50.憎しみの嵐

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50.憎しみの嵐

 その場に鐘虎がいるのを見て、高光は少しだけ体の中を荒れ狂ってる真っ黒な憎しみの嵐に色がついたのを感じた。  そんなことを感じたくはなかった。  でも、鐘虎の存在にさっき庭に捨ててきた菜菜の瞳の色も思い出す。……そんなものも思い出したくなかった。  菜菜の目には明らかに、高光を思いやる気遣いがあった。  少女には高光がなぜそこまで怒るのか、よくわからなかったはずだ。菜菜は高光が侍を嫌っていることを薄々知ってはいても、その理由までは知らないのだから。  そしてこの場で、高光が侍を嫌う理由を知っている唯一の存在は、自分を抑えろという合図を必死の顔で送ってきている。その合図を無視できたら、どんなによかっただろう。  いや、鐘虎の存在など忘れてしまえ! そう言う声も聞こえてる。でも、高光はその声に頷けない自分の心も気づいていた。頷いてしまえば、鐘虎の命を失ってしまう。  自分の命だけならいくらでも差し出せたはずだ。  でも、鐘虎に命を失わさせたくはなかった。他の誰かだったら、この場にいたのが鐘虎じゃなかったら、高光は憎しみの嵐に自分を失っていただろう。  だが、この場には鐘虎がいて、その存在の細い糸で高光は自分自身の理性を保っていた。  握りしめる拳が震える。高光の狭まった視界の先に、大湖首がいる。  その大湖首がゆっくりと口を開いた。 「お主が鷹花か?」  (かたき)に名前を呼ばれて、高光の全身にゾワっと鳥肌がたった。  座れ、座るんだよ! 鐘虎が必死に合図している。それが高光の目の端で見えてはいた。 「急な訪問ですまないな。だが、どうしてもお主に会いたかったが故。非礼を許して欲しい」  自分は今どんな表情をしているのだろう? 高光は頭のどこかでそんなことを考えていた。敵を前に感情の嵐に飲み込まれ棒立ちになってる自分の顔が想像できなかった。 「鷹花! 大湖首様を前に挨拶もっ!」  護衛の侍が無礼だと腰を浮かす。 「鷹花。座れ。大湖首様の前だぞ」  高光は鐘虎の叱咤の声にビクッと反応した自分を咎められなかった。そうだ。自分の行動しだいでは、確実に鐘虎にも害が及ぶ。それを改めて認識した。  頭など下げたくなかった。この大湖首の前で頭を下げるなど絶対にしたくなかった。でも、自分のすぐそばには鐘虎がいて、自分の行動次第で彼女の命運も決まるのだ。  ふと、高光は鐘虎の笑顔を思い出していた。今浮かべている切羽詰まった表情ではなく、春の日差しのように暖かい笑顔。  その笑顔を最初に鐘虎が浮かべたのはいつだろう?  なんのこだわりもなく向けられる笑顔が、自分にとっての救いだったのだと、その時高光にははっきりとわかった。  その笑顔を、鐘虎が浮かべるようになったのはいつからだろう?  いや、いつからだったなんてどうでもいい。もう一度、鐘虎のそんな笑顔が見たいなら、ここは堪えるべきだった。  絶対に、この憎しみを大湖首に悟られてはいけない。ここにいるのは礼儀も知らないような、ただの田舎の粗野な野鍛冶で、それ以外の何者でもあってはいけなかった。  それだけ、心に決めて高光はバッと平伏した。  だが、最初の一言が出てこない。  名乗らなければならない。それはわかっていた。だが、最初の言葉が出てこない。何か喋ったら、一言でも言ってしまえば、自分がその後どんな行動を取るかわからなかった。  本当に、自分が自分の感情に手綱を付けられるか全くわからなかった。  だから、高光は。  何も言わずただ平伏していた。  目の前にある床の板目の一筋一筋がぐっと自分に迫ってくるような気がした。手が小刻みに震えているのがわかる。その震えが、その場にいる誰にも見えていないことを、高光は祈っていた。  その高光のすぐそばに、さも当然のように鐘虎が座った。 「ご紹介いたします。この者が、鷹花です。鷹花、大湖首様に挨拶しなさい」  彼女の手が肩に置かれたのがわかる。他の誰にも気付かれないほど微かに、その手に力が入っているのも。自分が自分の唸り声をどうやって誤魔化したのか、高光にはわからなかった。 「鷹花は、大湖首様に直接お声がけをいただけることに恐縮しております」  それを実際誤魔化したのが、鐘虎だということにももう少しで気づかないところだった。 「構わぬ。顔をあげよ」  大湖首の言葉一つ一つが怒りの炎にくべられる薪のようで。 「鷹花は自分程度の野鍛冶が大湖首様の前で、顔を上げたりはできないと申しております」  『私に任せろ』耳元で小さな囁きが聞こえた。だが、その声が鐘虎のものなのだと、高光は気づかないところだった。 「ははは! そう仰々しく考えるでない。大湖首とはいえ職人に依頼したいことがあるのであれば直々に頼むのが筋だと思ったから、ここに来た」  上機嫌の敵の言葉。感情が掻き乱される。それでも、高光は必死で自分を抑え、ぐいっと鐘虎の着物の袂を引っ張った。鐘虎が高光の顔に耳を寄せる。 「断れ。帰らせろ、俺は絶対に受けない」  その耳に激情を抑え呻くような声で囁いた。 「大湖首様。鷹花はやはりご依頼は受けれないと申しております」  スッと姿勢を戻した鐘虎が言う。 「ほう? 何故だな」  もう一度、鐘虎が高光の顔に耳を寄せる。高光は何も言わなかった。だが、鐘虎は。 「自分の腕に余るご依頼だと、鷹花は申しております」  鐘虎に全部を任せるのは違うだろうと、高光だって思わなくもなかった。それらが自分の言うべき言葉なのも本当はわかっていた。このままでは、大湖首の鐘虎に対する心証まで悪くしてしまうのではないだろうか?  それに鐘虎がこの場にいて、駆屋の跡取りとしている以上、鐘虎が高光の代弁者として振る舞ったら、鐘虎だけでなく駆屋についての大湖首の心証も悪く……。  そこまでわかっていても、高光は口を開けなかった。  本当なら、顔を上げ、自分の言葉で大湖首の依頼を断るべきだ。それがわかっていながら、全く動けない自分が情けなく、口惜しかった。 「そうか? お主の腕はこの国一番だと思った。だからこうして、わし直々に訪ねてきたのよ」
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