48.峠道

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48.峠道

 鐘虎は隣の馬の背に乗った人物を一瞬だけ見上げた。ここは烏谷に向かう真昼の峠道。鐘虎は和樹丸の案内役としてそのすぐそばにいた。  そう、馬に乗ってるのは大湖首の和樹丸その人だ。陣笠を被り、気楽な格好をした侍は、呑気に馬に揺られていた。  これから、どうなるんだろう? 高光は大湖首を前にしても平然としていられるだろうか?   もし、高光が憎しみに負けてしまったら、自分の命も今日で終わりだ。その想いが鐘虎の中にあった。  大湖首とその護衛、実一に拓馬、鐘虎と駆屋の奉公人三人。総勢十数人の一行は峠道を進む。  何度も通って、知り尽くした道だ。その道が今日はいつもよりひどく嶮しく感じる。そんなふうに今まで思ったことはないのに。この道を辿る時、鐘虎はいつも胸を躍らせていた。  最初に峠道を行こうと決めたのは、女装した男なら逆に女が男装するのも助けてくれるかもしれないと思ったからだ。そして、その思いは間違いではなかった。 「男の振る舞いを教えて欲しい? なんでだ?」 「なんだっていいでしょう? その代わり、私は女の所作を教えてあげる。あなた、女の着物を着ていても、全然女っぽく見えないわよ」  それが、彩彩と高光が個人的にした初めての会話だった。 「……だったらまずお互いに、喋り方から学ばなければならないな。ん……と、お嬢様?」 「鐘虎よ。私の名前は鐘虎。お寺の鐘に、虎」 「俺は花花だ。草花の花」 「俺は、じゃなくて、(わたくし)はでしょう?」 「俺はではなく、私はだろう。と言った方がいいぞ」 「言った方がいいぞ。ではなく、そうおっしゃった方がいいです。だろう?」  そこまで言いあって、二人は自分たちの会話が無性に可笑しくなり顔を見合わせて笑った。  それから、鐘虎は三日と空けず高光のところに通った。お互いにお互いの属性だった身のこなしや話し方を教え合い、お互いのぎこちなさに笑いころげてばかりいた。  鐘虎は男物の着物をあつらえる時は、高光の助言を受けた。そして、逆に高光が女物の着物を手に入れる時には、鐘虎があれこれ指図してやった。  楽しかったな……。  鐘虎はぼんやりとそんなことを思い出していた。まさか、これが走馬灯と言うんじゃあ? そう思いながらも、記憶を反芻するのはやめられなかった。 「鐘虎。この着物はどうなのかしら?」  初めて、高光が一張羅に袖を通した時も。 「花花。これちょっと派手すぎたか?」  鐘虎が初めて男物の着物に袖を通した時も、二人は一緒にいた。似合うような似合わないような……。  今までの常識から外れた自分たちにチグハグさを感じながらも、それでも、何か新しいものを手に入れた期待に二人して胸を躍らせていた。  彩彩が新しい世界を手に入れる。それを助けてくれるのは、高光だけだ。高光は彩彩が鐘虎になりたいと言っても笑わなかった。そして、高光のできる全てを教えてくれた。  それは、確かに交換条件みたいなものだったのかもしれない。でも、彩彩には高光のそんな言動は心底嬉しかった。  自分を認めてくれ、自分の望みを否定しない。そんな人物と巡り会えたことが。  そして彩彩にはいつの間にか、新しい世界を手に入れる高揚感に加えて、高光のところに行く、それを楽しみにしている自分に気づいた。  最初はそんな自分に戸惑った。だって、男になりたいと思って花花のところに通ってるのに、その実、本当に会いたいのは高光だと言うのは矛盾してないか?  いきなり何もないところで自分自身に蹴躓(けつまず)いたと言ってもいい。  困惑して、気持ちを受け入れられなくて、迷って、自分に憤慨して、それでも鐘虎が高光のところに通ったのは、どうしても自分の望みを叶えたかったからだ。  そう、駆屋の当主として生きる人生はそれだけ魅力的だった。  店を大きくする野望だってある。そして、そのためにどうしたらいいかもわかっている。奉公人たちの手当も、手を組んでいる店とのやりとりも、新しい職人の開拓も、やりたいことは鐘虎の目の前に山のように積まれていた。  その野望を実現したいのならば、高光の協力は絶対に必要だった。思慕の情など、蹴り飛ばして脇に置いておこう。そう思って、鐘虎は峠の道を通った。  そして、高光の感情も変わったと気づいたのは、いつだっただろうか?  お互いの気持ちがお互いにわかっている。二人はいつの間にかそんな状況に陥っていた。でも、高光は自分の思いを伝えてくることはなかった。  このままなら……この男は、きっと一生伝えてこない。  それは、二人の立場の違いからか、それとも高光の中に眠る憎しみの強さからか? 彩彩にはわからなかった。それでも、今はそれでいいと思っていた。  高光の人生の話は聞いていたし、鐘虎の野望の話もした。  たった三年の付き合いだ。でも、誰よりも濃い会話をしていた。彩彩にはその自信があった。  だから、きっと二人の関係はこのままでいいんだ。  その内、高光は憎しみより、目の前の愛情に手を伸ばしてくれるかもしれない。高光の心の整理がついたら、その時はこちらから手を伸ばしてもいいかもしれない。  だから、今はこのままにしておこう。  そう思ったのを、彩彩はまさに後悔していた。  憎しみが溶かせなくとも、自分の手をとってくれと高光に言っておくべきだった。死者の姉に囚われるのをやめて、生きる私を見てくれとそう強く言っておけばよかった。  高光が他の道を選べないように。
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