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2.烏谷の工房
烏谷の奥深く、鬱蒼と木々が繁る谷間に細く煙が上がっている。その煙の元は掘建小屋みたいな小さな工房で、中には若い男と少女がいた。
「だから、お客さんだって! 高光師匠!!」
「帰ってもらえ、菜菜。都から来た奴など碌な用事じゃない」
「そんなこと言って! この前、依頼された鋤の代金受け取れなかったから、ウチにはお米がもうないんだよ! 今、師匠とあたしは食べるものにも困ってるの! こーまーって、るーのー!!」
少女・菜菜が作業しているガタイのいい男・高光の耳元で叫ぶ。高光は迷惑そうな顔をした。
「米なら、駆屋に借りればいいだろう? いつも通り、代金は品物で払うって言って」
「駆屋さんにはもう一俵、借りてるんだよ? 師匠が不眠不休で働いても借りを返すのに二ヶ月はかかる計算だね! わかってる?」
菜菜が右手を一本、左手を二本立ててみせた。高光がため息を吐く。
「そんなに借りてたか?」
「借りてた。駆屋さんは取り立て厳しくないからいいけど、そろそろ限界」
高光はもう一度ため息をついた。
「わかった、客に会う。準備するから、茶でも出しとけ」
「父様。割とまともな家ですね。こんな山奥にあるのに」
鍛冶師、高光の家は居住空間だけでなく、丁寧なことに客間まであった。もちろん、客間とはいえ板張りで、庭は手入れされておらず、円座など高価なものはなかったが。
それでも、庭付きの客間など山奥では滅多にお目にかからないだろうな。と拓馬は思い、物珍しげに部屋の中を見回す。その脇腹を実一が突っついた。
「キョロキョロするな。安く見られたいか?」
「まだ、誰も……」
そこまで拓馬が言った時、少女の姿が廊下の先から見えた。その瞬間、拓馬が背筋を伸ばす。
彼女は貧乏そうな形ではあったが、拓馬が同年代の少女の前で自分を立派に見せようとしてるのぐらい、実一には手に取るようにわかった。
まだ、子供だな。どうしようもなく子供だ。
実一はこっそりと息子に対する評価を確かめる。拓馬にはかなり厳しく接してきたつもりだった。でも、子供は呑気で青臭さの抜けない、よくいるお坊ちゃんというふうに育ってきている。
それがどうしてなのか、実一にはわからなかった。
「師はもうすぐ来るそうです。我が家には水しかありませんが、どうぞ」
そう言って、菜菜は欠けた湯呑みで水を供する。
水? 客に水か? どうすれば? とでもいう顔で息子に見上げられ、実一はしれっとした顔で、湯呑みを手に取った。茶碗の欠けた場所は避けて、ただの水を口に含む。
残暑の厳しい日ではあったが、供されたのは特段旨くも不味くもない水だった。冷たいのは、井戸から直接こちらに持ってきたのだろう。
「お師匠さんは、普段は野鍛冶師をされているのかな?」
さっき通った玄関土間には、鋤や鍬、鎌などが無造作に置かれていた。たぶんこの家の主は、いつもは周囲の村々の農民が主な客なのだろう。
「はい、そうです」
そんな男が、なぜあんな見事な刀を打っているのだろうか?
「この辺りの鍛冶師は、白色尺商・駆屋さんと取引してると聞いたが。お師匠さんもそうかね?」
「はい、そうです」
実一の質問に、菜菜は簡潔に答えを返した。
必要以上の情報を少女はこちらに与えない。警戒されているのだ。それが実一にはわかった。
この娘の保護者は一筋縄ではいかない男らしい。さてさて、一体どんな人物なのか?
そう実一が思った時、どこからともなくサラサラと衣擦れの音が聞こえた。
女性の登場を予感させるような音。衣擦れ? 実一と拓馬が疑問にお互いの顔を見合わせた時、その人物が姿を現した。
農民の正装によく使われる藍染の小袖は、それが一張羅だと示すように少し裾を引きずり、黄色い細帯は一部に刺繍の施されたものだった。そして、唐和髷の根元には小さな鈴のついた簪。
結婚前の早乙女の晴れの日の姿のようだったが、その着物を纏っているのは……。
「え……?」
拓馬がその人物をどう捉えていいかわからない、と度肝を抜かれた顔をしてるのを目の端で捉えて、実一は息子の脇腹に思いっきり肘鉄を入れた。
そして、主の座に座ったその人物に頭を下げる。一つ呻いた拓馬も慌ててそれに倣い頭を下げた。それはただ単に子供が自分の表情を隠すためだったかもしれない。
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