やさしい雪が降りますように

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 職員室から出て来た瑠璃菜は、怒りを圧縮袋に詰めてまとめたような剣幕をしていた。 「あいつ殺す方法ないかな。完全犯罪で」  あいつ、とは国語教師の半田で、生徒からは陰でハンシャと呼ばれ、評判もすこぶる悪い。憂さ晴らしの生贄を、放課後の職員室へ呼び出す。瑠璃菜は今日、授業中の発言が反抗的だと、言いがかりをつけられた。 「瑠璃菜のアリバイ工作は任せて」  六花も日頃から、生徒には横柄で、校長や学年主任にはこびへつらう半田には腹が立っていた。  犯罪計画を練りながら昇降口に着くと、六花の靴の下の段には、まだ森沢の靴が残っていた。何をしているのかなと気を取られつつ、靴に履き替える。 「昨日あった強盗事件、六花んちの近く?」 「え、何あったの?」 「知らない? 最近強盗とか多過ぎるしね。あ」  校門を出たところで、瑠璃菜は足を止めた。視線の先では、瑠璃菜の彼らしき人が待ち伏せをしていた。瑠璃菜の写真で見た彼に似ている。大学二年生の彼に、六花が会うのは初めてだった。黒のダウンジャケットを着る彼は、六花のイメージする平均的な大学生そのもので、派手でも地味でもない。  お迎えはサプライズのようで、瑠璃菜も驚いている。残念ながら、瑠璃菜はサプライズに喜んではしゃぐタイプではない。しかも近頃は、彼とのつき合いにも迷い始めている。体目当てではないかと疑うほどに、彼の一人暮らしのアパートへ誘われるらしい。 「いつも話してる、六花。一緒に帰るつもりだったんだけど」  六花を彼に紹介する口調も冷たく、険悪な空気が流れる。彼は不満を内にため込むタイプのようで、黙って口を曲げた。  二人に揉めさせたくはなかったので、 「忘れものした。先帰って」  わざとらし過ぎる言い訳をして、瑠璃菜の返事を聞く前に、六花はさっさと身を引いた。忘れものなんてなくても、とりあえず校舎に戻って教室へ向かう。  廊下を歩いていると、あの人がうまくできなかった彼、が脳の片隅によぎった。裸で絡み合う彼と瑠璃菜まで浮かびそうになり、頭を振って邪心を追いはらう。人もまばらな放課後の廊下で、六花は赤面しないように、翼をくださいを心の中で歌ってみた。廊下の窓には青空が映っている。そこへ飛んで行く自分を妄想して、邪心を紛らわす。  二年四組の廊下に並ぶロッカーは、二段重ねで、六花は森沢の下だった。時折、上のロッカーから何かがはみ出していて、六花のロッカーの開閉を邪魔する。そんなふうにはみ出したままの人は他にあまりいないので、わざとかなと六花は勘繰っている。いずれにしても、嫌ではない。  今日も、ジャージの角がはみ出して、六花の扉の上の部分にかかっていた。置き勉する予定だった世界史のノートを出してから、仕返しに、ジャージを六花のロッカーに挟んで鍵を閉める。森沢がジャージを取れずにあたふたする様子を思い描いて、ほくそ笑んだ。  教室内から男子の笑い声が響く。前のドアからのぞくと、男子が四人、後方の一席を囲んでいた。そのうちの一人は森沢だったので、戻って得をしたような気分になる。 「何してるの?」  六花がたずねると、 「子供には言えないよ」  お調子者の橘くんが答える一方で、別の男子がさりげなく何かを鞄にしまう。ちらりと見えた形状から、何か、は男子の好きな類の雑誌だと判断できた。 「よしっ、帰ろ帰ろ」  橘くんが勢いをつけて立ちあがると、他の男子も何事もなかったかのように帰り支度を始める。流れで、六花は男子四人の後をついて教室を出た。四人は二人ずつ縦に連なり、男子の好きな雑誌とは無関係の話を始めた。  クラスの一軍の子たちは、男女で大人の行為について話をしていることもある。六花にはとても真似できない。三年生になれば、「エロいの見てたんでしょー」などと、からかったりできるようになるだろうか。 「森川ってバイトとかしてる?」  橘くんが振り向いたので、 「してない。お嬢様だから」  冗談で返したら、 「埼玉で有名だよ。プールつきの豪邸」  六花の冗談を、森沢がさらに盛る。 「まじで? 夏、泳ぎ行っていい?」 「いいよ。広いからライフジャケット持参でね」  ようやく普段のペースがつかめてきた。 「森川んちのプール、埼玉の海だから」  森沢は調子に乗り、橘くんもにやにやと笑っている。くだらないバカ話は、やはり一番楽しい。誰も傷つかない、内容のない話。 「埼玉ってパスポートいる? 日帰りで行ける? 知事はタヌキ?」  渋谷区松濤育ちの、本物のお坊ちゃまの橘くんは、埼玉をディスりまくった。たいていの埼玉県人はディスられ慣れているから、森沢も「知事はきゅぽらん」と適当に受け流す。  森沢の仲間たちはみんな東京都民なので、帰り道は途中の駅から二人きりになった。夕方の混み始めた電車で、森沢はつり革にだるそうにつかまる。六花にはつり革は高過ぎて、肩がぴーんとなってしまうので、つかまらずに両足を踏ん張った。 「俺のやる気スイッチがさ、昨日古文やってたら壊れちゃって」 「買い換えないと」 「先週取り換えたばっかなんだよなあ」 「保証期間は?」 「中古だし」  中古のやる気スイッチ? 六花は笑いをこらえる。ここで笑ったら、負けのような気がする。 「わたしのなんて、AI搭載で手振れ補正もついてるから。今日もこれから、図書館寄って勉強してくんだ」 「駅前のビルの図書館? 俺も行く」 「市民じゃないでしょ」 「座るくらいいいじゃん」 「だめー。図書館の空気も吸っちゃいけないんだよ」  電車を降りる六花に、森沢も当然のようについて来る。はや足で進みながら後ろを振り返ると、後をつけてなんかいませんよふうに、すかさず目をそらされる。  森沢と幼なじみだったらよかったのにと、六花は時折思う。探偵と逃げる犯人ごっことか、お店屋さんごっことか、子供の遊びをきっと毎日飽きるまで続けられる。ふざけ具合が、ぴったりと揃っている。他の人には相手にされなくても、森沢となら〇μの摩擦で歯車がくるくるとまわっていく。  駅前に建つ複合ビルの五階までエスカレーターであがる間も、森沢は一定の距離を保って六花を追い、六花が図書館の学習席に着くと、黙って隣の席に座った。  フロア全体を占める広めの市民図書館は、六花のお気に入りの場所だった。たくさんの本棚が近くにあると、頭がよくなった気がして勉強がはかどる。静かな館内は、通学鞄を開ける音さえも響く。なるべく音をたてないようにノートや教科書を取り出した。  隣でノートを机に広げる森沢を、六花は右側に感じる。図書館で一緒に勉強すると、彼氏と彼女になった錯覚に陥る。友達以上の特別な関係。隣に存在するだけで、右側の感覚がこそばゆい。  表向きは平静を装い、六花は今日返却された積分の小テストの復習を始めた。テスト用紙の14と書かれた右上部分は、見えないように折る。数字のインパクトが強烈過ぎて、心を砕かれてしまう。五十点満点中の平均点が十二点だったので、十四点は許容範囲だと自分をなぐさめる。  間違えた問題をノートに書き写していると、隣から紙がスライディングして来た。右上に書かれた数字に、六花の心が玉砕した。  50  右半身の震えを抑え、森沢のテスト用紙から目を離す。シャーペンを持つ右手を、震えないように動かし続けた。  森沢が満点。六花の三倍以上の点。天才だろうか。森沢はまれに天才と化す。化学や物理のテストでも平均を大きく超える点を取り、平民の六花に距離を感じさせる。インテグラルの曲線を丁寧に描くことで気を静めていると、森沢のテスト用紙がひっくり返って、今度は裏面でやって来た。 『ぜんぜんしゅうちゅうできない』  全文字がひらがなで書かれていた。満点の数学とは対照的に、頭が悪そうで若干安心する。 『集中してるから邪魔しないで』  森沢の尖った文字の下に、六花は硬筆展での入賞経験もある自慢の腕前で、きれいな文字を書き、テスト用紙を押し返す。  次は何が書かれるのかと、ひそかに期待する。六花の想像の斜め上を行く、何かおもしろい返しが欲しい。森沢は古文漢文が苦手なので、その線で笑いを取ろうとするかもしれない。ありおりはべり、いまだるい。あるいは得意の化学を用いて、俺のベンゼン環がだるい。森沢の考えそうな手を先読みしていたら、それを超える異次元の手を打たれた。 『おれらそろそろつきあう?』  六花の心臓がひっくり返る。血液が全部こぼれて体中に飛び散らかった。  慌てた血液が全身をすさまじい勢いでめぐり、六花の鼓動をかき乱す。胸が痛くなり、頭も混乱し、その場を逃げ出すことしか思いつかなかった。覚束ない手先で、ペンが音を立てるのも構わずに片づけ、ノートが折れても力尽くで鞄に詰め込む。  視界に森沢を一切入れないまま、小走りで図書館を出た。エスカレーターを駆けおりると、 「待てよ!」  後ろから森沢の声が追って来た。振り返らずに、全力で足を動かす。足がもつれてエスカレーターから転げ落ちそうになる。 「危ないよっ」  おじさんに注意されても、危ないことはわかっていても、止まれなかった。  図書館でずっと、一緒に勉強をしていたかった。図書館で勉強するだけでなく、朝も同じ電車で通学したり、帰りに寄り道をしたり、できるだけ長く隣で笑っていたかった。  六花も、森沢が好き。押さえても押さえても、込みあげる。  どんな漢字だとしても、好き。ひらがなでも、すき。  好きでも、森沢とはつき合えない。相手が誰であっても、六花は友達以上の関係にはなれない。それ以上の関係になれば、手をつなぐだけでは済まない。
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