過去の中にあるもの

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 勇気を出して、僕の方から声をかけてみた。 「…」  返事がなかったので、彼女の方を見た。  ここで初めて、自分が下を向いていたことに気づく。  むわりとした夏の風が、僕の紙をふわりとなでた。  病室の窓は開けられていた。  彼女は、外を見ている。  少し茶色みがかった柔らかな髪が、風にふわりとさらわれた。  その風が、彼女のシャンプーの匂いを運び、僕の鼻をくすぐる。  彼女が、ゆっくり振り向いた。  それは見たこともないような、太陽みたいな笑顔だった。  口角を思い切り上げて笑う顔は、まるで別人みたいだった。  でも、彼女は何も変わってない。  __肩までかかった、ふわりとした茶色っぽい色の髪も。  __その髪から香るシャンプーの甘い匂いも。  __少し細い眉毛も。  __ピンク色の、ぷるりとした血色のいい唇も。  __あの綺麗な、長いまつ毛も。  全部全部、変わらない。  なのに、別人みたいだ。  なぜだろう?  彼女が言った。 「おはよう」  瞬間、心臓が跳び跳ねた。  でも何だか、その挨拶は、どこか他人じみていた。  僕も、彼女の挨拶に返した。 「元気?」  思ったより、声がかすれてしまった。  でも彼女は、その笑顔のまま、「うん」と嬉しそうに答えた。  でも彼女の顔が、いきなり暗くなった。 「…どうしたの?」  彼女は、掛け布団を強くにぎりしめていた。  今にも涙がこぼれ落ちそうだ。  その白くてキレイな歯は、唇を噛みしめていた。 「どんなことでもいいから、話して」  僕は、彼女が話すのを促した。  彼女は、驚いたように顔を上げた。  そして、苦笑いして話し始めた。 「あのね、私」 「なんか、飛び降りしたら頭強く打ったみたいで」  僕は、彼女がどうして「あの日」や「あの時」という表現をしないのか少し不思議に思ったが、そのまま聞いていた。 「それでね」  彼女が多きく息を吸う。  僕は、来る、と思って身構えた。 「記憶が、なくなっちゃったみたいで」 「え?」  彼女は、晴れ晴れとした笑顔で言った。  僕は、意味がわからなくて混乱した。  じゃあ、あのときの記憶はないってこと?  僕のこと忘れちゃったの?  クラスメイトのことは覚えてるの?  早川と三浦は…  勉強は…?  色々なことが、頭に浮かんでは消えていった。  一度冷静になろう。 「…いつの記憶まではあるの?」  彼女が首をかしげながら言う。 「あのね、たぶん春まで」 「じゃあ…」 「ん?」 「僕をいじ…」  僕は少し考えて、なるべく笑顔で言った。 「なんでもない」  それはつまり、僕をいじめていたときの記憶がないんだな。  逆に、何だか清々しい。  彼女もリセットされているのだから、僕もリセットしよう。  1から始めるんだ。2人で。  僕は想いを伝えなくちゃ。  過去の話は要らない。  君と2人で過ごしたこと、それだけで十分だ。 「…あのさ」  彼女が先に口を開いた。 「何?」 「うちら、知り合いだったの?記憶がないからわかんないけど」 「ん~」 「知り合い以上、恋人未満…かな?」 「そこは、友達、じゃないの?」 「僕にとっては、恋人以上でもいいくらいだよ。記憶のない君と平均したら、そうなるんじゃないかなと思って」  彼女は、顔を真っ赤にしてこちらを見ていた。  彼女にとっては初対面なはずの相手の僕を、そんな顔で見つめてくるなんて。  そして僕は、覚悟を決めた。 「僕、君のことが、その…」  今、言うしかない… 「君に記憶がなくても」  君が僕を覚えてなくても。 「好きなんだ」  彼女は泣いていた。
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