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かける7・エピローグ
本当の話を書こう。今まで書いていたテキストファイルを全てゴミ箱に移し、俺は新たなファイルを立ち上げた。
一翔が俺の現実から去っていったその日。
俺は新しい話を書こうと決めた。
最初の一文字目を文字を打ち込もうとして、手が震えているのに気づく。
怖かった。
初めて小説を書くのが怖いと思ってしまった。
俺の小説は、大勢の人が読むんだ。その人たちに、俺は何を伝えられるんだろう?
一翔一人救えなかった俺が、正義や正しさを……それが当たり前に勝つなんて書いてしまっていいんだろうか?
あるいは軽蔑や憎悪、悪意の本当の姿を知っているのに、それを弄ぶように語っていいんだろうか? 俺に、人の醜さや救いを書く資格があるのか?
そこで、別れ際の一翔の姿を思い出した。
「翔君、あなたのお話、待ってるね!」
……。
「私、ずっと待ってるね!」
そう言って、走り去る車の窓から身を乗り出し手を振っていた彼女の姿を。
そうだ。俺は書くしかないんだ。
話を語るのを躊躇し、書く事の恐怖に震えていても、話を紡ぐ、話を紡ぎたい、その欲求を忘れられない。それは俺の根源的な欲求で、俺自身だったから。
そして……。
書き続けないと、今後一切、一翔の顔をまともに思い出せないだろう。彼女の言った言葉をまともに思い出せもしないだろう。書き続けなければ、一翔を思い出す資格がなくなる。
一翔と向き合う恐怖から逃れようとすれば、それは俺自身と向き合うのから逃げるって事だ。逃げてしまえば書けなくなる。そうしてそうなれば、俺には何も残らない。
もちろん、書く事を辞めるって言っても、誰も反対しない。書く事を諦めて、普通の学生になって、普通に大学行って、普通に就職して。
そんな未来だって、ありえる。
でも、俺は俺の中にあるものを表現したい! 思考を形にして、誰かに伝えたい!
その想いはどんな未来を選んでも、きっと消せない。どんなに深い深淵を覗き込んでも。
書きたいものがあるから、悩んでも、恐れても、衝動を形にしたい。だから。
書くしかないんだ。
俺はきっとずっとこれからも、書く事からも、書いたものからも……自分自身という深淵からも、逃れられないから。
……私は翔べない鳥。それでも、空に憧れる気持ちは消せなかった。
キーボードに出だしの文字を打ち込んだ。
俺は、かける。
<完>
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