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「今僕の描くジャスミンを見たら、引っ張られるかもしれない。……また、いつかね」
藤宮はそのままスケッチブックを持ってにっと笑った。
「私が、先生の絵の影響を受けるってこと? 大丈夫よ。ジャスミンはもうほとんど描きこんでるし……」
「まあそうだけど、念のため。それより、ここで油売ってていいの? こうしてるあいだにも朝の時間減っている。描かなくていいの?」
「あ。そうだった!」
壁掛け時計をぱっと見た後、すぐに自分のキャンバスの前へ移動した。
折りたたみパレットを開き、白色絵の具を足す。
――ドキドキした……。
藤宮の顔を間近で見たの初めてだった。
――先生、すっと鼻筋が通ってるよね。髭の剃ったあとがあった。あと、柔らかそうな唇……。
絵筆を持つ手を止める。
――う、わー。うわああーッ! やだ! 私ったら、触れたら柔らかそうとか、なに考えてるの! あーっ顔、あっついッ!
100号キャンバスのお陰で藤宮の位置から自分の姿が見えなくてよかったと思った。日茉莉の頭は抱きしめられた藤宮の手の感触や、顔のパーツを自動再生するように繰り返し、思い出していた。
――絵に集中! 日茉莉、絵に集中だッ!!
「……よし!」
やっと邪念を追っ払うことができた日茉莉は、白の絵の具をパレットから筆で掬うとキャンバスに向き直った。
「あ、そういえば日茉莉さん」
「ひゃああ!!」
キャンバスの陰からひょいと藤宮の顔が現れて、日茉莉は飛び上がって驚いた。その拍子に筆が手からこぼれ落ちた。
「あ」
今朝は時間がないのと、藤宮に動揺していたのと合わさって、エプロンを付け忘れていた。
筆は日茉莉のスカートに一度不時着すると、べったりと白色絵の具を置き土産し、ぽとりと床へ転がっていった。
「きゃあーーーッ!!」
日茉莉は、スカートの惨劇に思わず悲鳴をあげた。
「あーあ、思いっきりついたね、絵の具。白がべったり」
「ブ、ブラシクリーナーあッ!!!」
美術室にはシンクの水洗い場がある。そこに常備置かれているブラシクリーナー(筆洗油)の元へ日茉莉はどたばたと駆け寄った。
油絵はすべてに油を使う。水だと弾いてしまうため、絵筆を洗うのも専用の油でないと洗えない。
服など布についた油絵の具を落とすには、筆を洗うブラシクリーナーが一番だが、つんとしたガソリンのような独特の匂いがする。
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