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57.鐘虎、あるいは彩彩5
鐘虎はその日の朝、普段どおりの時刻に起きた。特に今日が特別な日になるような予感はなかった。ただ、昨日の疲れが少し残っているような気がして、普段着に着替える前に女中に按摩を頼んだのが、いつもと違ったくらいだった。
朝餉をとり、鐘虎は自室で一人考える。
和樹丸が鷹花に刀を打たせたいと言っても……確か……明日命の戴冠十年の記念祭はあと三ヶ月ほどで始まる。期限を考えれば彼らが鷹花に執着できるのも、そんなに時間はないはず。
自分より多くの刀を見てきた鏑屋と大湖首が、この国一番の腕の持ち主だと認めた刀匠に刀を打たせたい。それはわかる。だが、同時に彼らはもうこれ以上鷹花に執着しても望むものは得られないと考える頃合いにはなっているはずだった。
もう一度、もう一度鏑屋に会って、断りを入れよう。理由は『鷹花は飾りの刀を打たない』何度も言うがその一点でいいだろう。それは事実なんだし、別に苦しい理由でもない。
本当なら、大湖首に直接会って断るべきなのではと思う。けれど鐘虎にはそれが怖かった。
怖がってどうするんだ?
自問自答しても、やはり大湖首は恐ろしかった。ただ機嫌が良さそうに座っているだけでも、あれほどの圧迫感があったのだ。『意に添えない』その言葉を大湖首の前で、もう一度言うのは本当に恐ろしかった。
まぁ、大湖首とたかだか白色の鑑札しか持たない家の娘が会える状況には、もう二度とならないだろう。それが救いと言っては言い過ぎか?
鐘虎はもう十分考えた。と自分で納得するまで考えてから紙を広げ、墨を擦り筆を手にした。
断りは書状のほうがいいだろうと思ったからだ。
もちろん和樹丸が言った『高光の願いをなんでも叶えよう』というその言葉の意味を無視したわけではない。高光が口にすれば、鐘虎は駆屋の正式な跡取りになることができる。少なくともその可能性は高まる。
だが、高光の心を捻じ曲げて、それで手にする望みの価値は、鐘虎にとって石ころも同然だった。自分だったら? もし、自分が何かを我慢してそれで高光の願いが叶うのだったら……もしかしたら、自分は高光の願いを叶えようとしたかもしれない。
それはまあ、今高光が抱えているような血生臭い願いでなかったら、という前提条件はつくが、それでも、自分は高光の願いを叶えるように動いただろう。
自分がそうするからといって、相手に同じことを求めるのは違うと鐘虎は思っていた。それに、捻じ曲げる高光の心はもう絶対に戻ってこない高光の人生そのものだ。惨殺された身内を無視して、自分のために動いてくれとは絶対に言えなかった。
「彩彩お嬢様。旦那様がお呼びです」
書状を半分書いたところで、鐘虎の部屋に女中が顔を出した。
「今? もう少ししたら行くとお父様に伝えて」
「いえ、すぐ来るようにとのことでした」
「後で行く」
鐘虎はその女中を見もせずに言った。だが。
「そう言うわけにもいきません。お嬢様」
女中が言うのと同時に、手代が二人部屋の中に入ってきた。鐘虎の手から筆を取り上げ、無理矢理立ち上がらせる。彼らが自分ではなく大番頭の下に付く者だと鐘虎が気づくのと同時に、部屋の中から連れ出され強引にどこかへと連行された。
「何をする!!」
鐘虎は抗議の声をあげるが、それは無視された。
「お嬢様。ここでお待ちください」
「お父様は? お父様が呼んでたのでは?」
「旦那様は後でお見えになります」
「ああ。そうか」
鐘虎は屋敷の一角にある座敷でため息を吐いた。ここまで連れてこられたのに、説明は一切なし。そしてこの座敷は、風雅を楽しむときに使うものだ。鐘虎には滅多に縁のない部屋。なんでこんなところに連れてこられたのだろう?
考えても仕方ない。そう思って鐘虎は用意された円座の下座の方に座った。客が来るか、父親が来るかそれはわからない。でも、確実に誰かは来るのだ。
「彩彩。またそんな格好か!」
「私は鐘虎です。父上」
「全く、そのような振る舞いはやめろと言っているだろうに!」
「やめません。父上が私を駆屋の跡取りと認めるまで」
「それが……」
そこまで言って、玄達は伴ってきた人物に視線をやった。鐘虎はその人物たちがそこにいるのに、少し違和感があった。
玄達が伴ってきたのは、実一と拓馬。でも、父はなぜ彼らに自分を会わせることにしたのだろうか? 彼らに面会しろという命令をなぜ、自分に伝えなかったのか? 別に自分を呼び出す時に告げていてもおかしくは無いはずだった。
何かがあるのだ。
そう鐘虎は思ったが、その何かはあっさりと明らかになった。
「彩彩。これから拓馬殿と見合いをするんだ」
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