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「……で? 日茉莉さん。先生はきみに、今日は親御さんを連れて来てねって、言ったよな?」
連日春らしい陽気が続いていた。
卒制の下絵も順調なある日、日茉莉の進路面談が行われた。
授業は午前中で終わり、生徒がいなくなった教室では前席の三つの机が担任と親と生徒の分として、向き合うように引っ付けられていた。椅子は三席分で、一席だけ空いている。
日茉莉は藤宮の真向かいに座っていたが、目が合わないように窓の外を眺めた。
「親は、仕事で……」
「仕事の都合がつくように、先月頭にお知らせの手紙を渡しておいたはずだけど?」
日茉莉は視線を正面に向けた。
「私の進路です。だから、私が決めます。親は別にいなくてもいいでしょう?」
「よくないよ、白崎さん」
藤宮は前のめりになって、、日茉莉を真剣な目で見た。
「将来に関わる大事な進路だ。僕はちゃんと親御さんとも話がしたい」
普段は冗談が多いのに今日は珍しく真剣で、藤宮は、ちゃんと教師だった。
いつもの親しみがある雰囲気はなく、担任の視線が痛い。居心地が悪く、やり過ごすために日茉莉はじっと机の傷を見つめた。
そこへ、進路希望調査と書かれた紙が差し込まれる。
「こないだ、就職するって言ってたよね。あれ、変更なし?」
下を向き、黙ったまま頷く。
絵が描きたい。なのに、描けない。
三年生は放課後も、下校時間まで自由に制作していい。
面談とはいえ拘束されている今が無駄に思え、苦痛だった。早く時間など過ぎて欲しいと願った。
「……就職する理由、教えてよ」
「うーん……」
「言いたくない?」
「はい」
――だから、早く私を解放して。絵の作業をしたいの。
「先生。私、絵が描きたいんです。だからもう、戻ってもいいですか?」
「理由、教えてくれたら戻っていいよ」
日茉莉は、うっと息を喉に詰まらせた。
さっさと絵を描くために戻りたい。でも理由は言いたくない。心の中で葛藤していた。
「白崎さん、僕を信じて。誰にも言わないよ。きみの気持ちはこの胸に留めて絶対外に出さない。秘密は守る」
「プライベートなことなので、恥ずかしいんです」
「だったら先に僕の恥ずかしい話をしよう。僕は今、彼女がいない!」
「どうでもいいです」
間髪入れずに答えると、藤宮は驚いたようすで目を見開いた。
「どうでもいい? 僕のトップシークレットなのに」
「はあ……そうですか」
「心底どうでも良さそうだね。まあいいや。でも、きみの進路は僕にとってどうでもよくない」
「先生って、大変な職業ですね」
「責任があって大変だけど、その分、やりがいはあるよ。僕は絵も人も好きだから、この仕事が天職だと思っている。僕、白崎さんの力になれると思うよ」
八重歯を見せながらにかっと笑う藤宮が眩しく見えた。
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