53.憎しみの……

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53.憎しみの……

「せ、師匠? せんせ! 大丈夫!?」  客間に駆け込んできた菜菜は、客間の壁に寄りかかり頭を抱えている高光を見て、びっくりしてひっくり返った声を上げた。 「……東雲は帰ったか?」  うめくように高光は言う。 「大湖首様? うん、帰ったよ」  その高光の腕に触れようとして、菜菜は高光の握りしめた拳の白さに怯えて、手を止めた。 「師匠。本当に大丈夫? 大湖首様に脅されたの? そんな方には見えなかったけど……」  だが、菜菜の問いかけに高光は答えなかった。 「お茶入れようか? 羊羹の最後の一切れもあるし、」 「いらんっ!」  自分の言葉が強い調子で遮られて、菜菜は目を丸くした。 「師匠……? 本当に大丈夫?」  それでも、なるべく高光を刺激しないように声をかける。少女に気を遣われていることぐらい、高光にもわかったのだろう。 「菜菜、しばらく俺のことは放っておいてくれ」  呻くように呟く。菜菜は戸惑った。こんな様子の高光は今まで見たことがなかったから。菜菜は高光を、どんな状況でも平然としている男だと思っていた。それなのに今、彼女の保護者は、深い穴倉にはまり込んだように見える。 「でも、師匠……」 「放っておいてくれと言っている!!」  高光は握りしめた拳で、寄りかかっている壁を思いっきり強く叩いた。大きな音に、菜菜がビクッとする。 「菜菜。悪いが放っておいてくれ」  菜菜は何か言おうと思った。でも子供の彼女にはこんな状況の解決策は思い浮かなくて。だから、本人がそうして欲しいと言うなら、そうするしかないと受け止めただけだった。 「わかった。師匠、あたし厨にいるから、お茶が飲みたくなったらそう言って」  少女の軽い足音が遠ざかっていく。 『高光。私が改めて、大湖首様か鏑屋さんに正式な断りを入れるよ。だから、もう気にするな。向こうもそろそろ諦める頃合いだろうし』  和樹丸一行が出ていくまで、高光は顔を上げられなかった。帰り際の鐘虎にそう囁かれても、何も答えられなかった。  菜菜の気配がしないことを確かめて、高光はもう一度板壁を拳で強く叩いた。その痛みも……感じなかったが。  鐘虎に全て任せてしまった。自分が言うべき言葉を何一つ口に出せなかった。そんな無様な自分の体たらくが許せなかった。  そして、大湖首が許せなかった。  敵がすぐそばにいた。目の前で呼吸していた。それなのに、その前に平伏して惨めったらしく震えてるだけで、何もできなかった。  怒りの全てを飲み込んだのは、鐘虎のためだ。だからこれでよかったのだと思うのと同時に、鐘虎さえいなければ自分は復讐を果たせたはずだ、という思いも消せなかった。  復讐していたら、自分も菜菜もここにはいない。  そんなことははっきりわかっていた。  それでも、復讐できなかった自分は惨めだと感じていた。  大湖首。平和などと簡単に口にした。簡単に望みを叶えてやろうと言ってきた。  それがどんな意味を持つかも知らずに。何のこだわりもなくあっさりと。  そして、自分と彩彩の間にある感情を利用してきた。二人自身すら壊したくなくて、はっきりさせたくなくて、そっと抱えていた感情をあっさりと利用したのだ。  許せなかった。  高光には、大湖首の存在が、その言葉一つ一つが許せなかった。絶対に許せなかった。怒りで気が狂うのではないかと思うほどの怒りが、最初に大湖首を目にした時より激しい怒りが身体の中で渦を巻き、荒れ狂っていた。  そのせいで、現実もうまく捉えられないほどだった。 「鐘虎っ……!! いや、あいつはもう帰ったんだ……」  彩彩の気配がしたような気がして、顔を上げる。でも、夕闇の迫った部屋の中には誰もおらず、高光はバカなことを考えてるなと、頭を振った。  身体の中にある憎しみの嵐は、びょうびょうと吹き荒れている。その嵐がもたらす衝動に高光はただ従った。  ふらりと立ち上がったのは、どれくらい経った後なのか高光にはわからなかった。 「菜菜。工房に行ってくる。飯はいらん。お前も来るんじゃないぞ」  悪夢の中にいるような心地のまま、客間から廊下を通り、厨を抜け、草履を履く。 「師匠?」  菜菜の焦ったような声がしたが、高光は振り返らなかった。
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