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「あの雲に乗ってみたいな」
白崎日茉莉(しらさきひまり)は、誰もいない屋上の真ん中で寝そべり、青い空に浮かぶわたがし雲に向かって、手を伸ばした。
三カ月前まで世界は白い雪に沈んでいたというのに、今は春を告げる小鳥たちが、にぎやかに歌っている。
息を吹きかえした植物たちは、若草色の葉を力のかぎり太陽へと伸ばす。風は花の香りをやさしく届けてくれる。自然のキャンバスは、眩しい生命で溢れていた。
移りゆく雲、二度と同じ姿を見せない自然の壮大さを残したい。今、この瞬間を絵に描き留めたい。
日茉莉は両手をあげると、指先で四角の窓を作って空を切り取った。
どこまでも深い青の色を、心のキャンバスに描きこむために目を閉じる。思考の海に潜るためゆっくりと、深呼吸を繰りかえした。
「白崎さん。授業中に堂々と昼寝?」
「わっ!」
突然声をかけられた日茉莉はぱっと目を開けた。あわてて上体を起こして振りかえる。屋上の出入り口に、担任で美術教師の藤宮充(ふじみやみつる)が立っていた。
「なんだ、先生か。びっくりしたじゃないですか」
「びっくりしたのはこっちだよ。いくら今が美術の時間だからって、堂々とさぼられると困る」
「さぼっていないです。空を見てただけです」
美術の授業中は、資料探しのために校舎内移動が許されている。
なにもない屋上には誰もこないだろうと思って油断していた。担任だとわかってからも、日茉莉の心臓はまだ駆け足を続けている。
日茉莉は立ちあがって、スカートの裾のほこりを手で払った。
「たしかに、いい天気だね。昼寝日和だ」
藤宮は、眩しそうに空をあおぎ見ながら、背伸びをした。
「ですから、寝てません。雲と青空を見ていたんですって」
信じてもらうために、さっき描いたスケッチブックを広げ、空のデッサンを見せる。すると、藤宮はにっと八重歯をのぞかせながら笑った。
「冗談。ちゃんとわかってるよ。白崎さんが美術の授業をさぼるとは思ってない。それで? 卒制で描く絵のテーマは決まった?」
「空を描くの?」と聞かれたが、日茉莉は首を横に振った。制服の乱れを整えおわると、担任に向かってにこっと笑いかえした。
「決めました。私、ジャスミンを描きます!」
自信に満ちた日茉莉の声が、屋上に響きわたった。
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