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「なんかこの服、縮んだ」
二の腕をさすりながらテーブルに着くお姉ちゃんに、服のせいじゃないから、とツッコミを入れる勇者はいなかった。ダイニングテーブルを囲む四人共が、お姉ちゃんの言葉には反応せずに、朝食に集中する人を過剰に演じている。
唯一ケイティが、あら挽きウインナーをパキッと噛み鳴らした。六花は隣の席から、このタイミングでウインナー? という批判の意を込めてケイティを睨んだ。お姉ちゃんの服の二の腕は、ウインナーと同じ茶色だった。
細い横目で責める六花にも気づかずに、ケイティはあら挽きウインナーをおいしそうに頬張る。ケイティの頬の髭はきれいに永久脱毛され、淡いピンクのチークが頬骨の出っ張りをやわらかく隠している。
「これうまいわぁ」
かすれ気味の高音は、淑やかでないこともない。
ケイティが出張帰りに道の駅で見つけたあら挽きウインナーは、お肉と肉汁がぱんぱんに詰まっていて、確かにおいしい。みんなにも食べてもらいたいからと、朝一番に六花たちの家に届けてくれたケイティはやさしい。ケイティを睨むのはやめて、六花も粗挽きウインナーを口に入れた瞬間に、
「ねえ、りっちゃん、縮んでると思わない?」
お姉ちゃんが、服の縮み問題を蒸し返す。六花をはじめ、その隣のケイティも、その前のお父さんも、誕生日席のお母さんも、同じとまどいを覚える。
最近チーズにはまっていたお姉ちゃんは、明らかに太った。在宅で仕事をしているうえに、運動とは無縁で、当然と言えば当然の結果だった。ケイティを含めた家族の誰もが予想していた。服は縮んでないよと、真実を伝えるべきか迷う。
六花が物心ついた頃から、この家には、お姉ちゃんはお姫様扱いという暗黙のルールがある。お姉ちゃんは二十八歳で、ひとまわり近く年下の六花でさえも、いまだにそのルールに従う。
「最近寒いから、服も縮んだんじゃない?」
あり得ない理屈で逃げたら、テーブルのみんなが、それは無理があるんじゃないかのような冷ややかな空気を漂わせた。家族のだんらんをいつでもにこやかに見守るお父さんですら、眉間に短い皺を一本きゅっと寄せた。
「そっか。りっちゃんさすが頭いい。ちょっときついから着替えて来よっと」
お姉ちゃんだけが素直に受け入れて、二階の自室へ戻って行く。
テーブルを取り巻く空気が、お姉ちゃんが傷つかなくてよかった、に変わる。丸顔一家の緊張した顔が、本来の丸に戻った。お父さんの眉間もゆるみ、お母さんとケイティはほっと息をつく。六花も安堵してトーストを口に詰め込んだ。
「りっちゃん、今日傘持ってってね、午後から降るみたいだから」
お姉ちゃんがお姫様扱いだからといって、六花が邪険に扱われているわけではない。
「傘ないと、お風呂あがりに拭かなかった子みたいになっちゃう」
お母さんは愛情に冗談をまぶして微笑んだ。ふざけたがりのお母さんの冗談には、レベルが高ければ絡むことにしている。
「今日、雪になるかな、天気予報言ってるよね。雪降って欲しいな」
雪が降るのは年に一、二度だから、白い点がちらつくだけでも、六花は子供のようにはしゃいでしまう。二月も下旬に入ったから、そろそろ本気で降ってもらわないと、今季は積雪を堪能できなくなる。たとえ学校指定の革靴が汚れても、滑って転びそうになるとしても、十センチくらいは積もって欲しい。そんな六花のささやかな期待を、
「こっちの人は、雪に大騒ぎするわよねえ。ちょーっと降るだけで」
ケイティは高らかに笑い飛ばした。
「こっちの人?」
六花が問い返すと、あからさまに息をのむ。ケイティは埼玉南部のこの家から、電車で一駅隣の、東京都北区に住んでいる。県境の荒川を挟んでいるだけで、気候はほぼ変わらない。こっちの人、とはどこの人を意味し、ケイティの意見はどこから目線なのだろう。
テーブルまわりの空気は再び凍りついた。お父さんはお味噌汁を、ビールのごとくお椀を傾けてぐびぐびと飲む。お母さんは、えっと、あれ、あれ取って来ないと、とつぶやきながら、キッチンへふらついて行く。
蔓に引っかかってしまった。六花は反省する。
この家には、蔓がある。通常は地下深くに埋まっている。蔓につながるのは、さつまいもやじゃがいものような、おいしい作物ではない。決して掘り起こしてはならない、過去の出来事。蔓に触れてさえならない。お姉ちゃんのお姫様扱いと同様に、暗黙のルールとなっている。
蔓には、六花自身の幼少期の記憶もかかわっていて、触れてはならないと本能が警告する。蔓の実体や、いつ、どのように始まったのかを把握しきれていない六花は、しばしば蔓に引っかかり、家族やケイティを慌てふためかせてしまう。
ふざけがちなお母さん、お姫様のお姉ちゃん、そんな家族にあたたかな視線をそそぐ穏やかな性格のお父さん、家族の友人で朝でも夜でもいつでも来るやさしいケイティ。日常は、平和な家族としてまわっているから、一家にひそむ蔓を六花は追究しない。
「ごちそうさまでした」
六花は口の中の水分を奪うトーストとゆで卵を、お茶で流し込み、立ちあがった。
「もう行くの? 早くない?」
優雅にコーヒーをすするケイティに、
「今日ちょっと早く友達と待ち合わせしてるんだ」
答えて食器をキッチンへ運び、食洗器に入れる。
早朝の住宅街の空は、雪をたっぷりと含んだような灰色の雲に埋め尽くされていた。駅まで歩いて約十分の道のりを、はや足で進む。冷たい風に額や頬を叩かれても、体は次第に熱くなっていく。
駅へ急ぐ六花の頭では、雪が降るか関連や家庭内の暗黙のルールはすでに押し退けられ、別の案件が飽和していた。昨日の日曜日に、瑠璃菜がとうとう彼氏とそうなったらしい。
一年から同じクラスの瑠璃菜は、夏につき合い始めた大学生との関係を、包み隠さずに教えてくれる。今回の重要な案件については、「帰りに話すよ」という瑠璃菜に対して、「帰りまで待てない」と六花が朝早く会うことを提案した。
駅に着くと、ちょうどホームに滑り込んで来た電車に、駆け込み乗車じゃありませんをアピールするようにさりげなく乗り込んだ。普段よりも早い時間の電車は、気持ちすいていて、立っている人々の間隔にも余裕があった。
「ういっす」
背後からの不意打ちに、六花は首をすくめる。三駅分ディープな埼玉に住む森沢が、六花を見おろしていた。身長百五十二センチの六花の、二十五センチ上に位置する顔は、今日も丸い。
「早くね?」
「びっくりしたー。森沢だって早いじゃん」
平然と返しつつも、前髪が乱れていないかが気になり始める。ホームへの階段の駆けおりでは、かなり風を切った。逆立っていないかを、今すぐに鏡で確認したい。
「俺はいつもこの時間」
安定の丸顔が、ちょっぴり偉そうに引きしまる。丸顔家系育ちの六花は、森沢の温泉まんじゅうのようなかわいい丸顔に、いつでも癒される。細身で足の長いなかなかのスタイルの上に、おまんじゅうがちょこんとのっている。
高校入学の初日、教室の座席が森川と森沢で前後になり、互いに緊張しながら挨拶を交わした。あの日は、後頭部に寝癖がついていないかが気になった。二年の初日には、早起きして髪のセットに時間をかけた。新しいクラスで再び森沢が後ろの席に座っていたときには、喜びのあまり必要以上に髪を揺らした。
つり革につかまる森沢から顔をそらし、六花はさりげなく前髪を整える。
「親が昨日、極秘の任務で行った長崎で、カステラ買って来た。超うまかった」
「カステラいいなあ。うちのケイティも、道の駅でウインナーとかお土産買って来てくれたよ。森沢んちのCTUの親と同じ極秘任務かもね。国際手配のテロリスト追ってるみたいな」
ケイティと森沢の両親は、アメリカのドラマに登場するCTUで働いている。ケイティは東京支部で、森沢の親は埼玉支部。
六花が小学生の頃、ケイティに「CTUっていうアメリカの秘密組織で働いてるんだ。内緒だよ」と声をひそめて告げられた。そんなわけないじゃん、と言い返そうとしてやめた。幼ごころに、蔓に関連していると察した。高二の初めには、森沢から「誰にも言うなよ、実はうちの親って」と打ち明けられ、またCTU?と、顔には出さずにあきれた。森沢の親の事情は知らない。森沢家にも、蔓があるのかもしれない。
「CTUも忙しそうだな」
「ケイティは温泉も入ったって言ってたから、ほっこり系の任務だね」
「ほっこり実力行使。武器は線香花火か」
「最後のぽとんて落とされたら、拷問だけどね」
「ほっこり拷問」
森沢との会話には、ほぼ内容がない。架空のバカ話を三十分でも一時間でも続けられる。二人共、ふざけるのが好きなので仕方ない。
電車は荒川を渡り東京都へ入った。六花たちは電車を乗り換えて、都内の私立高校へ向かう。
学校の最寄り駅では、改札を抜けたところで、約束通り瑠璃菜が待っていた。制服を着た外見は、土曜日までの瑠璃菜と変わりはない。無意識に、ファッションチェックをするように、上から下まで変化を探してしまう。外見は同じでも、瑠璃菜の中身には何かが芽生えているかもしれない。大学生の彼の一人暮らしのアパートで、何かが変わった。
「だ埼玉カップルだ」
六花の複雑な胸中も知らずに、瑠璃菜は六花たちを冷やかす。
「カップルじゃないし、うちはほぼ東京だから、こんな奥地の人と一緒にしないで。電車で会っちゃって、勝手について来たの」
「俺、生まれはロサンゼルスだから」
「森沢って帰国子女だったの?」
「二歳で帰って来たらしいよ」
森沢のことは他の女子よりも多く知っているので、六花が耳打ちすると、
「帰国幼児じゃん」
瑠璃菜はせせら笑う。森沢は口をこれでもかというほどに尖らせ、瑠璃菜を睨む。三人で並んで歩き出すと、六花を挟んで小競り合いが始まった。
「ロサンゼルスって親の仕事関係? 何してるの?」
「CTU。誰にも言うなよ」
「CTU? って何?」
「えっ、CTU知んない?」
「DAI語的な?」
「ちげーよ」
瑠璃菜にCTUは通じなかった。恥ずかしそうに紅潮する森沢が微妙にかわいいので、
「中途半端に、転生した人の、ユニット、でCTUじゃない?」
六花はからかいたくて、たまらなくなる。
「あー、なるほどね、てか、うちら二人で話すために早く来たんだから、帰国幼児どっか行って」
「えー、俺もまぜて。武藤、髪型変えた? いいじゃん」
「変えてないし、その童顔でチャラ男キャラは無理あるから」
チャラ男森沢を、普段ならまぜてあげたい。三人で歩けば、灰色の冬雲を吹き飛ばす勢いの明るい通学路になる。
「今日の女子トークのテーマは何々?」
森沢は興味津々で、六花と瑠璃菜を交互にうかがう。今日のテーマに森沢をまじえるのは恥ずかしい。瑠璃菜だって嫌がるだろうと思いきや、
「ならきくけど、森沢って童貞?」
朝ご飯食べた? と同じ軽さで瑠璃菜は森沢に迫る。
「えっ、セクハラ?」
瑠璃菜とは正反対に、森沢はチャラ男キャラも忘れて動揺しまくっている。
瑠璃菜には、肝っ玉のすわったところがある。学校の成績とは無関係の、生きるための知能のような地頭が優れていて、物怖じしない。人生三周目くらいなのではと、六花は疑っている。
今回の彼氏との行為も、初めてなのに、初めてではない落ち着きがあった。明日話すよ、というスマホ画面に映る短い文言にも、いろいろ知り尽くした大人の成熟さを匂わせていた。
大人っぽさのかけらも持ち合わせない森沢は、顔を再び赤らめ、黒目をおぼれそうな激しさで泳がせる。まるで大人の女性にもてあそばれる少年だった。笑いをこらえる六花の両脇で、瑠璃菜の尋問は続く。
「何でそんな恥ずかしがる? 男子っていつもそういう話してない?」
「男同士と女子とするのは違うって」
森沢は歩き方までぎこちなくなり、右手と右足を同時に動かす。壊れる寸前の人型ロボットと化した。
「今日のテーマは初体験なの。森沢がまざりたいって言ったんでしょ。で、どうなの?」
追い詰める瑠璃菜に加勢して、六花も森沢の顔を見あげる。六花には大人の女性の役までは務まらないので、無言で圧をかけるだけにする。
「女子二人で男子いじめかよっ、先生に言いつけてやるー!」
真っ赤な丸顔を爆発させると、森沢は近くを歩く登校中の生徒たちをごぼう抜きにして一目散に駆けて行った。
「逃げやがった」
森沢の後ろ姿へつぶやく瑠璃菜は、勝者の笑みを浮かべている。朝から平和にふざけ合えて、六花の足も軽くなる。森沢のバカさ加減が心地いい。
実際に森沢に経験があるのかは、気にならないでもない。知りたくても、その辺りの事情には、触れる勇気がない。六花には、瑠璃菜のような大人の交際はできない。
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