やさしい雪が降りますように

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 白い雪が宙を舞い降りて、アスファルトに消えていく。六花は傘を差さずに、素肌にぺたりと残る冷たい雪の感触を満喫した。  瑠璃菜とは結局、朝にはじっくりと話をできなかった。放課後にようやく、誰もいない教室で、瑠璃菜のバイトの時間までいろいろ教えてもらえた。スムーズには進まなかったらしく、「お互い初めてだから、こんなもんだろうね」と語る瑠璃菜は、相変わらず淡々としていた。瑠璃菜の赤裸々な描写を思い返すだけで、六花の顔が熱くなる。  未知の世界に、興味がないこともない。情報は次から次へと押し寄せる。まわりに一人二人と経験者が増えるにつれて、その世界をのぞいてみたくなるのに、六花の中ではこわさが勝ってしまう。愛情表現であっても、欲のはけ口や暴力にもなり得る行為には、安易に近づけなかった。  家までの帰り道、一人で赤面する自分が恥ずかしくて、空を仰ぐ。濃い灰色の雲から、たくさんの雪が降りて来るように願った。思い出し赤面を、雪に冷ましてもらいたい。  公園からは、子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。住宅街にある小さな公園も、まだ白い景色には程遠かった。土の部分にも、薄っすらとも雪は積もっていない。  三人の子供たちが、空へ向かって口を大きく開け、飛び跳ねている。雪を食べたい気持ち、わかる。雪を食べるような無邪気でたわいない楽しさだけが、大人になっても永遠に連なる世の中だったらいいのに。  隅の滑り台の陰で、妙な動きをする二人の子供が、六花の目に留まった。女の子が、男の子に一方的に叩かれている。二人共小学生の低学年くらいで、叩かれるままの女の子は抵抗しようともしない。周囲に大人の姿もない。仕舞いには、男の子が女の子を突き飛ばして公園を飛び出した。道路を渡り、向かいに建つアパートの一階の部屋へ消える。地面に転ぶ女の子を、六花は見て見ぬふりで通り過ぎることはできなかった。 「大丈夫?」  女の子は、細い体を小さく縮めて、頭を浅く縦に振った。泣く寸前の、涙のあふれそうな目を六花に合わせる。片方の頬が、泥で汚れている。 「いじめられてたの?」  女の子はおかっぱの髪を揺らして、今度は頭を横に振った。その瞬間に、涙が頬をつたう。 「おとうと、です」  弱々しい答えと共に、また頬に涙が筋を作った。六花はティッシュを出し、頬の涙と汚れをぬぐう。女の子はされるがままで、頬をピクリとも動かさなかった。 「外に出てなさいって、お母さんに言われました」  女の子はアパートへ目を向けて、 「だめだって、言われたのに」  口を苦しそうにゆがめた。同じ公園内で浮かれ騒ぐ子供たちとはかけ離れたところで、女の子は苦悩していた。 「でも、外にいたら寒いでしょう。うち来る? すぐそこだから」  パーカーとスカートの薄着では、今日はあまりにも寒い。そんな服装で外に出す母親に、毒親の可能性も疑った。六花の申し出に、女の子はピンク色の唇を噛みしめて、苦悩の色を濃くする。 「知らない人について行ったら、いけないって」 「本当はそういうのいけないけど、わたしは大丈夫だよ。ただのJKだし。ほら、誘拐したりする人には見えないでしょ」  女の子の気持ちをほぐすために、六花は笑顔に加えて、片手を腰にあてモデルポーズも決めた。身長は低くても、スタイルはさほど悪くないはず。  こんな場合に女子高生は使い勝手がいい。もしも大人の男性なら、女児を連れ去るなんて、たとえ善意百パーセントだとしても犯罪になりかねない。 「そうだ、お手紙、置いとくのは? あそこの、ドアに入れて。そしたらお母さんも心配しなくていいし」  六花はモデルポーズをアレンジしてアパートを指差す。そのポージングがツボにはまったのか、女の子は花びらが揺れるように笑った。心の扉を細く開いてくれた女の子と、六花はベンチに並んで座る。  女の子に名前をたずねてから、メモ用紙に『外は寒いので、みるくちゃんはうちにいます。近くの家の森川六花』と綴り、簡単な地図も描いた。みるくちゃんのアパートの部屋の前で、ドアポストにメモを入れる際には、六花はこっそり聞き耳を立てた。弟くんを怒鳴る声などは聞こえない。ドアまわりにも変わった様子はなかった。  家までは、みるくちゃんの歩幅に合わせるようにゆっくりと歩く。 「小学生?」 「小二です」 「弟さんは?」 「小一」 「どうして、あんな、ケンカでもしてたの?」  短い距離に、話したいことはやまほどあった。弟くんについても、お母さんについても、みるくちゃんの涙の理由も。 「暴れるんです。止めようとしても、やめない。騒いでもっと暴れるから、我慢するんです。そしたら、疲れてやめてくれる」 「我慢って、あんなされたら、痛いでしょう?」  六花の問いかけには答えずに、みるくちゃんはうつむいた。後頭部の髪が、乱雑に切られている。みるくちゃんの複雑な内心を表現しているようで、六花の胸まで苦しくなる。その髪はお母さんが切るのを失敗したの? わざとじゃないよね? まさか弟くんが? わき出す疑問の数々を飲み込んだ。  みるくちゃんの重そうな足取りでも、六花の家にはあっという間に着いた。 「ここでーす、どうぞー」  みるくちゃんを緊張させないように、森沢とのバカ話くらい軽いノリで六花はドアを開ける。「おじゃまします」が弱く返って来る。小二にしては小柄なみるくちゃんは、六花よりもひとまわりもふたまわりも小さい。来客用のスリッパが、普通の大人用のサイズなのに、巨人のスリッパのようにぶかぶかだった。  ダイニングテーブルでは、お母さんとお姉ちゃんが大人のぬり絵に夢中になっていた。 「おかえり。あら、かわいいお友達」  お母さんはぬり絵から顔をあげると、みるくちゃんに微笑んだ。六花が友達を連れて来たときに、友達へ向けるいつもと同じ微笑み。 「あったかいココアでもいれるね」  お母さんが席を立つと、空いた椅子にお姉ちゃんがみるくちゃんを手招いた。 「一緒に、ぬり絵やる?」  お姉ちゃんのあんまんのような色白の丸顔は、人を本能的にこわがらせる要素が一切ない。警戒することなく、みるくちゃんはぶかぶかのスリッパを引きずり、テーブルに近寄る。大人のぬり絵を目にした途端に、顔色を明るく変えた。細かな線で描かれた大人のぬり絵は、色をつける前でも美しい。  みるくちゃんは瞳を光らせて、お姉ちゃんの隣に座った。頬や肩の強張りも解けたようで、お母さんの塗りかけの絵を興味津々で見つめている。  六花は手洗いを急いで済ませ、二階の自室に駆けあがり、制服を手早く着替えた。お母さんとも話をしたかったので、一階へ戻ると、ダイニングテーブルでぬり絵をするみるくちゃんを確認してから、キッチンのお母さんの横を陣取る。対面ではない壁を向くほうのカウンターで、お母さんはボウルにホットケーキミックスを空けていた。  背後のテーブルには届かないようなひそひそ声で、六花が「あの子ね」と切り出すと、お母さんはさらに抑えた音量でささやく。 「あの子、たぶん見たことある。そこの公園の前のアパートの子じゃない?」 「知ってるの?」 「前にね、ドアの前でお母さんに叩かれてるの見た。あの叩き方は、躾じゃない。苛々してあたり散らしてる感じ。ひどいなって思って、目つけてたんだ。またそういうの見たら、児童相談所に連絡しようかなって迷ってた」 「したほうがいいかも。こんな寒い日にあんな薄着で、外に出てなさいって言われたんだって。じゅうぶん虐待だよ。あと弟のことも、後で説明するけど、ちょっとおかしいし」 「見た目は、髪以外大丈夫だけど、服脱いだら、傷跡とかあるかもね」  二人でこそこそと会話をしつつも、後ろの二人には気づかれないように平然と手を動かした。  かわいい花柄のマグカップに熱々のココアを作り、六花がテーブルに運ぶと、みるくちゃんはぬり絵に集中していた。細い枠からはみ出さないように、丁寧に色鉛筆の先を操っている。 「ここ置くね。熱いから気をつけて」  六花の声にも反応しない。みるくちゃんの視界に入りそうなところへ、マグカップを置こうとした矢先だった。  六花の気配を感じたみるくちゃんが、驚いたように勢いよく振り返る。手が、カップを弾いた。カップは飛びあがり、ココアをまき散らしてフローリングの床に落ちる。 「ごめんなさいっ」  みるくちゃんは椅子から降りると、突然土下座をした。床で丸まる姿に、六花もお母さんもお姉ちゃんも目を広げて顔を見合わせる。頭を床につけて縮こまる子供なんて、見るに堪えない。 「大丈夫だよ、全然平気平気。わたしこそ、びっくりさせてごめんね」  床にひざまづいて、六花はみるくちゃんの肩を起こす。みるくちゃんは目をきつく瞑り、唇も強く結んでいる。 「ごめん、なさい。ごめんなさい」  開かれた唇は小刻みに震えていて、呼吸も荒い。 「謝る必要なんて全然ないよ」  六花はさえぎらずにはいられなかった。お母さんもひざまずくと、みるくちゃんの背中をなめらかにさすった。「大丈夫大丈夫」とやさしく歌うようになだめる。ココアは、六花にもみるくちゃんにも、ほとんどかからなかった。 「やけどしなかった?」  念のために問いかけた六花を、みるくちゃんはうるんだ目で見返す。その目には、初めて耳にした言葉の意味を理解できずにいるような、とまどいがあった。背中をさするお母さんの手が、少し速まった。 「失敗したときでも、怒るよりも、みるくちゃんに怪我がないかを心配する人もいるんだよ」  お母さんの言葉も、震えていた。お姉ちゃんが床にしゃがみ込んで、みるくちゃんを両腕で包む。お母さんは背中をさする手を止めて、みるくちゃんとお姉ちゃんをまとめて抱きしめる。真ん中のみるくちゃんは、顔をゆがめて鼻をすすった。みるくちゃんは、泣くことさえ我慢していた。  児童相談所虐待対応ダイヤルの189番は、匿名で密告できるらしい。  みるくちゃんが帰った後に、すぐさまお母さんは電話をかけて、母親と三人で暮らすみるくちゃんや弟くんの状況をもれなく伝えた。匿名とはいっても、数日後に、こわそうな男が近所をうろついているのを見かけたお母さんは、 「みるくちゃんの関係者だったらどうしよう。考えてみたら、みるくちゃんが来たのは、うちってばれちゃってるよね」  青ざめた顔で、中華鍋にお酢をどぼどぼ注いだ。夕食のメニューは天ぷらなのに、油とお酢を間違えてしまうほどに、落ち着きがなくなっていた。そうかと思えば、さらに数日後には、 「りっちゃんも見て見て」  トイレから出て来た六花を廊下で引き留めて、届いたばかりの宅配便の段ボールを開けた。片手で持てる小型ラジオのような機器で、下半分にはボタンがいくつもついている。 「これね、応答くん。誰か来たときに男の人の声で応答してくれるの。インターホンに近づけて使うんだって。お父さんがいないときによくない?」  お母さんが応答くんのボタンを一つずつ押すと、 (はい)(なんのようですか)  低い声が機器から響いた。 「へえー。これで、家にいるのは女じゃないよってアピールできるんだ」  六花が感心していると、お父さんも寄って来て、お母さんの手の中をのぞく。 「こんなのあるんだ。お父さんよりこわそうだね」 「お母さん気づいたんだけどね、好き、って漢字決めた人、たぶん男でしょ。女と子で好き、女性とか子供とか弱い人が好きって、病んでない?」  六花の脳内に、成年男性が怪しく描かれる。公園でお母さんと子供の遊ぶ様子をこっそりと眺めている。弱者を物色している。 「やばいね。病んでる。女の子、幼児が好きなら最悪」 「それ犯罪でしょ」 「一応男として意見させてもらうと、女と子が好きって、妻と子供が好きっていうことかもよ」 「そういう考え方もあるか」  割って入ったお父さんの意見を、お母さんは素直に受け入れる。六花は、好き、の漢字に嫌悪を覚えた。すき、という漢字は、女偏ではなく、心を意味する立心偏を使って、つくりには、寄とか、奪を添えるほうがいい。 「どっちにしても、女子供は危ないっていう世の中が、おかしいんだけどね」  一番まっとうなお母さんの意見に、 「おかしいおかしい」  おかしいを繰り返し、六花は激しく同意した。  廊下に立ったままの三人で討論を繰り広げていたら、 「何がおかしいの?」  お姉ちゃんがお風呂から出て来て、討論に加わろうとする。頭をタオルで拭くお姉ちゃんは、三人の顔を見まわし、誰かが説明するのを待っている。 「これね、ネットで注文したのと違うのが来ちゃったの」  お母さんは大きめの笑い声をあげながら、応答くんをお姉ちゃんから隠すように素早く段ボールに片づける。 「うち犬飼ってないのに、バウリンガルだって。おかしいでしょ。送り返さなくちゃ」  バウリンガルとはすごい逃げ道を考えたなと、六花はお母さんを尊敬し、笑いで応援した。どうやら応答くんまでもが、蔓につながっているらしい。 「犬と話せるなんて、楽しそうだけどね。バウワンッ」  お父さんも犬の鳴き真似で、笑いの輪を盛りあげる。 「それはおかしいねえ」  お姉ちゃんも安心したように笑った。  蔓は、掘り返されずに済んだ。笑いが、何事もなかったように治めてくれた。この家の平穏を、これからは応答くんも守ってくれる。
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