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藤宮は立ったままそばの作業机にもたれかけて、缶ジュースをぷしゅっと開けた。
そのまま無言でごくごくとジュースを喉に流しこんでいく。ふうっと一息ついてから藤宮は日茉莉に訊いた。
「……で、ご褒美は満足いただけましたか?」
「はい。すっごく満足です。とても驚きました。……先生、ここが私の元実家だって知ってたんだね。なんでもっと早く教えてくれなかったの?」
「言いたくなかったから」
「……そう」
藤宮のなぜかつんつんした言い方に日茉莉は少し萎縮した。
――ちょっと強引だったかも。でもどうしても今日、ここに来たかった……。
日茉莉は苦笑いを浮かべながら、藤宮に話しかけた。
「先生、このアトリエは、私が絵を描きはじめた原点なんです。小さいころ、いつもお父さんの邪魔をしながらここへ入り浸って絵を描いていました。……お父さんとの思い出がいっぱい詰まった場所」
日茉莉はオレンジの缶をぎゅっと握ると続けた。
「今でも変わらず、お父さんがここにいる気がしたんです。入選の報告、今日どうしても、したくなっちゃって。だから、先生。急だったし、無理やりだったけれど、一緒に来てくれてありがとうございました」
藤宮に向かって深く頭をさげた。
「でもまさか、今は先生の家だとは思わなかったけどね!」
ぱっと頭をあげてにこっと笑いかける。
「……白崎さんの気は済んだ?」
不機嫌だった藤宮は、いつものやさしい先生に戻っていた。
「ここには、何度も来ようとしました。だけど、その度にぐっと思いとどまった」
思い入れが強すぎる場所で、ずっと、来る勇気を持てないでいた。
「絵を、描くのをやめるんだから、ここへ来たらその決心が鈍るってずっと、思っていました。それで、一人でここへ来ることができなかった」
日茉莉は貰ったオレンジジュースのプレタブを開けた。そのままぐいっと、一口飲む。飲んだあと、缶の飲み口をじっと見つめた。
「先生。私……」
言葉が続かない。しばらく沈黙が流れると、先に藤宮が口を開いた。
「そういえばさ……、きみに見せたい絵がある」
「……え?」
日茉莉は顔をあげた。
藤宮は「ちょっと待ってて」と言うと、壁に何枚も重ねておいてある絵の前に移動し、一枚一枚、見はじめた。
日茉莉は立ちあがると、ジュースを作業机の空いたスペースに置いて、藤宮の元へと近づいた。
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