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「あっ」
ふと窓硝子から目を離した時、壁かけのアナログ時計が見えて、慌てて席を立つ。この辺りはあまり都会じゃないし、バスを1本逃すと一大事だ。同じルートを循環する路線のくせに、1時間に2本しか来ないなんて、まったく酷い話だと思う。
図鑑を棚に戻して、鞄と学ランを一緒くたに抱える。こうやって雑に扱うから皺になるんだと、脳裏に懐かしい父のお小言が過ったが、思い出さなかったことにしよう。父の相手をするという年2回の苦行を終えたばかりなのだ、たとえ自分の思考回路のエラーであっても、次の苦行を迎える年末まではなるべく考えたくはない。
壁沿いの本棚の前を横切って、そそくさと出入り口へ向かうと、雪野さんはいつものようにカウンターで読書をしていた。昨日までとの違いといえば、セーラー服の下に薄手の黒いハイネックを着ているくらいだ。無理に引っ張ったのか、指の付け根まで伸ばした袖口が少しヨレている。
「あの……寒い…すか」
「日当たり悪いから、ここ」
「ああ…」
雪野さんとの二度目の会話もまた、秒で終了した。
淡く西日を受ける彼女とカウンターの奥にも設置された時計に一瞥くれて、結局、それ以上のコミュニケーションは断念した。塾の遅刻ペナルティである小テストと天秤にかけるには、僕の探究心は軽すぎたのだ。
廊下へ出ると、行き交う生徒の多くが僕と同様に腕まくりをしたり、多めにボタンを開けたりしていた。今日はこの時期にしては暖かい小春日和というやつで、日当たりの悪い図書室でも、学ランを羽織ると暑かった。
雪野さんは寒がりなんだろうか。もしくは、風邪でも引いている?顔や耳が赤かったような気がしなくもないが、西日でそう見えただけかもしれない。
「……ん?」
何とか駆け込んだバスで吊り革を掴んだ時、思い出したことがあった。雪野さんの耳を、初めて見た気がしたのだ。
肩までの長さの髪をいつも下ろしていた彼女が、今日は珍しく結んでいた。耳の辺りから上半分だけを、後頭部で結ぶ……何たらアップみたいなヘアスタイルだった。たぶん、そう。何たらアップ。
吊り革に掴まる僕の眼下、タイヤの上の一段高くなった席に座るランドセルの女の子が、雪野さんと同じ髪型をしていたので思い出せたのだが、うっかり声を出してしまったことで、その女子児童と友人らしき子たちから変態を見る目を向けられてしまい、僕はうっかり忘れていたフリで整理券を取りに行き、そのまま扉の傍に留まってやり過ごすこととなった。定期券での乗車だから整理券なんか手に取ったこともないくせに「あれ?整理券…」なんて、ぶつぶつ呟きながら歩き出す様は、我ながら迫真の演技だったと思う。
万が一にも、それ何ていう髪型なの?などと口走っていたら、バスの車内にけたたましくも恐ろしい防犯ブザーが響き渡ったことだろう。噴き出す汗が体温調節のそれなのか冷や汗なのか、答えに至らないうちに、既にうっすらと汗染みの出来ている袖で額を拭った。
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