球の流人の子孫である私なんかの言う事を聞くはずがない」  その差別的上下関係も、絶海の孤島であり、更に流人島でもあった故からの、閉鎖的島社会に引き継がれて来た因習なのだろうか。 「村長と云う立場があってもか?」 「村長と云う立場があってもだ」 「じゃあ、さっき私達を逃がすと言っていたのは?」  稗田が懇願する様な瞳で村長を見詰める。 「嘉手納と六奈は今、姫守衆を呼びに行っている。使用人も帰宅させた。この家には私とあんた等しか居ない。だから今なら逃げる隙がある」 「それならば、今直ぐにでも…」  吾妻が言い掛けると、村長がそれを制した。 「逃がすには条件がある。嘉手納は、この島に帰郷してなかった事にしてくれないか」  村長は懇願する様な目で、吾妻を見詰めた。吾妻はその心中を察して応えた。 「要は、あなたは島を、つまり観光業を守りたいんだな」  すると村長はゆっくりと頷いた。 「この島の経済は、主に観光業と、漁業で成り立っている。漁業の方は、収穫の大半を島民と観光客が消費する地産地消だ。つまり観光業が無くなったら、島民の生活は立ち行かない。佐久山氏が被害者となった猟奇的な殺人事件や、それに絡む八丈島での事件にも関与した疑いのある容疑者の潜伏や隠匿が公になれば、島の観光業は少なからず被害を受ける。私はそれを回避したい。島を思う村長の義務として当然だろう」 「その気持ちは、お察し出来ます」  吾妻は俯き加減で、睨み付ける様に村長を見詰める。 「その上、潜入捜査中の警察官と、若い学生さんが失踪したのでは、沖縄県警も黙って済ましてくれる筈がない」 「その通りです」  吾妻が睨み付けたまま応える。 「どうだろう、お前達を、このまま生きて帰す代わりに、嘉手納の帰郷だけでも秘密にしてくれはしないか。それだけでも、随分と島は救われる。頼む、お前達の為にも取引に応じてくれ」 「だが、それでは、八丈島や佐久山の事件は迷宮入りだ。我々、警察の威信が失われる」 「ここにレンタボートの鍵がある。嘉手納達が戻って来る前に、これを使って、今直ぐにこの島から逃げてくれ」  村長は懐からボートの鍵を取り出して懇願した。 「では一つ、村長の知っている限りで答えて欲しい。八丈島の佐世保教授殺害事件や、佐久山助教授殺害は、嘉手納の仕業なのか?」  その質問に、村長は少し迷った後、吾妻の目から視線を外して答えた。 「佐世保教授の事件は、姫ヶ島の外で起きた事なので知らない。だが、佐久山助教授に関しては、嘉手納の実家に現れた助教授を、嘉手納と姫守衆がアブの中に連れて行き、出て来た時には助教授は死体になっていた。そう人伝に聞いている。だが、嘉手納や姫守衆が手を下す所を、見た訳ではない。だから詳しい事は私には判らない」  それを聞いて、吾妻は疑いの目で村長を睨みながら言った。 「そうですか。大体の事情は理解出来ました」 「では取引を呑んでくれるのか、くれないのか。どちらだね」  村長が、手にしたボートの鍵を吾妻に差し出す。  吾妻は、それを暫く睨んだ後、徐に手を伸ばして鍵を受け取った。 「では我々二人は、直ぐに島を離れます。上司が信じるかどうかは判りませんが、姫ヶ島に嘉手納は不在だったと伝えましょう」 「そうか、判ってくれて助かるよ」  村長は顔を紅潮させて、喜んだ。  そこに稗田が口を挟んだ。 「どうやって、私達が逃げた事にするのですか?」  すると村長は、書庫にある開き戸に一番近い書架を、開き戸に向かって押し倒した。本の詰められた、重量のある書架が、音を立てて開き戸を突き破る。 「後は、君達が旅館に侵入して、ボートの鍵を盗んだ事にする。さあ、行きたまえ」  吾妻と稗田の二人は、そう急かされて地下室から廊下に出て、地上への階段を駆け上がった。    辰哉は、洞窟の奥の奥、袋小路になった所で、ポケットに入れてあった携帯電話を取り出して、兄の携帯電話に通話をしようと何度も試みていた。しかし電波が無いために、通話は出来ない。ならばメールはと、助けてほしいとの文面のメールを何度も送信したが、それも電波が圏外であるため失敗した。  この袋小路に逃げ込んでから、一時間は経つが、リョウの姿が現れる事は今の所ない。  屋敷から逃げ出した辰哉を追って来るかと思ったが、そうでもない様だ。 リョウにその気が無いのならば、この袋小路を出て、出口の井戸に向かうべきだろうか。  辰哉は暫く勘考した後、ふらふらと立ち上がって歩き始めた。  この洞窟に張り巡らされた電灯のコードは、あの井戸の外から繋がっているのだろうか。   確か井戸に入る時に、外からこのコードが走っていた気がする。ならば、このコードを辿って行けば、何れ井戸の外に辿り着く筈だ。しかしそれはコードが分岐しておらず、一本の長いコードを張り巡らせている場合に限る。しかし他に頼る物の無い辰哉は、この電灯のコードが一本である事に賭けて、歩き出した。   長い洞窟内を、リョウの追跡を警戒しつつ、足下の岩肌に躓かない様に慎重に歩く。  二十分は歩いたか。洞窟の先に垂れ下がった縄梯子が見えた。  辰哉は早足になると、縄梯子に飛び付いて、よじ登った。  頭上には、まだ微かに明るい紫色の空が見える。 後数メートルで、その地上に戻れる。  そして辰哉の片手が、井戸の縁に掛かった時だった。突然両足が、何かに掴まれた。  足下を見下ろすと、無表情のリョウが、辰哉の両足をぐいぐいと引っ張っている。  辰哉は悲鳴を上げた。  だが、その悲鳴は、誰の耳にも届かない。  辰哉の足を掴む力が一段と強くなって、一気に奈落の底に引き寄せた。  井戸の縁を掴む辰哉の片手が離された。  そして、そのまま辰哉とリョウは、井戸の底深くへと落下して行った。  村長宅を出ると、空はすっかり夜の帳が降りて暗くなっていた。  吾妻と稗田は月明かりの下、姫ヶ浜海岸の桟橋に着くと、何隻か係留してあるボートの中から、旅館『はいびすかす』が所有するボートを探した。 「あれじゃないですか」  稗田が指差す先を見ると、『はいびすかす』の文字が入った小舟がある。  それはボートといっても、二、三人乗りの小舟に小型のエンジンを取り付けた物だった。  どう見ても沿岸用の小舟だが、泳いで本島まで帰るよりはましだろう。  吾妻と稗田は、小舟に乗り込むと、エンジンを掛けて島を離れた。  ボートは時速十キロ程の速度で海面を滑る。  しかし、そのまま西に向けて航行し、姫ヶ島からだいぶ離れた所で、吾妻はボートを停めた。  そして荷物から警察手帳とペンを取り出すと、手帳に署長への伝言を速記した。その一連の吾妻の行動を不審な眼差しで見詰める稗田。伝言を書き終えると、その警察手帳を稗田に渡しながら吾妻は言った。 「姫ヶ島に戻る」  すると疲れきっていた稗田は、肩を落とした。 「やっぱり、村長の提案を呑んだのは、嘘だったのですね。あれだけの目に遭っても、まだ捜査するつもりなのですか。約束を破ったら、何をされるか判らないのですよ」  その呆れた様な表情には、もうこれ以上巻き込まれたくないと言う意思が見て取れる。 「あんな職務に反する交渉を呑むわけには行かないし、嘉手納を逃がすつもりは毛頭ない。その手帳には署長宛てに、増援の要請が書いてある。それに捜査妨害に遭って携帯電話が破壊された事と、嘉手納の実家から私を含む所轄の署員が監視されていた証である、隠し撮りされた写真が見つかり、潜入捜査も最初から露見していた事も書いてある。その後、村長と嘉手納、それに姫ヶ島の交番勤務の警察官が結託して、私と貴女を監禁した事も」 「この手帳を渡されて、私はどうすれば良いのですか」 「あの北極星を見て」  北の空に浮かぶ北極星を指差した。 「あの星を常に右手に確認しながら、真っ直ぐに西に進めば、必ず沖縄本島の東側の海岸線の何処かに辿り着く。姫ヶ島から本島までは三十キロだから、このボートの速度なら遅くとも三時間もあれば、本島に到着するはずだ」 「独りで本島に帰ればいいのですね。その後は…」  稗田は、吾妻が単独で姫ヶ島に戻ろうとしているのだと判って、安堵の表情を見せた。  吾妻としても、これ以上一般市民を巻き込みたくない。  しかし署長への伝言だけは、稗田に頼みたい。 「その後は、一番近場の交番なり警察署なりに駆け込んで、その警察手帳が××署の渡嘉敷署長の手元まで届く様にして欲しい」 「判りました。これを渡嘉敷という署長の元に届けたら、私はお役御免で良いのですね」 「お願いします」  そう頭を下げると、吾妻はボートの操舵の仕方を稗田に教えた。  そしてワイシャツとズボンを脱ぐと、手荷物の中から拳銃と弾丸と手錠だけ取り出してワイシャツに包んだ。そしてワイシャツの包みをズボンに入れて、そのズボンをホッカムリの要領で頭に巻いた。 「じゃあ、後は頼みます」  そう言って、吾妻は足から海面に飛び込んだ。  稗田は暫くその様子を見守っていたが、吾妻が腕を振りながら、 「さあ、早く行って」  と声を掛けると、エンジンを始動させてボートを西に走らせて行った。  それを見送ると、吾妻は北極星を左手に確認しながら、東に向かって泳いだ。  ボートは出港してから、十五分程航行した筈だから、姫ヶ島まではおよそ二、三キロだろう。  目を凝らすと、微かに港町の灯りが見える。  あの灯りを目当てに泳げば、遭難する事もない筈だ。  そうして暫く泳いで姫ヶ島を目指した。  上陸したら、今度は潜入捜査所か、本当に姿を隠しながらの文字通り隠密行動が必要となる。  島民に目撃されない様に、身を隠しながら嘉手納を探すのだ。単独での逮捕が可能ならばそうするが、不可能ならば嘉手納の所在を確認しながらの、増援が来るまでの監視行動となる。  しかし、もし嘉手納が島の外へ逃走する様ならば、海上での尾行は不可能であるから、強硬手段を取ってでも、その場で身柄を拘束する必要がある。  それを島民が妨害するならば、公務執行妨害に対する拳銃の使用も辞さないつもりだ。  嘉手納の逮捕容疑は、佐世保と佐久山の殺害容疑、並びに吾妻と稗田を監禁した公務執行妨害と未成年者略取。  公務執行妨害と未成年者略取に関しては、青嶋村長とあの六奈とか云う似非警官も同様だ。  暫く泳ぐと港町の灯りが、だいぶ近付いて来た。途中、船の駆動音が聴こえたが、海中に頭まで潜って隠れ、駆動音が通り過ぎるのを待ち、それをやり過ごした。  港の近くに着くと、そのまま海岸沿いに泳いで、島の南西の人気の無い岩場から上陸した。  岩場に腰を下ろして、まず拳銃についた海水を服で拭って、作動を確認する。  そしてワイシャツとズボンを着ると、ここから近い筈の炭焼小屋を目指した。  この炭焼小屋は、ガイドブックによれば、今は使われていないため、隠れるのには丁度良い。  暫くここに居て、島民が寝静まる深夜になったら、北側の集落を歩いて目指すつもりだ。  そして嘉手納の帰宅を確認する。  後は、先に述べた通りだ。  吾妻は拳銃に装填された弾丸を確認しながら、稗田が無事に本島に到着して、その報せを受けた署長の指揮により、遅くとも明日の夕方までには増援が到着する事を祈った。  それから一時間が過ぎた。  服が乾いて、炭焼小屋を出た吾妻は、小屋の背後の山に分け入り、そのまま神社の山道にも出ず獣道を探す事もせずに、藪の中に道を切り開きながら進んだ。  邪魔な木の枝や雑草を、折ったり避けたり踏んだりしながら進んで行く。そして二時間も歩くと、やがて山の北側の斜面に到着した。  見下ろすと、姫神集落が一望出来る。  吾妻は斜面の藪に屈んで身を隠すと、嘉手納の実家を見張った。しかし嘉手納の実家には明かりが灯っておらず、人影が出入りする気配もない。  張り込みの途中、腕時計で確認したら深夜零時頃に、姫神集落から山頂に向かって、三人の人影が登って行った。吾妻から見えない位置に葛折りの獣道でも在るのか、三人の人影は、吾妻が潜む藪の直ぐ近くをジグザグに歩いて通り過ぎて行った。  三人は皆一様に白装束を着ていて、頭に注連縄を巻いた奇妙な出で立ちをしていた。  あれが姫守衆と云う奴だろうか。  そして遂に朝まで張り込んだが、嘉手納の帰宅も在宅も確認出来なかった。  夜が明けると、眼下の集落は俄かに賑やかになり始めた。  今日は海姫神社で秘祭が行われる日だ。村人達は、祭りの準備があるのか、朝から活気づいている。次から次ぎへと、集落の家々から島民が姿を現して、連れ立って何処かに向かって行った。  しかし、その中に嘉手納の姿は無い。嘉手納はやはり在宅していないのだろう。  昨日姫守衆を呼びに行くために村長の家から出てから、逃走した吾妻と稗田を探すために一度も帰宅していないのかもしれない。だとしたら今、嘉手納は何処に居るのか。村長宅だろうか。それとも六奈と連んで交番に居るのか。また、それ以外の場所に所在がある可能性もある。  吾妻は、どうすれば嘉手納を発見出きるか、暫く勘考してみた。  遠くで太鼓の音が聴こえた。そうか、今日は祭りだ。祭りのメイン会場である海姫神社には、今日に限って全ての島民が参拝しに来るのではないか。  ならば嘉手納も姿を現すかもしれない。  吾妻は藪から出ると、白装束の三人が使っていた獣道に出た。見上げると確かにこの獣道は、山頂に向かって続いている様だ。山頂に向かっているのならば、海姫神社に繋がっているのかもしれない。吾妻は辺りの人の気配を警戒しながら、早足で獣道を登った。  そうして暫く登ると、少し開けた平らな場所に出た。位置は山頂の海姫神社から百メートル程低い場所だろうか。  そこには蓋をされた井戸があった。  何故、神社からも集落からも離れた、こんな辺鄙な場所に井戸があるのだろう。まったく用途が判らない。  しかし今は、そんな不可解な井戸に見惚れている場合ではない。吾妻は更に山頂へと獣道を登った。やがて海姫神社の社が見えて来た。やはりこの獣道は、山頂の神社に繋がっていた。そして吾妻は、そのまま境内へは出ずに、境内の周りの藪に添って斜面を移動して、社を斜め後方から確認出来る位置に陣取った。ここからなら、参拝客の顔を確認出来る。  境内には数人の島民が居り、社の前に並んで参拝の順番を待っている。  その中には嘉手納の姿は無い。  吾妻は暫くそうして、嘉手納の到来を藪の中に身を潜めて待ち続けた。  三十分は経っただろうか。  突然叫び声が聞こえた。 それは境内の向こう、遺跡から続く階段の参道の方角から聞こえてくる。次第に叫び声は大きくなり、その叫び声の主が階段から境内に姿を現した。  叫んでいるのは、色白で円らな瞳の若い男だった。  どこかで見覚えがある。  そうか、昨日の交番に居た、六奈と話し込んでいた青年だ。  しかし一人ではない。  青年は周りを五人の男性に取り囲まれて、その内の二人に両腕を掴まれている。取り囲んでいるのは、昨夜見た白装束に注連縄の連中だ。  青年が叫んだ。 「俺は、弟を探したいだけなんだよ!祭りなんか知らないって!だから離してくれ!」  しかし周りの白装束達が、彼を解放する気配は無い。参拝中だった参拝客達も、青年の周りに集まり始める。  すると青年が暴れた。 その拍子に青年が肩から下げていた鞄が揺れて、中身が玉砂利の上に散乱した。散乱した物は、カメラに財布に沖縄のガイドブック。  拘束されている青年は、観光客か。  秘祭の日は、島民以外は島に滞在出来ない筈だ。 彼はどんな経緯で昨日の内に島を離れず、そしてどんな経緯で白装束達に拘束されて、ここに連れて来られたのだろうか。 「弟が行方不明なんだよ!」  青年が再び叫んだ。  すると、それを取り囲む白装束の一人が言った。 「弟の所に行きたいか?」 「弟が何処に居るのか、知ってるのか」  青年が聞き返すと、白装束の一人が腰に下げていた鉈を抜いた。  それを見止めて、青年が静かになる。 「ここじゃあ不味いだろ。アブの中でやろう」  白装束の一人が言った。 しかし他の白装束が反論する。 「アブの中じゃ、連れて行くまでに暴れられる。ここでやっちまおう」  そう言って、白装束の一人が鉈を振り上げた。 「その鉈を下ろしなさい」  藪から出て、彼等の背後まで近付いていた吾妻は、白装束を含めた島民達に拳銃を向けて、そう命令した。吾妻のこの行動は、参拝しに来る嘉手納を待ち伏せすると云う計画を台無しにする物だったが、これから何をされるかも判らない彼を見殺しにする訳にもいかなかった。  しかし鉈を抜いている白装束は、吾妻が構える拳銃などには怯む事なく言った。 「何だお前は!」  そして、そう叫んで鉈を振り上げて、向かって来た。  吾妻は、空に向かって威嚇射撃をした。  しかし白装束は歯を剥いて、怯む事無く鉈を振り下ろす。  吾妻は、それを後ろに飛んで回避すると、再び鉈を振り上げた白装束の太股に向かって発砲した。  激痛に、玉砂利の上をのた打ち回る白装束。 「君、こっちに来なさい。私は警察官だ」  吾妻は、青年に声を掛けた。  しかし彼は不信感を露わにして寄って来ない。 「六奈の仲間ですか?」  青年が眉根を寄せて訊いた。  そうか、叫んでいた内容からして、姿を消した弟さんを探すために、六奈が勤務する交番に駆け込んだのだろう。昨日、交番で目撃した六奈と青年の姿は、その時の物に違いない。そして酷い扱いを受けたのだろう。ならば警察に不信感を覚えても当然だ。 「私は、六奈や島民が犯した犯罪を捜査しに来ている、沖縄本島の警察官だ。さあ、私の方に来なさい」  そう説明すると、彼は漸く島民の輪から出て、こちらに寄って来た。  足下の白装束は、出血する太股を抑えながら、まだ呻いている。  他の白装束や島民は、怒りも露わに、吾妻と青年に間合いを詰めて来る。吾妻は、そこで再び威嚇射撃をした。空に煙りが舞う。  すると白装束と島民が怯んだ。 「さあ行こう」  吾妻は、青年を急かすと、社の裏手にある獣道に走った。 二人は獣道を駆け降りる。  しかし、そこで吾妻は思った。このまま走っても、姫神集落に到達するだけで、逃げ場が無い。  何処かに二人で身を隠すのに丁度良い場所はないか。  すると前方に、さっきの井戸が見えた。  そこで一旦走るのを止めて、辺りを見回す。 「どうしたのですか」  青年が、こちらを見詰める。 「私は、吾妻。沖縄県警の刑事だ。君は?」 「武蔵野裕哉。東京の大学生です」 「判った、裕哉君だね。所で裕哉君、取り敢えずここまで来たが、この先には島民の集落があるだけで、逃げ場が無い。追っ手を巻くために、何処かに身を隠すのが、今は重要なのだが…」 「周りは林しか無いですね」 「やはり炭焼小屋まで戻るのがベストか…」  すると裕哉が声を上げた。 「追って来ます」  そう言って指差す先を見ると、獣道の上の方から数人の声がする。 「隠れよう」  吾妻は、裕哉の袖を掴むと、近くの藪に身を隠した。  暫くすると、白装束が四人、井戸の広場まで降りて来た。 「どっちに逃げた?」 「わからん」  白装束達は、辺りを見回している。  しかし、どっちに逃げたとはどういう意味か。逃げ道は、北側集落に降りる獣道一本だけの筈だ。 すると、白装束達は、 「俺たちは集落を探す。お前達は隠れ家を探せ」  と言って二手に別れた。 白装束の内二人は姫神集落に繋がる獣道を駆け下りて行く。  しかし残りの二人は、井戸を中心に見て西側の藪に分け入ると、その藪の木を脇に放り投げた。  なるほど、あそこにも獣道があって、根が地面に張っていない木を置いて、その獣道が存在する事が一見して判らない様にカモフラージュしていた訳か。 「どうするのです」 「北側に下る獣道は、集落に行き着くだけで逃げ場がない。上に戻っても、神社に参拝している島民に見つかる可能性がある。ならば、こうして藪に身を隠したままにしておくか、もしくは先がどうなっているか判らない、あのカモフラージュされていた獣道に入ってみるかだ」 「あのカモフラージュされていた獣道は危険でしょう。白装束の連中が、確実にあの先に居るのだから」 「さっき白装束達は、あの先に隠れ家があると言っていた。それがどんな物かは知らないが、文字通りならば隠れるのに適しているのだろう。あの獣道に入ってみて、白装束の連中が引き返して来る様なら、藪に隠れてやりすごせば良い」 「本気ですか」 「じゃあ、ずっとこのまま藪に隠れているかい。トイレや喉が乾いたりしても我慢出来るかい。あの獣道の先に家があるのならば、トイレも水道もあるはずだ」  そう言われて、裕哉は急に俯いた。そして呟いた。 「今、トイレに行きたいです」 「じゃあ決定だ。あの獣道を進もう」  吾妻と裕哉は、西側に下る獣道に分け入り、白装束と鉢合わせしない様に慎重に歩みを進めた。 そして少し進むと、木々の隙間に家屋の屋根が見えた。  白装束達の声も聞こえたため、藪に身を隠す。 「だめだ、ここには居ない」 「じゃあ、北側に降りたのか。直ぐに井戸まで戻って後を追うぞ」  白装束二人は、家屋から引き返すと、吾妻と裕哉が身を潜める藪の前を通って、井戸の広場に戻って行った。  それを確認すると、吾妻と裕哉は、藪から出て家屋に向かった。 その古ぼけた平屋の家屋は、建物を構成する壁やら窓枠やらの木材が、あちこち腐りかけていた。引き戸の玄関は、建て付けが悪かったが、施錠もされておらす簡単に開いた。  玄関に入って屋内の様子を伺う。屋内に人の気配はしない。もしかしてこの家屋は、村長の青嶋が言っていた、姫守衆の隠れ家という奴ではないか。ならば、祭りが終わるまで、彼等は戻って来ない可能性が高い。 それに吾妻達に対する追跡も、ここは一度探した場所だから、白装束が他を探している間は無難な場所だ。 「一旦ここに身を隠そう。奴等も、一度探した場所ならば、暫くは戻って来ないだろう」 「トイレ、ありますかね」  裕哉が土足のまま、座敷に上がって玄関脇のトイレに駆け込む。  何時白装束が現れるか判らないので、逃げやすい様に土足のままで居るのは正解だ。  吾妻も土足のまま、座敷に座ると、一息吐いた。  トイレから水を流す音が聞こえて、裕哉が出て来た。  裕哉も吾妻の横に胡座をかいて座る。 「一体何で、奴等に捕まる羽目になったんだい」 「弟を…弟を探していたんです」 「それは、さっき境内で聞いたよ。何で弟さんが行方不明に?」 「判りません。一昨日の朝に、弟の辰哉と二人して、一泊二日の予定で、この島に来ました。目的は観光です。でも昨日の昼に、辰哉が一人で散策したいと言うから、自由にさせたんです。だけど本島に向かう最後の定期船が出港する夕方になっても、辰哉と連絡が取れないから、交番に駆け込んだんです」 「連絡が取れないと云うのは、携帯電話が繋がらないって事かい」 「はい、自分の携帯電話が故障したのかと思って、交番の電話を貸してもらって辰哉の番号に掛けてみたけど、やっぱり結果は同じでした」 「六奈は弟さんの捜索をしてくれたのか」 「関係ありそうな場所を見回って来るから、交番で待っている様にと言われて、その通りにしていました。でも深夜まで待たされて、交番に戻った六奈巡査から、今夜は交番に泊まりなさいと言われたんです」  捜索すると言っていた時間帯は、丁度六奈は村長宅に居た頃だ。つまり実際には、六奈は武蔵野辰哉の捜索などしていない。 「それで、言われた通りにそうしたの?」 「はい、その後も六奈巡査は、辰哉を探しに行くと言って深夜に交番を出て行きました。でも朝になっても戻らないから、不安になって僕は一人で交番を出たのです。そしたら…」 「白装束の連中に捕まった」 「はい、その通りです。ただ弟を探していただけなのに、島民や白装束の人達に取り囲まれて、無理矢理山の上の神社まで連れて行かれました」  後は吾妻も知っている通りだ。 「そうか、弟さんが無事だと良いな」 「この島、一体何なのですか。だだの観光地だとばかり思っていたのに…」 「それを私も知りたい所だよ」 「これからどうするのですか。自分としては、弟を探したいのですが」  これからどうするのか。さて、どうした物か。  喜多の著書によれば、姫ヶ島の年に一度の秘祭の日は、まず午前中に島民が海姫神社を参拝する。そして午後から為朝の姿を模した山車が、島内を練り歩く。  それが終わると、夕方から本当の秘祭が始まる。数名の選ばれた島民が、巫女と共に海姫神社に集まり、秘密の儀式を執り行い、他の島民は外出禁止となる。  それが、秘祭のスケジュールだ。  もし嘉手納と武蔵野辰哉を捜索するのならば、島民の多くが家に閉じこもる夕方以降が良いだろう。  しかし昨夜本島に向かった稗田が、順調に警察手帳を署長に届けてくれていれば、遅くとも夕方までには増援が到着する筈だ。 本当は、それまでに嘉手納の所在を押さえたかったが、こうなった以上、もう増援が来るのを大人しくここで待って、隣に居る武蔵野裕哉の保護を優先すべきだろう。  彼の弟の捜索と、嘉手納の拘束は、増援に任すのが良い。  吾妻はその考えを、今までの捜査の経緯と共に、簡単に裕哉に伝えた。 「でも、もし増援が遅れて今日中に来なかったら?」 「君をここに残して、私が一人で弟さんを探しに行くよ」  嘉手納の所在も確かめたいが、兄と同じ様に島民に危害を加えられているかもしれない、武蔵野辰哉の捜索を優先すべきだろう。  吾妻がそう言うと、裕哉は納得してくれたのか、頷いてみせた。  そして陽が西に傾き夕闇が迫るのを、二人で待つ事にした。  身体の痺れがまだ残っていた。痺れる四肢に力を入れて起き上がろうとしてみたが、リョウに打たれた薬物以外の何かに阻まれて、身動きが取れなかった。  霞む視界を良く見詰めてみると、両手と両足に鎖が巻き付けられているのが見て取れた。 その何周にも巻かれた鎖は、南京錠で止められている。  声を発してみようと試みたが、口にも猿轡がしてあり、声も出せない。あれから何時間経ったのだろうか。  あの時、リョウに足を掴まれて落下した後、リョウが持っていた注射器で何かの薬品を注射されたのを覚えている。  そして、その薬品により意識を失い、今に至る。 ここは何処なのだろうか。  正面に見える天井には、電灯がぶら下がっている。そして身体を捻って周りを見渡すと、先程の屋敷の次の間に居る事が判った。頭の横には、あの瓶が並んでいる。 「目が覚めた?」  襖が開いて、リョウの姿が見えた。 「辰哉君、何で逃げ出したのさ?僕が怖かった?」  辰哉はただ、瞠目してリョウを見詰めている。 「鎖、食い込んで痛いでしょ。外してあげても良いよ。ただね…」  そこまで言うと、リョウは屈んで辰哉の耳元に唇を寄せた。 「ただね、逃げないって約束出来ればね」  そして立ち上がると、後ろ手に隠していた鉈を、辰哉に見える様にして言った。 「もし約束を破ったら、それなりの対処をしなくちゃいけなくなる」  リョウは、左手に掴む鉈を揺らしながら可愛らしく笑った。 夕方、吾妻は角蛇山の西の斜面に位置する隠れ家から出ると、そのまま姫磯集落が見える場所まで移動した。  そこから姫磯集落の港を見下ろす。  しかし波止場には、警察の船舶が停泊している様子は無い。 「まだ来ないのか…」  稗田が昨夜の内に本島に到着していれば、そろそろ沖縄県警の増援が姿を見せても良い頃だ。しかし海原を眺めても、それらしき船団が向かって来る様子は見えない。  吾妻は肩を落としてその場を離れると、仕方がなく隠れ家に戻る事にした。  そして隠れ家に戻り、玄関の前に着くと、屋内から話し声がする。裕哉の声の他にもう一人、聞き覚えのある嗄れ声だ。 「…じゃあ、君はその弟さんを探してここに?」  間違いない、裕哉に問い掛けているのであろうその嗄れ声は、村長の青嶋の物だ。ここに潜伏していたのが、バレてしまったのか。  吾妻は、拳銃を抜くと、暫く玄関の外で考え込んだ。聞こえる声は村長の物だけだが、他にも嘉手納や姫守衆が屋内に居るかもしれない。 吾妻は身を屈めて、玄関から隠れ家の裏手に回り込むと、窓の下からそうっと頭を上げて、屋内を覗き込んだ。  しかし狭い隠れ家の屋内には、村長と裕哉の二人しか姿が見えない。 吾妻はそれを確認すると、再び玄関前に戻り、今度は拳銃を構えたまま玄関の引き戸を勢い良く開けて、屋内に入った。  拳銃を構えた吾妻の突然の登場に、村長が驚いて後ずさる。 「吾妻さん、どうでしたか、警察の増援の方は…」  裕哉が落ち着いた声で、吾妻に訊ねる。 「増援はまだ来ない」  吾妻は銃口の先の村長から視線を逸らさずに、裕哉に応えた。 「拳銃を向けるな。私は君を探していたんだ」  落ち着きを取り戻した村長は、声を殺して言った。 「私を?何故。また捜査の手を引けと交渉か?」  吾妻が拳銃を下ろして訊ねると、村長は溜め息を吐いた。 「何故、約束通りに姫ヶ島を離れなかったんだ。それに警察の増援は来ないぞ」 「あんな交渉は呑めない。私は最後まで、職務を全うするつもりだ。それに増援は来ないだって?何故そんな事が判るんだ」 「君は稗田とかいうあの学生に、沖縄県警への増援の言伝を頼んで、一人で泳いで島に戻ったのだろう」  知られている筈の無い、昨夜の海上での一場面を言い当てられて、吾妻は困惑した。 「何故それを知っているんだ」 「嘉手納から聞いた。昨夜、君達を逃がした後直ぐに、姫守衆を連れた嘉手納が戻って来た。そして君達が逃走したと知ると、漁船で追い掛けて、稗田一人を捕まえて帰港したんだ」 「あの子は捕まったのか…」  そういえば、泳いで姫ヶ島に戻る際に、船の駆動音が聞こえたのを憶えている。あれは吾妻達が乗って逃げたボートを追う、嘉手納と姫守衆が操る漁船だったのか。 「そうだ、嘉手納に捕まって、今はアブの中に、つまり島の地下に監禁されている」 「くそっ、じゃあ増援は何時まで待っても来ないじゃないか」 「だから、そう言った。君達と取引して、少なくともそのつもりで、ボートで逃がした私も浅はかだった。君達を始末するために、嘉手納がそこまで執拗になるとは考えていなかったんだ。だが、稗田を一人で本島に向かわせた君も考えが甘かったな」  そう言われて、吾妻はこれからどうするべきかと考えながら、肩を落とした。 「それに、この裕哉君の弟も、アブの中に捕らわれていると姫守の一人が言っていた」  村長がそう言うと、それまで畳に座っていた裕哉が、弾かれる様に立ち上がった。 「弟の居場所を知っているのですか?詳しく教えて下さい!」  すると村長は残念そうな表情を見せて、裕哉を諭した。 「可哀想だが、もう弟さんも、稗田という学生も手遅れだ。アブに連れ込まれたら、後は処分されるのをを待つしかない。救出も不可能だろう」  しかし裕哉は、村長に食って掛かった。 「居場所を知っているなら、教えて下さい!そのアブってのは、何処にあるのですか!」   村長は、溜め息を吐いてから、教えても意味はないが、と前置きしてから話してくれた。 「アブ、つまり島の地下の洞窟には、この獣道の上にある井戸、それに八郎城の隠し扉と、姫神集落の近くにある海岸の洞窟から入る事が出来る。だか安易に中に入っても、複雑な分岐のある洞窟内で迷って、二人を救出する所か、君も二度と地上に戻れなくなるだろう」  村長が言い終えると、裕哉は懇願する様に吾妻を見た。 「吾妻刑事…弟を助けに…」 「判っている。二人の学生が拉致されていると判って、放置する訳には行かない」  吾妻は床を見詰めたまま応えた。  すると村長が口を挟んだ。 「昨夜君達が使ったボートは、嘉手納が漁船で牽引して戻って来て、今は姫磯集落の港にある。そのボートの鍵なら、今も持っている。今度こそ君を逃がすために、持って来たんだ。二人の事は諦めて、そこの裕哉君を連れて、今度こそ本島に帰れ」  しかし村長の説得に、吾妻は顔を上げて睨み返して応えた。 「裕哉君だけをボートで帰す。村長は、裕哉君を安全に港まで案内してやって欲しい。私はこれからアブに入って二人を救出に行く」  吾妻が決意を述べると、裕哉がそれに意見を述べた。 「でも、それじゃあ、その稗田って人と弟を救出した後は、どうやって島から脱出するんです。僕も吾妻刑事に付いて行きます」  裕哉は、弟を残して一人で逃げる訳には行かないと考えていた。 「足手纏いになる。君は一人で逃げろ」  しかし吾妻が、その提案を跳ね除けて、裕哉を睨む。 「いえ、一人で逃げても、その稗田さんみたいに追い掛けられて捕まる可能性だってあります。だったら、拳銃を持っている吾妻刑事の傍に居た方が安全です」  裕哉は、絶対に一人では島を離れないとの意志の籠もった瞳で、吾妻に訴えた。  すると吾妻は、苦渋の表情を見せた後に、確かに裕哉の言う事にも一理あると考え、 「なら仕方がない…、一緒に付いて来い。だけど安全の保障は出来ないぞ」  諦めの籠もった情けない声を出した。 「君達は馬鹿だな」  その二人に村長が呆れて言う。そんな村長の言葉を無視して吾妻が訊く。 「ここから一番近いアブの入り口は、この上にある、あの井戸なんですね」  すると村長も諦めの籠もった声で言った。 「案内も無しで、井戸からアブに入れば、さっき言った様に内部で迷ってしまう。しかし、これから海姫神社で儀式が行われた後に、巫女の石井が八郎城の隠し扉からアブに入って地下の屋敷まで行く筈だ。儀式が終わるまで神社の近くに身を潜めて、石井を尾行して行けば、弟さんが捕らわれている屋敷まで辿り着くだろう。あの女学生も、屋敷か、その近くの洞窟内の氷室に監禁されている筈だ」 「判った。じゃあ、二人で山頂の神社に向かおう」  吾妻が言うと、裕哉は頷いた。 「姫守衆が、まだ君達を探している。見つからない様に気をつけて行け。それから、その儀式だが、神社に近付いても儀式の内容は、決して見るな。もし間違って見てしまったら、アブに立ち入る勇気も失われる」  村長の言葉に、吾妻と裕哉は顔を見合わせた。儀式の内容を見ると、一体何が起こると云うのか。  しかし、それを吾妻が訊ね様とすると、 「私が協力出来る事は、他に無い。忠告と情報提供と、ボートを貸すだけだ。それでは私は自宅に戻る」  村長は、吾妻にボートの鍵を渡して、隠れ家から足早に出て行ってしまった。  裕哉は、一言村長に礼を言おうとして後を追ったが、玄関を出ると、もう村長の姿は獣道の遠く上の彼方に背中が見えるだけだった。  吾妻も続いて隠れ家を出た。 「じゃあ、山頂の神社に向かうとするか」  拳銃を尻に差し込みながら、吾妻が呟いた。  村長の警告通りならば、これから二人が取ろうとしている行動は、一筋縄では行かない筈だ。裕哉は、弟を救出するための洞窟への侵入にそなえて、自分に気合いを入れようと、両手で頬を叩いた。  山頂に着くと、神社は篝火の灯りで妖しく、そして朦朧げに、夜の帳にその姿を映し出していた。  獣道を登り、社の裏手に出た吾妻と裕哉は、境内に入らず茂みの中を移動して社の西側に回った。  社の付近からは祝詞を読み上げる声と、鈴の音が聞こえる。  村長からは、儀式を決して見るなと釘を刺されていたが、藪の中を社の側面に移動して、身を屈めるまでの一瞬に、社の前方が目に入った。  社の前には、左手に鈴を持った巫女の石井が社に背を向けて立ち、一心不乱に祝詞を唱えている。その周囲には、石井を取り囲む様にして、芭蕉布の衣装に身を包んだ数名の島民と覚しき老若男女が跪いている。その島民と覚しき集団の更に後ろには、儀式の守護を司る三人の姫守衆が待機していた。  それを一瞬に視界に捉えると、村長から儀式を見るなとの警告を受けていた事を思い出して、吾妻と裕哉は慌てて身を伏した。  裕哉は、一体境内で何が行われているのか興味があったが、覗く訳には行かないし、声を立てて巫女達に気付かれるといけないので、吾妻にその疑問を問うてみる訳にも行かない。  吾妻も、見てはいけない儀式に興味があったが、村長の警告を無視して、本当にアブに入る勇気を失う結果になっても都合が悪い。それに不意に頭を上げれば、やはり石井達に気付かれる恐れもあるので、頭を地べたに付けたまま我慢するしかなかった。  石井の唱える祝詞は、ひたすら聞こえて、次第にその声のトーンが上がって行く。その祝詞の詠唱は、一種トランス状態にあるのではないかと思える程に、激しい抑揚の波を持って高らかに声を響かせている。  そして祝詞の詠唱の盛り上がりに合わせて、それまで規則的だった鈴の音が、ただ闇雲に振り回しているだけなのではないかと想像する程に激しくなる。  しかしそこで、奇声に近かった祝詞の声と、破裂音の様な乱暴な鈴の音が、突然ピタリと止んだ。  吾妻と裕哉は、相変わらず茂みに身を伏せているので、境内の様子は見えない。  音だけで状況を判断するしか方法は無い。  祝詞と鈴の音が止むと、境内には暫く静寂が訪れた。  しかし徐に石井の囁く様な喋り声が聞こえて来た。ほとんど囁き声に近いため、何を語っているのかは聞き取れない。暫くすると、その囁き声も聞こえなくなった。  そして一度だけ鈴がチリンと鳴った。  そこからは静寂が長かった。  しかし何やら数人の人が蠢く衣擦れ音が聞こえる。  吾妻と裕哉は顔を見合わせていたが、裕哉が吾妻の耳元に口を近付けると、囁いた。 「静かですけども、儀式、終わったんですかね」  村長は、儀式が終われば、石井は八郎城に移動して隠し扉からアブに入ると説明していた。  もし儀式が終了していて、八郎城に向かうならば、玉砂利を歩く音がする筈だ。 しかし聞こえて来るのは、衣擦れ音だけで、玉砂利を歩く音はしない。  そこに突然複数の人間の、嘔吐をする様な下品な声が聞こえ始めた。 「うおえっ」 「うげっ」 「げぼっげおえっ」  それは苦しくもがく様な暴れる音と共に聞こえる。一体、この儀式は何なのか。  吾妻は、余程覗き見たい衝動に駆られててしまった。しかし堪えて我慢する。  嘔吐の声は続いたが、それも暫くすると止まった。  そして再び静寂。この二度目の静寂は長かった。  吾妻と裕哉は、儀式は完全に終わったのではないかと、確信を持った。  裕哉が囁く。 「もう終わったのでは?覗いてみましょう」  吾妻は、玉砂利を移動する足音が聞こえるまで、もう少し我慢しようと思ったが、あまりにも静寂が長いので、業を煮やして頭を上げた。  それに続いて裕哉も、顔の上半分を茂みから出す。  社の前には、相変わらず鈴を手にした石井が立っていた。 しかしその周囲には姫守衆が三人居るだけで、島民と覚しき老若男女が見えない。  頭をもう少し上げて、境内の玉砂利の上を見ると、理由が判った。  数名の老若男女は、玉砂利の上に俯せに倒れていた。そしてピクリとも動かない。  いや、まだ一人だけ、俯せておらず四つん這いに玉砂利に手足を着く若い男が居る。  しかし何か様子がおかしい。男は口から何か長い物を垂らしている。  男はそれを片手で掴むと、ゆっくりと口内から引っ張り出す。  長い物が玉砂利に落ちる。落ちた長い物は、玉砂利に全体をぶつけると、鎌首を擡げた。  男が口から吐いていたのは、胴回りが十センチはある真っ黒な蛇だった。  そして蛇を吐き終えると、男は力無く玉砂利の上に崩れ落ちた。  良く見ると、倒れた老若男女の周りに、うねうねと数匹の黒蛇が蠢いている。  そして竹製の籠を手に持つ姫守の一人が、玉砂利に蠢く数匹の黒蛇を摘み上げて、籠の中に次々と入れて行く。  吾妻と裕哉は、あまりの光景に、言葉を失い再び茂みに身体を平伏した。 「あれは?一体何なんです?」  裕哉が額の脂汗を拭いながら、吾妻に囁く。  しかし、そんな事を訊かれても、吾妻にだって判る筈がない。ただおぞましい物を見たと云う認識があるだけだ。 「では、八郎城に向かいましょう」  石井の声がした。  数人の玉砂利を踏む足音もだ。  吾妻は顔を上げた。  すると、石井と三名の姫守衆が、社に背を向けて、山を下る階段に向かって行く所だった。  社の前に倒れる老若男女に視線を移すと、その俯せの数名はまるで息絶えたかの様に身動き一つしない。  石井達の姿が階段の下に消えると、吾妻と裕哉は茂みから境内に姿を現した。  そして吾妻が、倒れる老若男女に近寄り、最後に倒れた男性の傍に屈むと、その脈を取る。しかし、男性の手首は脈打っていなかった。 「死んでいるのですか?」  裕哉が訊ねると、吾妻は黙って頷いた。  裕哉が、他の倒れている老若男女の脈も、一人一人確認する。不思議な事に、斃れた老若男女には、皆一様に、大きな怪我や身体の一部の欠損が見られた。 「呼吸や脈のある者は、一人も居ない。意味が判りません。これから、どうするんです」  裕哉が、秘祭の儀式の不可解な展開に、あまりの恐怖を感じて涙目になる。  しかし吾妻は、暫く玉砂利の上に無造作に転がる死体の群れを睨んでいたが、 「予定通り行動しよう」  呟くと立ち上がった。  そして死体の群れは放置したまま、石井の後を追って階段に向かう。吾妻から離れまいと、裕哉も小走りで続く。  二人は階段の最上部まで来ると、眼下を見下ろした。両脇に篝火が設えられた階段には、石井と姫守衆の姿は見えない。もう階段を降りきって、八郎城の隠し扉からアブに入ったのだろうか。 ならば急いで追い掛けねばならない。アブの中で石井を尾行出来なければ武蔵野辰哉や稗田ゆきみの救出が困難になるからだ。  吾妻と裕哉は、階段を駆け降りると、鳥居を潜って、八郎城に辿り着いた。しかし辺りを見回しても、石井達の姿は無い。 「隠し扉は、何処にあるのでしょう」  裕哉が、当たりをキョロキョロと見回しながら、吾妻に訊く。  長さニ十メートル程の八郎城址の周りを、二人で行ったり来たりする。すると、鳥居から下る参道とは反対側の城の裏側に、大きさ一メートル程の石が無造作に転がっていた。石垣を構築する石の一つが抜き取られていた。  近付いて、その石が抜かれてポッカリと開いた空間を見ると、中に鉄製の小さな扉がある。  吾妻は扉のノブに手を掛けると、捻って引いた。扉が手前に開く。 「よし、鍵は掛かっていない。裕哉、行くぞ」  隣で震える裕哉に言うと、彼は怖気を振り払うためか、両手で自分の頬を叩いた。  その高さ一メートル程の扉を潜ると、石垣の史跡の中は空洞になっていた。空洞は幅が狭かったが、身長一七五センチの吾妻が背筋を伸ばして立てる程の高さはある。  二人は、吾妻を先頭に並んで石垣の中を進んだ。通路の先には、さっきまでの篝火とは違う人工的な灯りが見える。 その灯りを頼りに十メートルも歩くと、そこから先は地下へと続く階段になっていた。天井の電灯のおかげで足下も見えるため、間違って階段を踏み外す事もなさそうだ。  緩やかに右にカーブする階段の下の方からは、先に歩く石井達の足音が響いて来る。  吾妻と裕哉は、先を行く石井達に追い付かない様に、それでいて引き離されて尾行を断念しなくとも良い様に、石井達との間隔に気を使いながら慎重に進んだ。  足音を立てると、石井達に気付かれる可能性もあるので、忍び足で階段を降る。  そうして階段は百段も降りると、平らな通路に変わった。  前方にY字路が見える。通路は暫く直線に進んだ後、二手に別れる分岐になった。   吾妻と裕哉は、Y字路まで進むと、聞き耳を立てた。石井達の足音は、左の通路から聞こえる。左の通路を覗き込んでみると、緩やかに左にカーブしていて、石井達の背中は見えない。  吾妻と裕哉は、そのまま忍び足で左の通路を進んだ。  その先は下りの傾斜になっており、更に三つの分岐もあったが、石井達の足音を頼りに二人は尾行を続けた。  そして暫く進むと、地下を流れる小川沿いの通路に出た。進むにつれて、小川は川幅を広げて行く。  ニメートル程の川幅になった頃、前方が今までの通路よりも、より明るくなっているのに気付いた。どうやらこの先は、少し開けた空間になっていて、天井の電灯の数も多い様だ。  吾妻と裕哉が立ち止まって様子を窺っていると、前方の広い空間にチラチラと電灯に照らされた人影が動くのが見える。それに微かだが、複数の人間の話し声も聞こえて来る。  石井達は、そこで進むのを止めて、何やら話し合っている様だ。 聞き耳を立てると、会話の内容が、僅かだが判った。 「これは六奈…どうですか…」 「…です…そちらは」 「だれかに尾行されて…六奈さ…見て…下さい」 「それなら我々姫守が…」 「いえ…ここは…頼んで…先に進みましょう…」  この先の空間で、石井達はあの六奈巡査と合流した様だ。  しかも尾行に感づいている可能性もある。  話し声は暫くすると聞こえなくなり、複数の足音が更に洞窟の奥に消えて行くのが判った。  吾妻と裕哉は、そのまま追い掛けて進もうか、それとも尾行に気付かれているのならば、他のルートを探して地下の屋敷とやらに向かおうかと、暫し勘考した。  すると、前方の広い空間から六奈の声が響いた。 「吾妻刑事ではないですか?隠れているのでしょう」  名指しにされて、吾妻は洞窟の壁の窪みに身を隠した。裕哉もそれに続く。  窪みから顔を半分出して洞窟の先を見ると、灯りの強い前方の空間と、薄明かりの電灯に朧気に照らし出される通路との境に、制服警官のシルエットが見えた。 「吾妻刑事、出て来て下さい。そうじゃないと、貴方を始末出来ません」  六奈が明るい声で吾妻を呼ぶ。  吾妻は、もうアブへの侵入や尾行がバレてしまっているのならば仕方がないと、窪みから姿を現した。  次の瞬間だった。  六奈のシルエットが、腰のホルスターから拳銃を抜いて、吾妻に発砲した。弾丸が、吾妻の頬を掠り、背後の岩壁に跳弾する。  吾妻も慌てて尻の拳銃を抜くと、六奈目掛けて二回発砲した。その内の一発が六奈の右肩に命中して、シルエットが倒れる。  吾妻は拳銃を構えたまま、六奈に駆け寄る。  通路の先の開けた空間には、通路の脇を流れる小川が池となって行く手を阻んでおり、そこを通過出来る様に木製の橋が架けられていた。橋の向こうには、更に地下へと続く通路が見える。  六奈は、その池の畔で、右肩から流れる鮮血を左手で抑えて、呻き声を上げている。  吾妻は拳銃を構えながら六奈に近寄ると、まず彼の傍に落ちている彼の拳銃を蹴り飛ばして、遠くへやった。 「いいか、これが職務から逸脱した警察官に与えられる懲罰だ。その痛みを良く身体に刻み込んで、心を入れ替えろ」  吾妻は、そう言って拳銃を尻に仕舞うと、六奈の両手首を掴み、ポケットから取り出した手錠を掛けた。そして今来た通路を振り向いて、 「裕哉君、もう安全だ。こっちに来ても平気だぞ」  と言った瞬間、 「生憎、私は警察官ではなく、島の人間なんでね」  六奈は笑って、跳ね上がる様に飛び起きると、吾妻の背中に飛びかかった。  そして両手首を繋げる手錠の鎖を、吾妻の首に引っ掛けて、背後から頸椎を締め上げる。  吾妻は締まる首筋に両手を掛けて、鎖を外そうともがく。しかし渾身の力を込める六奈に、鎖は外される所か更に深く吾妻の喉に食い込む。  そこに駆け付けた裕哉は、足下にあった手頃な岩を拾い上げると、六奈目掛けて投げつけ様と試みた。しかし激しく暴れる吾妻を押さえ込もうとして身体を揺らす六奈の頭部に、狙いを定める事が出来ない。  そうこうしている内に、呼吸の出来ない吾妻の意識は薄らぎ始めた。  これでは不味い。  吾妻はそう心中で呟くと、全体重を背中に掛けて、背後の六奈を押し倒す様にして、二人で池の水面に転倒した。  六奈の身体が、吾妻の下敷きになって池に沈む。  池は意外と水深が浅く、六奈はすっかり水没したが、吾妻の顔面は辛うじて水面の上にある。しかし水中に没した六奈は、吾妻の首を締める力を緩めない。  二人は水中と水面で、両足を振り回して窒息の苦しみにもがく。  六奈の溺死と吾妻の窒息死の、どちらが先かの根比べだ。しかし六奈よりも先に窒息が始まっていた吾妻の方が劣勢だ。  もう肺活量が保たない。そこで吾妻は、思い切って鎖から手を話すと、下敷きになっている六奈の、右肩の銃創に指を突っ込んだ。  水中の六奈は、その痛みに思わず声を上げ、口を開いた。六奈の肺から空気が漏れて、代わりに大量の水が流れ込む。  吾妻の頸椎を締め上げる鎖が緩んだ。  しかし吾妻は、呼吸が出来る様になっても、暫くの間、身体の下の六奈に体重を掛けたままにしておいた。  そして完全に六奈が動かなくなると、水面から立ち上がった。 「まったく…悪徳警官め…」  池から上がると、吾妻はぼやいた。 「大丈夫ですか」  酸欠から足下のふらつく吾妻に、裕哉が近寄り肩を貸す。  すると吾妻は、足下を指差して、 「六奈の…六奈の拳銃を拾ってくれ」  裕哉に頼んだ。  裕哉がそれを拾い上げて渡すと、吾妻は尻から取り出した拳銃に弾丸を装填して右手に構え、六奈の拳銃を左手に持って言った。 「こんな狂った地底の捜索じゃあ、拳銃は何丁用意しておいても足りないくらいだ」  そして手錠の鍵を取り出すと、もう動かない六奈からそれを外して、ポケットに仕舞った。 「さあ、先に進もう」  吾妻は呟くと、裕哉を連れて橋を渡り、更に地底へと降る通路の先へと歩みを進めた。    リョウと辰哉は話し込んでいた。  それは、もう絶対に逃げたりしないと云う約束を交わすために、リョウが辰哉の猿轡を外してくれて可能となっていた。 しかし辰哉の顔色は優れない。逃げないとの約束を交わして、拘束が僅かに緩められただけで、まだ手足を鎖に括られ監禁されているのには変わらない。  それに、逃げないとの約束を強要されたと云う事は、リョウから見れば、ここから辰哉を出すつもりは無いと云う事になる。 だから辰哉からすれば、この地の底で息絶える前に、隙を見て何とか脱出しなければならない。  それも出来るだけ早くにだ。  何年も監禁されるなんて、まっぴら御免だった。  だから交わした約束への誓いは、取り敢えず拘束を緩めてもらうための嘘である。 (こんな所で死ぬつもりはない)  辰哉は脳裏にそう強く念じた。 「でね、この島の歴史って云うのはね。沖縄がまだ陸続きの琉球古陸だった頃からあるのさ」  リョウは辰哉の心中など知らずに、楽しそうに話をしている。 「これから辰哉君にする事を良く知っておいてほしいから、こんな話しをしてるんだよ。だから詰まらなくても、ちゃんと聞いてね」  これから辰哉君にする事、と聞いて辰哉は身震いした。一体何をされるのか。 「この琉球古陸があった頃、この琉球は、海の彼方の竜宮、つまりニライカナイの属国だったのさ。それでね、ある時期に海面上昇や陸橋の崩落が起こって琉球は諸島になったの…」  リョウは辰哉に、そんな話を聞かせて何をしようと云うのか。 「良い?ここからが大切だよ。この海上に島として残った山に最初に移り住んだのは、人間ではなかったのさ」 「人間ではない?どういう事なの?」  辰哉は息を呑んだ。 「その最初の住民は、ニライカナイの住民、つまり竜宮に住まう九頭竜の眷族達だったんだ。海姫神社に蛇を模した象徴が無いのに気付いたかい?あれは、象徴を祀るまでもなく、九頭竜の眷属が、この島に存在するからなのさ。つまり蛇の象徴が無いのは、ユダヤの神が己の偶像を祀られる事を厭うたのと同じだからさ。それにこの島には海姫も居る。神が歴然と在るのならば、それを模した象徴は必要ないだろ」  そしてリョウはくすくすと笑った。  六奈が待ち伏せしていた広間から先は、分岐もなく一本道だった。  吾妻と裕哉は、暫く進むと、長い階段の上に辿り着いた。  階段を降って行くと、途中の踊り場の岩壁に、金属製の扉が設えられていた。  扉の向こうから話し声が聞こえる。  吾妻は扉に耳を当てると、聞き耳を立てた。  扉の向こうから聞こえるのは、嘉手納と稗田の声だ。  間違いない、ここが村長が言っていた、稗田が監禁されている氷室なのだろう。  吾妻は、二丁の拳銃を構えると、裕哉に扉を開ける様に指示した。 「徐福はついに蓬莱山には辿り着けなかったけど、蓬莱山には本当に不老の仙薬があったんだ。その後、蓬莱山に辿り着けなかった徐福の船団の一部が、八丈島に辿り着いたのさ」  辰哉も徐福と云う名前ぐらいは知っていた。秦の始皇帝の不老不死の願望を叶えるために、仙薬を求めて船出した方士の事だ。辰哉がそれをリョウに確かめると、リョウは「その通り」と前置きして、徐福の説明を始めた。  司馬遷が著した『史記』の秦始皇本記によれば、紀元前ニ一九年、道教の方士徐福は、仙人の住む蓬莱・方丈・瀛州という三つの神山が海にあるから、身を清めた上で童男・童女を連れて仙人を探しに行きたい、と始皇帝に上書した。  現世と政権に対する執着から延命長生を願っていた始皇帝は、不老不死の仙薬を持ち帰る事を条件にそれを許可し、徐福の願い出通りに童男女数千人を与えて、航海へと挑ませたのだ。 「その後、十世紀頃から、徐福の日本渡来説が、中国で言われ始めたんだ。そして、その通りに日本には各地に徐福伝説がある。その一つに、徐福の船団が八丈島と青ヶ島に上陸したと云う伝説があるのさ。船団は嵐に遭難して、当の徐福を乗せた船は紀州熊野に辿り着いた。しかし童女と童男を乗せたそれぞれの船は、紀州熊野より、だいぶ東の伊豆諸島まで流され、童女を乗せた船は八丈島に、童男を乗せた船は青ヶ島に辿り着いたんだ。そして、童女の漂着した八丈島は女護ヶ島と呼ばれ、童男の漂着した青ヶ島は男ヶ島と呼ばれたんだ。それから一三五八年後の、保延五年。源為義の八男として為朝が産まれた。それから十七年後の一一五六年の保元の乱で、崇徳上皇に味方した為朝は、後白河天皇に味方した平清盛や源義朝に敗れて、伊豆に流罪となるんだ」  リョウがそこまで話した所で、辰哉は話が徐福から為朝に変わった事について質問した。 するとリョウは、その二人が姫ヶ島に恵みをもたらして窮地を救ったのさ、と笑った。 「蓬莱山、つまり竜宮から流罪となった、姫神集落の住民は、最初は竜宮から持参した仙薬で延命して生き繋いでいた。だけど、その仙薬もやがて尽きてしまったんだ。そこに、八丈島から為朝が姫ヶ島に来島した。蓬莱山に辿り着けなくとも、道教には、元々不老の仙薬の秘術があってね。徐福が伝えた道教の仙薬を携えた為朝を、竜宮の眷属達は歓待した。これで竜宮の仙薬が無くとも延命出来るからさ。道教の仙薬は、竜宮の物程効果は長くなかったけれども、それなりに効き目はあった。でも、それから八百年以上が経ち、その為朝の持参した仙薬も尽きてしまった。だから、姫神集落の住民は、もう竜宮に戻らなければならない。仙薬を手に入れるためにね」  辰哉は、そこまで聞いて目を白黒させた。あまりにも荒唐無稽な話しに、付いて行けない。 「リョウ君、君の言っている事は、さっぱり解からないよ。竜宮なんて、在る訳が無い理想郷に、どうやって帰るんだい」 「九頭竜の鱗があれば、帰れるんだよ。但し、罪人である流人を赦免して、竜宮が受け入れてくれるかは判らないけどね」 「鱗?何だい、それは。ますます解からないよ」 「そうかい、なら僕の言いたい事と、やりたい事を、率直に言うよ。竜宮に受け入れられてもらえるか判らない危惧があるために、僕としては鱗を使う前に房中術を実践しておきたいのさ」 「房中術?」 「他人の精を奪って、延命する道教の秘術だよ。鱗を使っても、竜宮に受け入れを拒否されたり、仮に受け入れられたとしても仙薬の付与を拒否される可能性がある。でも、その万が一に備えて、房中術を実践しておけば、暫くの間は不老の安泰を得られる」  リョウの言っている事が、現実なのか妄想なのかは不明だが、辰哉はリョウの言っていた『これから辰哉君にする事』の意味を悟った。リョウは、延命のために、辰哉と房中術を実践して、その精とやらを奪いたい腹積もりなのだろう。  辰哉は恐る恐る聞いた。 「房中術で、精を奪われるとどうなるの?奪われた人間は、死んでしまうの?だいたい精って、何なのさ…」 「精とは、男性の場合は精液に、女性の場合は経血に含まれていて、この精が尽きると死に至るのさ。道教の秘術の中には、有用なエルキシルである、オルガスムの際の女性の分泌液を、男性が性器から吸い取る技術がある。僕は、その技術を使って、辰哉君の精を吸い取りたいんだよ。勿論、君が死んでしまうまで、全部奪う積もりだよ」  辰哉は、その性魔術の淫靡さへの不快感と、彼の命を顧慮しないリョウの欲求に当惑を覚えた。 「そんな荒唐無稽な話しなんて、信じられないよ。竜宮に戻るとか、精を吸い取って延命するとか、常軌を逸してる」 「そうかい、どうすれば理解してくれるんだろう。僕は辰哉君に、これから行う房中術と、君に訪れる死に、理解と納得をしてもらった上で、実践に取り掛かりたいんだ。抵抗して暴れられたら、実行しにくいからね」  辰哉は、その身勝手な言い分に、驚怖と怒りを感じた。  するとリョウは笑った。 「そうだ、きっと僕の姿を見たら納得してくれるね」  姿なら、随分前から、ずっと見ている。辰哉は、もうリョウが何を言っているのか解からなかった。  その頃、リョウと辰哉が居る屋敷に至る経路ある、稗田が監禁されていた氷室では、拳銃を携えた吾妻が突入して、稗田の拘束を解く事に成功していた。  棚とそれに並べられた瓶のある小部屋には、その棚に手錠で繋がれた嘉手納の姿があった。  その嘉手納を取り囲む様に、拳銃を構えた吾妻と、先程まで鉈を持った嘉手納に拘束されていた稗田と、その嘉手納の鉈を所有者に向ける裕哉の姿もある。  そして拳銃を突きつけられた嘉手納が、吾妻の詰問に、不敵な笑みを浮かべて応えていた。 「佐久山を殺害したのは、佐久山本人に責任がある。あいつは、八丈島の海底から発見された石棺に人頭蛇身のレリーフがあったのと、その石棺に納められていた鱗を奪ったと推測される俺の苗字が、沖縄出身者を連想させる嘉手納である所から、人頭蛇身の神を崇拝する、この姫ヶ島を想起したのさ。そして俺を追って、この島に来島したんだ」 「そして佐世保教授殺害に付いて追求され、立場が不味くなったから、佐久山を殺害したんじゃないのか?」  吾妻が嘉手納を睨みつけながら、当初から抱いていた憶測をぶつけた。すると嘉手納は笑った。 「それは全く違う。佐久山は、俺の実家に来ると、俺が帰郷している事は警察に秘密にしてやるから、その代わりに島の秘祭を見せろと要求して来たんだ。要は、自分の研究だか好奇心だかの為に、佐世保殺害事件を利用して、取引を持ち掛けて来たのさ」  吾妻は、その自分の憶測とは相違する、嘉手納が語る真相に拍子抜けした。容疑者の自白を、安易に鵜呑みにする訳には行かないが、それが真相ならば佐久山にも自身の死に付いて、責任が無いとは言えない。 「それで警察に通報されても不味いし、秘祭を見せる訳にも行かないから、殺害したのか?」 「そうだ、だが手を下したのは俺じゃない。海姫様だ。佐久山の処分に付いて、海姫様にお伺いを立てると、海姫様が佐久山の局部を食っちまったのさ。それで佐久山は死んだんだ」  吾妻は、その話しに眉を顰めた。 「驚かないでね。蛇神と人間の合いの子には、蛇の身体に人の頭だけ付いている者や、それに腕が加わる姿の者、他にも人間と殆ど変わらない姿の者も居るんだ。僕は、どちらかと云うと、蛇よりも人の姿に近い方かな」  そう言うと、リョウは自分の耳を引っ張った。  辰哉は、リョウが何をしようとしているのか判らずに、それを凝視している。  するとリョウは、掴んだ耳を、一気に引き剥がした。耳が頭から離れ、耳の根元と繋がった顔の皮も、一緒に剥がれ落ちた。  皮の下には、赤い肉は無かった。  代わりに、鱗に覆われた顔があった。  辰哉は悲鳴を上げた。  しかしリョウは、それを無視して、全身の皮を剥がして脱皮して行く。  その鱗だらけの身体が露わになると、辰哉は悲鳴を上げるのを止め、怖気に囚われながらも、そのリョウの姿をまじまじと見詰めた。  その姿は、先程までの少年の裸体とは違い、少女の特徴を備えていた。 「ああ、やっと男の子の言葉じゃなくて、普通に喋れるわ。化けている時は、色んな皮を作って、人間に成りすましているのよ。今回は、男の子だったから、言葉が大変だったわ」  辰哉が眉を顰める。 「そんな風に、どんな人にも化けれるの?」 「蛇は皮に覆われている物でしょ。私達、竜宮の眷属は、皮を使ってどんな姿にも成れるわ。そして皮が劣化したら脱皮して、衣替えするのよ。まあ、中には化けるのが下手糞な奴も居て、人を模した皮に、瞳孔や髭、それに指紋が無かったりするけどね。でも、それも狸が化ける時に、尻尾が出ている様なもんで、御愛嬌かな」  そしてリョウは、床に置いてあった鉈を手にすると続けた。 「これで私の話を信じてくれた?じゃあ、さっそく房中術を始めましょう。でも、その前に、君の手足の鎖を外さないと。もう納得してくれたわよね?鎖を外しても、逃げないって約束出来る?」  それはリョウの話しを信じて、死の覚悟も決めろと云う意味なのだろう。  そんな覚悟は出来なかったが、辰哉はそれが、この化け物から逃げるチャンスだと考えた。  するとリョウは、辰哉の足下に屈んで、手にする鉈を、辰哉の両足にあてがって言った。 「もし約束出来ないのなら、逃げられない様に、足を切るわよ」  そして、その鉈を頭上に翳す。  辰哉は慌てて応えた。 「逃げない、絶対に逃げないよ!だから鎖を外して!」 「本当?絶対に逃げたりしない?」 「本当だよ、絶対に!」 「嘘は吐かないわね?」 「約束するよ、逃げたりしない」 「逃げないんだ…」 「うん、逃げたりしない」  するとリョウは笑った。 「逃げないなら、足、要らないじゃん」  そして鉈を振り下ろした。 「我々九頭竜の眷属は鼠や卵が好物だが、海姫様は元々男の一物を喰うのが大好きなのさ。昔、この島が竜宮の流人島から、琉球の罪人をも受け入れる流人島に変わった時、海姫様は、竜宮の眷属と人間が交わり、新たな海姫が産まれるのを厭うた。そこで姫神集落の住民は、琉球の罪人が送られて来ると、男は陰茎を切り、女は熱した鉄の棒で膣を焼いた」 「残酷だな」  吾妻が顔を顰める。 「そして切断された陰茎は、海姫様に献上されて、元々人肉が好物だった海姫様は、それを食した」 「食した?」  裕哉は、その話しに吐き気を催した。 「そうだ。そして何時しか、それは琉球の罪人が姫ヶ島に移住するためのイニシエーションとなった。だが、その風習は現代では失われている。琉球の流人達が、時代と共に経済力を付けると、自分達の権利を主張し始めて、その風習は無くなったんだ。だが、海姫様は、昔献上された保管されていた陰茎より、新鮮な物が食べたいと言って、佐久山を餌食にしたのさ」  嘉手納が微笑しながら語り終えると、それを冷静沈着に聞いていた吾妻が口を開いた。 「そんな御伽噺で、誤魔化したつもりか?責任能力の不在を訴えたいのか?じゃあ、佐世保教授は、どんな妄想から殺害されたんだ」 「別に信じなくとも構わん。佐世保を殺害したのは、竜宮に帰郷して仙薬での延命を行うために、鱗が必要だったからだ。姫ヶ島の聖域にあった鱗は、昭和の始めに憲兵隊に焼かれちまった。だから為朝来島後に、八丈島に感謝の意を込めて分祀した鱗が必要だったのさ。鱗があれば葉月の満月の夜に、アブの池から竜宮に戻れる」  それを聞くと、吾妻は頷いて言った。 「なるほどな、今回の佐世保教授と佐久山助教授の連続殺人は、島独特の信仰による儀式殺人の延長線上にある可能性も否めない訳だな」 「その通りだ、海姫様を崇拝する事に関連して佐久山は死に、竜宮に帰るために佐世保を殺した。それが事実だ。だが、もし俺の証言だけでは不満足ならば、この下の屋敷に居る石井達に会って、事実を確認すると良い」  この下の屋敷と聞いて、吾妻は監禁されている辰哉の事を思い出した。 「屋敷と云うと、辰哉君が監禁されている場所か?」 「ああ、あのボウヤなら、今頃海姫様に喰われているかもな」  嘉手納は、何が楽しいのか、大笑いした。 「吾妻刑事、こいつの御伽噺は信用出来ないけど、弟が屋敷に監禁されているのは、事実ではないでしょうか。早く助けに行かないと」  裕哉が吾妻を見詰める。 「そうだな、嘉手納の詰問はこれくらいにしておこう」 「じゃあ、直ぐに屋敷に向かいましょう」  裕哉が氷室を出ようとすると、吾妻が制止した。 「待て、屋敷には、私一人で向かう。あの姫守が待ち構えている可能性が高いからな。君は稗田さんと、ここで嘉手納を見張っていてくれ」 「でも、弟の無事を早く知りたい」  裕哉が自分も付いて行きたいと意志を込めて、吾妻に目で訴える。  しかし吾妻は、拳銃二丁をズボンの尻に挟むと、 「いや、やはり私一人で行く。ここから先は、安全を保障出来ない。君達二人が、ここに居てくれた方が、私としては身軽だし助かる」  すると裕哉は諦めて言った。 「そうですか、判りました。じゃあ、僕達はここで嘉手納を見張っています。くれぐれも弟を宜しく」  裕哉が頼むと、吾妻は、じゃあ行って来る、と一言して氷室を出て行った。  吾妻が去ると、嘉手納が裕哉に訊いた。 「ここへ来る途中で、六奈とは会ったか?」 「あの制服警官ですか?吾妻刑事が、正当防衛を行使しました」  裕哉が戸惑いつつ応える。 「殺したのか?」  嘉手納が笑った。  六奈の死をまだ知らない稗田が、驚きを交えて裕哉を見遣りながら応えを待つ。  裕哉は、自分の仕業ではない六奈の死に、罪悪感を感じているのか、苦渋の表情で俯いて、ゆっくりと頷いた。  すると嘉手納は、大笑いした。 「あいつは、姫神集落の出身でもないのに、警察官と云うだけで、生意気な奴だった。平気で、姫神集落の人間に意見したしな。そうか、六奈は死んだか」  大笑いしながら、嘉手納は裕哉と稗田を見据えた。  そして大きく呼吸すると、 「じゃあ、助けは来ないから、自分で何とかしないとな」  と呟き、手錠の嵌められた右手を、力一杯引っ張った。  嘉手納の右手と繋がる棚が、軋む音を立てる。  嘉手納は、そのまま身体を左に傾けて、手錠から右手を引き抜こうとする。 「暴れると、吾妻刑事を呼び戻しますよ」  その様子を見た裕哉が、嘉手納の行為を牽制する。  しかし嘉手納は、手錠から手首を引き抜こうとする力を緩めない。  そして右手首が、ミシミシと嫌な音を立てたかと思うと、手錠の輪っかに右掌だけを残して、手首が引き千切れた。  それを見て、稗田が悲鳴を上げる。  しかし千切れた手首からは、血液も出なければ、断面に骨や赤い肉も見えない。ただ表皮と変わりない皮が露出しているだけだ。  その光景に戸惑いを覚えながらも、裕哉は鉈を構えると、嘉手納に向けた。 「あんたは、何なんだ」  裕哉の問いに、嘉手納は微笑した。 「我々、九頭竜の眷属は、自由に皮を変態させて姿を形成出来る。皮が破損したら、秘祭の夜に脱皮して、また新しい皮を作るんだ」  そして裕哉に躍り掛かる。  裕哉は、それに鉈を振り下ろして反撃した。  嘉手納の頭が割れる。  しかし頭部に食い込んだ鉈を抜いても、手首と同じ様に表皮と変わらぬ皮が露出するだけで、鮮血も脳もはみ出しはしなかった。 「化け物め!」  裕哉が再び鉈を振り上げると、頭を割られた嘉手納がその腕を掴んだ。  そして、のし掛かる様にして、裕哉を押し倒す。 裕哉は、何とか鉈を持つ腕を自由にしようと、嘉手納の腕を振り払おうとしたが、その尋常ではない握力と腕力の前に太刀打ち出来ない。  すると裕哉の顔の真上にある、嘉手納の口が、大きく開かれた。嘉手納は、嘔吐する様な呻き声を立てると、喉の奥から何か黒い物を吐き出そうとしている。  裕哉が、顔を背ける。  嘉手納は更に口を裂かんばかりに大きく開く。  すると口内から、真っ黒な蛇が、その三角の頭をぬうっと突き出した。  裕哉が悲鳴を上げる。  嘉手納の口から現れた蛇は、まるで脱皮する様に、ずるずると身体を引き出すと、鎌首を擡げて裕哉の首筋を狙って噛み付こうとした。  しかし、その瞬間、頭の傍にあった岩を持ち上げた裕哉が、それを嘉手納の頭に叩き付けた。  その衝撃で、嘉手納の上顎と下顎が閉まる。  鎌首を擡げていた黒蛇は、嘉手納の上下の前歯により、その身体を切断された。  黒蛇の頭が、鮮血を吹き出しながら、裕哉の顔に落ちる。  それに合わせて、嘉手納の身体も、裕哉の上に崩れ落ちた。 「大丈夫ですか」  稗田が、裕哉に肩を貸して立ち上がらせる。 「もう、訳が判らない。これと似た黒蛇の嘔吐を、神社の秘祭でも目撃しました。この島の島民は、一体何なんですか。何奴も此奴も、化け物やおかしな奴ばかりだ」  そう吐き捨てると、裕哉は足下の黒蛇の頭を蹴り飛ばした。  小部屋の外の長い階段を降ると、その先に明るい光が差す空間が見えた。 また広間の様に開けた空間だろうか。  屋敷があるなら、そこかもしれない。  吾妻は慎重に進むと、階段の一番下から広間を覗き込んだ。  そこは、先程の池のあった空洞よりも、数段広い大空洞になっていた。  空洞の奥には平屋の屋敷と、人工的に整えられた池も見える。  空洞の中を窺ったが、人影は見えない。  石井や姫守、それに監禁されている筈の辰哉は、あの屋敷の中に居るのだろう。  吾妻は拳銃を一丁抜くと、階段の出入口から、身を屈めて小走りに屋敷へと走った。  屋敷の玄関は、引き戸になっている。しかし引き戸を開けようとすると、縁側の障子が開いているのに気付いた。その開け放たれた縁側から、ヒステリックに叫ぶ少女の声が聞こえる。  その声は、監禁されている筈の辰哉の事を罵っていた。  吾妻は縁側に近付くと、屋内を覗き込んだ。屋内の畳張りの座敷には、何かを取り囲む様に並んだ、石井と姫守の背中が確認出来た。  吾妻は一度だけ深呼吸すると、意を決して、拳銃を構えたまま土足で屋内に突入した。 「全員、両手を頭の上に置いて、こちらを向きなさい!」  すると、石井と姫守がゆっくりと振り返った。  吾妻を見止めた石井は、大仰に驚いた素振りを見せると、一瞬微笑んで言った。 「リョウ様、来ました。あの男です」  すると、石井と姫守の間から、異形の少女が姿を現した。  全身を青白い鱗に覆われた少女を目にして、吾妻は絶句した。 「海姫か…」 「母さんはここには居ないわ」  少女は愛くるしい笑顔を見せた。 そして吾妻を見詰めたまま、石井に命ずる。 「辰哉君は、もう駄目だから、あの男で良い。捕らえなさい」  その言葉を聞いて、吾妻は我に帰ると、ここへ来た目的を思い出した。 「ここに武蔵野辰哉が居る筈だな。彼を返してもらおう」  銃口を鱗の少女に向けて命令する。  するとリョウは自分の背後に、蔑んだ視線を送って言った。 「この子は、もう駄目だから返すわ。足を切ったくらいで勃起しなくなるなんてだらしがない。その変わり、あんたが代わりになって」  吾妻がその視線を追うと、リョウの背後の血溜まりに、裸にされ両足を切断された少年が倒れていた。 「辰哉君…!」  吾妻が思わず呼び掛けるが、既に絶命している辰哉は返事をしない。 「もう死んでるわよ」  鱗の少女が、楽しそうに笑った。 「糞っ…」  吾妻が舌打ちする。 「さあ早く」  リョウが苛立つ声を出すと、姫守の三人が手にした鉈を構えながら、間合いを詰めて近寄って来た。 (私を捕縛するつもりか)  吾妻は身を守るために、六奈の拳銃も抜いて姫守に向かって威嚇射撃をした。姫守がそれに慌てて右往左往する。  更に威嚇射撃をすると、その内の一発が、姫守の抱えていた黒蛇の入った籠に当たった。籠の中の黒蛇が、銃弾を受けてのた打ち回る。 「何をやっている、だらしがない!」  石井が姫守を叱責する。 「島民を殺したわね」  リョウが吾妻を恨めしい双眸で睨む。 「もういいわ。そいつも始末して」  リョウが叫ぶと、姫守の内二人が、吾妻に躍り掛かった。  しかし吾妻が、その姫守二人の頭部を順番に撃ち抜く。  それを見た石井も、姫守には任せられないと、吾妻に飛び掛かった。  吾妻はやはり、石井の頭部を狙って発砲する。  しかし眉間に銃弾を受けても、石井は怯む事なく向かって来た。 「そんな馬鹿な、どういう事だ」  吾妻は声を裏返して驚くと、更に石井に発砲した。  しかし銃弾を浴びても物ともしない石井は、吾妻の身体に体当たりを喰らわす。そのまま障子を突き破って屋敷の外に弾き飛ばされた吾妻は、急いで立ち上がると、階段の出入り口を目指して走った。  石井がその後を追い掛け様とすると、リョウが言った。 「貴女は、撃たれた島民を見てあげて。あの刑事は、私と姫守で追い掛けるわ」  階段を駆け上がる吾妻は氷室に着くと、斃れた嘉手納を一瞥して、事情は問わずに稗田と裕哉に叫んだ。 「直ぐに逃げるぞ!」  床に座っていた裕哉が、弾かれる様に立ち上がると、吾妻を問い質した。 「弟は?辰哉はどうなったんです」 「もう手遅れだった。助ける事が出来なくてすまない」 「殺されていたんですか?」  裕哉が涙目になる。 「残念だけどな…」  吾妻が目を伏せると、裕哉はその場に泣き崩れた。  その様子を見て、吾妻が焦りを見せながら裕哉を諭す。 「裕哉君、悲しい気持ちは解るが、追っ手がある。急いで逃げよう」  すると稗田が、裕哉の肩を無理やり担いで立ち上がらせた。 「裕哉さん、逃げましょう」  稗田に言われて、裕哉は渋々足を動かした。  そして三人で氷室を出ると、階段の上に向かって走り出した。  最後尾を走る吾妻が振り返ると、階段の下から、リョウと姫守が追い掛けて来るのが見えた。  三人は階段を登り切ると、そのまま洞窟を走った。  しかし来た道と違うのに気付いた裕哉が、先頭を行く稗田に訊くと、 「私、井戸から洞窟に連れ込まれた際に分岐を覚えていたんです。この道に間違いありません」  と自信あり気に応えた。 「それでは、八郎城から入った自分達が来た道とは違う通路になる」  裕哉が返すと、吾妻が背後から口を挟んだ。 「姫守の隠れ家から、姫磯集落の港は近かった。八郎城よりも、井戸から出て、角蛇山の西の斜面を降った方が港に早く着くだろう」 「なら、このまま私の記憶通りに進んで良いですね」  稗田はそう言うと、走る速度を上げた。  そして登り坂の洞窟を駆け上がり、四度目の分岐に来ると、 「確か、ここを左に曲がれば、もう井戸は直ぐそこです」  稗田を追い掛ける二人に叫んだ。  すると先を行く稗田と裕哉に追い付いた吾妻は、六奈の拳銃とボートの鍵を取り出して裕哉に渡した。 「この六奈の拳銃を持って行け、まだ三発残ってる。井戸から出ても港まで向かう途中で、他の姫守衆に見つかる可能性がある。奴等と遭遇したら拳銃を使っていい。但し正当防衛の場合に限る」 「二人で逃げろと言うんですか?吾妻刑事はどうするんです」  稗田が戸惑いながら訊く。 「追い掛けて来る化け物と姫守を巻いてから、別のルートで洞窟から脱出する」 「でも…」  裕哉が何か言い掛けると、吾妻は拳銃を遮し話しを続けた。 「港に着いた時点で、そこに私が居なかったら、二人で島を離れろ。私は他の船を探して何とかする。判ったな」  すると稗田は納得した表情を見せたが、裕哉は憮然として言った。 「追っ手を巻かなくても、走り続ければ、何とか振り切れます」 「稗田さん、裕哉君を連れて行け」  稗田が裕哉の腕を掴む。 「じゃあ、港で落ち合いましょう」  稗田はそう言うと、裕哉を引っ張って行った。 「さてと…」  吾妻は、背後の洞窟を見詰めながら、残りの弾丸五発を拳銃に装填した。  坂の下からは、二人の足音が近付いて来る。恐らく少女と姫守だろう。  吾妻は、二人に自分の姿を視認されるまで待った。 坂の下からは、先に姫守が姿を現した。その背後に小柄な鱗だらけの少女の姿も見える。 「居ました!」  姫守が声を上げると、吾妻は井戸に向かう通路とは逆の方向に走った。  二人の足音が後を追って来る。一つは駆け足で、一つはっゆくりと追い掛けて来る。  通路は登り坂になっていた。  そして坂を登り切ると、平坦な曲がりくねった通路に出た。  その先は少し幅が広がり、鍾乳洞になっていた。 吾妻は、その鍾乳石の陰に身を隠すと、追跡者を待ち伏せた。  駆け足の音が近付いて来る。  やがて姫守の一人が姿を現した。  身を潜める鍾乳石の前を姫守が通り過ぎると、吾妻はそれを追い掛けて背後から躍り掛かった。姫守の背中に飛び付き、そのまま勢いで押し倒す。  そして起き上がろうと仰向けになった姫守に馬乗りになり、顔面に拳を叩き付ける。  しかし姫守も抵抗して、足を持ち上げ吾妻の後頭部に蹴りを入れる。  弾かれた吾妻は、地面で一回転して起き上がる。 既に立ち上がっていた姫守が手にする鉈の一撃が、吾妻の頭部を狙って振り下ろされた。  それを僅差で回避した吾妻は、拳銃を抜くと姫守に向かって発砲した。  姫守は、吾妻が引き金を絞る寸前に、横っ飛びにそれを回避する。  吾妻は、態勢を崩した姫守に体当たりをして、そのまま地面から生えた鍾乳石に押し倒した。  背中に鋭い鍾乳石を突き刺された姫守は、返す勢いで跳ね起きて、あまりの激痛に地面をもんどり打つ。  吾妻は拳銃を姫守に向けると、暫く様子を窺った。  しかし姫守は、背中から鮮血を吹き出しながら、暫く地べたを暴れまわった後、一声呻くと動かなくなった。  吾妻は拳銃の弾倉を確認した。弾丸は残り四発しかない。そして、拳銃を尻に仕舞う。 ふと今来た通路を見遣ると、鍾乳洞の入り口に少女が立っていた。  少女は微かに笑っていた。  吾妻は、その不気味な笑みに怖気を覚えると、鍾乳洞の奥に走り出した。  どれくらい走っただろうか。  進む先に光が見えた。人工的な灯りではない。  月の光だ。  光の下に着いて、頭上を見上げると、夜空と満月が見えた。  穴の出口は殆ど縦穴に近く、急な登り坂になっている。  吾妻は、その斜面にへばり付く様にして登った。 やがて穴の外に手が届いた。  穴から出ると深呼吸をして、外の新鮮な空気を肺に詰め込んだ。  周りを見渡すと、何処かの海岸の様だ。恐らくここは、村長が言っていた、姫神集落の近くにあるアブの入り口なのだろう。  吾妻は、取り敢えず海岸を走った。浜辺からは、やはり左手に姫神集落が見えた。  浜辺からガードレールを飛び越えて、海岸沿いの道路に飛び出す。  そして姫神集落の一番大きな通りを、車のある家を探して走った。  海岸線から二百メートル程走ると、古いセダンの駐車している平屋を見つけた。  その敷地に侵入して、まだ明かりの灯っている平屋の窓硝子を、足で蹴って砕いた。  その家の住民が、慌てて顔を出す。中年の男性を模した皮を被っている。 「私はこの島に潜入捜査中の沖縄県警の刑事だ。車の鍵を貸してくれ。貸さないとそこのプロパンガスを拳銃で撃つぞ。いくら厚い皮に守られていても、燃えてしまえば、中身の本体も耐えられまい」  そう言って銃口を屋外のプロパンガスボンベに向ける。  すると住民は、何かを悟った表情をした後、室内の箪笥の引き出しから鍵を取り出して、割れた硝子の穴から吾妻に手渡した。  吾妻は、セダンの運転席に乗り込むと、エンジンを掛けて車を通りに出した。そして海岸沿いの道路を目指す。  海岸線に出たら、そのまま姫磯集落の港に向かうつもりだ。 稗田と裕哉は無事に港に辿り着いただろうか。そうであれば、村長のボートは、もう無いはずだ。だが、港には他の船舶もある。その鍵を奪って、他の船舶で島を離れれば良い。  兎に角港に向かおう。吾妻はアクセルを踏み込んだ。  前方に人影が見えた。  道路の真ん中に何者かが突っ立っている。  ライトをアップ目にすると、全身を鱗に包まれたその身体が、光を反射してぬらぬらと光った。片手には、鉈を下げている。  吾妻はアクセルを更に踏み込むと、少女に突進した。  リョウがセダンに向かって鉈を投げる。鉈はフロントガラスに突き刺さった。  次の瞬間、車が少女の身体を跳ね上げた。少女の身体が、バンパーにそしてボンネットに強打して、フロントガラスを転がり、屋根の上を背後に流れて行く。  吾妻はそのまま海岸沿いの幹線道路をノンブレーキで左折すると、速度を上げて島の西側に向かった。  車の速度は百キロ近く出ている。港までは五、六分で到着するだろう。  やっとこの狂った島から脱出出来る。そう安堵した瞬間だった。  突然リアウインドウが砕け散った。  ルームミラーで確認すると、トランクの上に、少女がしがみついている。 「糞っ、化け物め!」  化け物は、リアウインドウの穴を拳で連打して広げると、そこから車内に侵入しようとしている。  吾妻は左手でハンドルを掴んだまま、右手で持つ拳銃で背後を狙うと、化け物に向けて二回発砲した。少女の姿がルームミラーから消える。  命中したのか?  吾妻は振り返って確認した。リアウインドウの向こうに、少女の姿は無い。  既に車内に侵入したのかもしれない可能性も考えて、後部座席も確認したが、その姿は無い。顔を前方に向き直す。  遠くに姫磯集落の灯りが見えた。  吾妻がほっとしていると、今度は運転席側のドアの硝子が砕けた。そこから鱗に覆われた腕が伸びて、吾妻の髪を掴む。  髪の毛を纏めて引き抜かれる痛みに、顔を歪める。 「しつこい奴だ!」  吾妻は右手の拳銃で、鱗の腕を下から撃ち抜いた。奇声だか悲鳴だか判らない声が聞こえて、鱗の腕が車外に引っ込む。  姫磯集落までは、後僅かだ。  だが凄まじい音と共に、サンルーフから鱗の身体が落ちて来た。そして後部座席に着地した化け物が、吾妻の首を背後から締め上げる。  既に姫磯集落に入った車が、運転手の操作を失い、道の左右に並ぶ民家の防風壁に、車体を擦りながら疾走する。  左右に蛇行する車の車内で、吾妻と化け物は激しくもみ合っていた。  そこに道がカーブして、前方に民家の防風壁が近付いて来た。  しかし吾妻は運転所ではない。  轟音と共に、車が防風壁に激突した。  エアバックが開いて吾妻の身体を呑み込む。  吾妻は、そのまま暫く身動きが取れなかった。  そしてエアバックの爆発の衝撃から、我を取り戻すと、歪んだ運転席側のドアを蹴り飛ばして開けた。  助手席に転がっていた拳銃と鉈を掴んで、車外にふらふらと歩み出る。  ボンネットを見ると、少女が俯せに倒れていた。 フロントガラスから放り出された際に、頭を防風壁にぶつけたのか、首が直角に曲がっている。  吾妻は、車からガソリンが漏れているのを見止めると、その場を離れた。  今の衝撃音に驚いて、あちらこちらの民家から住民が表に出て来ている。  防風壁の破壊された民家からも、寝間着姿の住民が、玄関から顔を出している。 「家の中に引っ込んでいろ」  吾妻が鉈を向けて叫ぶと、住民は玄関の中に顔を戻した。  他の住民も、吾妻の鬼気迫る表情に、身の危険を感じたのか屋内に戻って行く。  住民が皆、屋内に戻ったのを確認すると、吾妻は潰れた車から充分な距離を取った。  そして、面倒臭そうに拳銃を上げると、車から零れるガソリンに向けて発砲した。  車が爆発する。  少女が炎に包まれるのを確認すると、吾妻はそれに背を向けて、港に向かった。  港の波止場までは、ここから二百メートル程だ。 稗田と裕哉はどうなっただろうか。 「ぎゃえんっ」  背後で奇声が響いた。  振り向くと、炎に包まれた少女が、ボンネットから飛び降りて突進して来た。  吾妻は拳銃を向けて引き金を引いたが、弾が切れて、拳銃は反応しない。  仕方がなく拳銃を道路に打ち捨てると、バットを持つ様に鉈を構えた。  少女が突進して来る。  そして少女が目の前に来て、長い爪のある腕を振り上げた瞬間、吾妻は少女の曲がった首に向けて鉈をなぎ払った。  少女の身体が、勢い余って吾妻にぶつかる。  首の方も、勢い余って飛来すると、吾妻の喉に噛みついた。  吾妻は生首の燃え盛る髪を掴み、引き剥がして放り投げた。  道路を転がって、側溝に嵌る生首。  生首は側溝から上半分を覗かせて、双眸を吾妻に向けてゲラゲラと笑った。  吾妻は側溝に跨ると、鉈を振り降ろして、生首を叩き割った。  そして道路にへたり込むと、 「これで、もう終わりにしてくれ…」  と月を仰ぎ見て呟いた。  波止場に着くと、『はいびすかす』のレンタボートはまだ停泊していた。  近付くと、ボートの中で伏して身を隠していた稗田と裕哉が顔を上げた。 「吾妻刑事」  裕哉が嬉しそうに声を上げる。 「先に逃げろと言ったろ」  憔悴しきった吾妻が、波止場からボートに、倒れ込む様に乗船する。 「二人で相談して、やはり吾妻刑事を置いては行けないと決めて、待っていたんです」  裕哉が吾妻に肩を貸しながら、逃げなかった理由を説明した。 「ボートの鍵は?」  吾妻が手を出すと、裕哉が懐から鍵を取り出して渡した。 「直ぐに、島を離れよう」  吾妻はエンジンを掛けると、ボートを出した。 「もう化け物の相手は、懲り懲りだ」  吾妻は月を望みながら、大きく深呼吸をした。 そして生きている事を実感した。  すると稗田が応えた。 「ごめんなさいね」  吾妻と裕哉が、同時に稗田を見遣る。二人の怪訝な表情を横目に、稗田が笑った。 「リョウは、どうなったの?」  リョウ、と言われて吾妻は、そう云えば石井が鱗の少女をそう呼んでいたのを思い出した。 「あの化け物なら頭を割って始末し…」  そこまで言って、何故稗田が、あの少女の名を知っているのかと、脳裏に疑問が過ぎった。 「そう…、あの子に任せるんじゃなかったわ」  稗田は溜め息を吐くと、吾妻を見据えた。  吾妻はそこで全てを悟ると、瞠目しながら訊いた。 「母親ってのは君か」 「本物の稗田さんは、あの屋敷の瓶の中で眠っているわ。顔面を割られてね」 「どうして妨害もせずに、黙って監視してたんだ。まるで協力するふりをしながら」 「島民にも黙って稗田さんに成りすまして、娘の采配を観察していたのよ。これくらいの有事に、自分で対処出来なくては、海姫として島を治める事は出来ないわ」 「そうかい、で、これから私達をどうするつもりだい、海姫様」 「抜かりだらけの娘の、後始末をするつもりよ。その後は、帰るの。葉月の満月の夜に、九頭竜の鱗を使って、海の彼方に。それまでは、警察の目を眩ませるために、まだ貴方たちには働いてもらうわ」  稗田の顔面の皮が裂けて、内側から青白い悪鬼の如き素顔が露出して行く。  そしてその悪鬼の頭は、胴体から押し出される様に持ち上がり、その下に繋がる蛇体も曝け出した。  裕哉が悲鳴を上げる。  しかし吾妻は、黙って両目を閉じた。 本島に戻った吾妻からの報告は、署長と安曇や高幡を失望させた。  嘉手納の実家には生活痕は無く、本籍地に戻っていた形跡は見当たらなかったと云う。  しかし佐久山殺害の件については、少し違った。それでも、その報告を聴いた署長は、吾妻の語る真相に、自身の推知との矛盾を認めて、肩を落とした。  吾妻は島で出会った身元の判らない自称稗田ゆきみという女性から、その自白を取り付けたという。  吾妻の報告によれば、佐久山は教え子である稗田と不倫関係にあった。  稗田は二股を掛けていた交際相手の武蔵野裕哉と、フィールドワークに出ていた佐久山を追って姫ヶ島に上陸すると、不倫を精算するために三人揃っての話し合いをした。  しかし佐久山は稗田との別れ話に首を縦に振らなかった。そこで裕哉と共謀して佐久山を手に掛けた。猟奇殺人に見せ掛けたのは、異常者の犯行を装うためだったと云う。要は捜査攪乱のために行った偽装だった。  何故、その二人を連行しなかったんだ。  署長が叱責すると、吾妻は首を垂れた。  二人は逮捕状を取らなければ、署への同行はしないと拒んだのだという。  署長は裏を取るために、直ぐに稗田ゆきみや武蔵野裕哉に関する、佐久山殺害時の現場不在証明の有無や、その身元の確認を急いだ。  しかし既に姫ヶ島を離れた二人の行方を追跡するのは難航し、身元確認には時間を要した。  すると吾妻の言う通り、未だ行方の判らない稗田ゆきみと武蔵野裕哉は確かに実在したが、周囲の証言から、彼等には佐久山殺害時に現場不在証明がある事が判明した。  混乱した署長は、吾妻を追及しようとしたが、今度はその吾妻が行方をくらましてしまった。吾妻のデスクには、遺書が残されていた。  翌日、山中から吾妻謙一の遺体が発見された。  死後一週間が経っていた。一週間前というと、吾妻が丁度姫ヶ島から戻った日付になる。  署長は昨夜署で会った際の、吾妻の姿を思い出して混乱を極めた。  その報告を検死の担当医から聞かされながら、署長は窓から見える星空を見上げた。  夜空に浮かぶ満月が、自分を嘲笑っている様に思えてならなかった。  姫ヶ島の集落から、住民が集団失踪したと聴いたのは、その翌日だった。    それから半年後。八丈島の海岸を、一人の学生が歩いていた。  伊豆の国大学の学生である彼は、休日に八丈島を訪れて観光を楽しんでいた。  ふと港で足を止めると、その少女は居た。 「何処から来たの?」  学生が声を掛けると、海を眺めて佇む少女は笑った。 「昨日、御祖父ちゃんの故郷から、この島に移り住んだばかりなの」 「そうなんだね。名前は何て言うの?」  すると少女は振り向いて笑った。 「リョウ…タツヤリョウ」  学生は、その少女の美しさに、一目見て恋に落ちた。                            了         
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