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買い物を中止して、家に帰った。
「おかえり」
今日は父も仕事が休みの日で、なるべく早く帰ってくるように言われていたのを、玄関の靴を見て思い出した。家の靴箱のラインナップにない、ヒールが高い白のパンプス。
そうだ。今日はおばさん……泉が家に来て、手料理を振る舞ってくれる日だから、早く帰れと言われていたのだった。
「ただいま」
「おかえりなさい、菜月ちゃん」
作業が一段落したのか、泉は手を拭き拭き、キッチンから出てきた。身につけているエプロンが、母のものではないことに安堵した。
父は部屋に入ってきた菜月をちらりと一瞥すると、パソコンに向き直る。明日の仕事の準備をしているのかもしれない。眉間に皺が寄っている。いつもはガタガタと音を立てているキッチンが静かだった。
「菜月ちゃん。具合悪い?」
空元気の「ただいま」は、付き合いの薄い泉に見抜かれてしまった。産まれた頃から娘のことを知る父は、彼女の言葉に、弾かれたように顔を上げた。
「確かに。白い気がするな。どうした?」
「……」
父に説明する気にはなれず、もじもじと服の裾を弄った。引っ張って、子宮周りの腹を気にする。
無言は「何もない」ということだと解釈する父は、そのまま引き下がり、仕事に戻ろうとした。何もないわけじゃない。父に言ってもどうにかなることが何もないだけだ。
泉は菜月の様子をじっと観察する。視線が突き刺さるようで、菜月は目を逸らした。
「菜月ちゃん……」
経験を積んできた大人の女である泉は、鋭かった。それはそうだ。二十年以上、彼女は女の生理現象と付き合っているし、製薬会社の正社員だ。身体のことや健康のことは、よく知っている。
父との関係を知る前から、泉は薬箱の中の減り方から、菜月がすでに大人の身体になっていることに、気づいていた。
「もしかして、生理?」
声を潜めない。父と娘、異性とはいえ、ずっとふたりきりの家族だったのだ。成長について、父親が何も知らないということはないと、泉が信じているのも無理はない。
これまで彼女は他人だったから、菜月の最もプライベートな部分である性に関して、父と話をすることはなかった。
泉の問いかけに答えない娘の代わりに、父は言った。
「まさか」
と。
言うに事欠いて、「まさか」と言った。
父親に、初潮が来たことを報告することがなかった自分が悪い。けれど、彼の中では自分はいつまでも、母を恋しがって泣く、幼い子どものままなのだと思うと、悔しかった。
「菜月はまだ中二だぞ?」
まだ、じゃない。
もう、中学二年生なのだ。
思わず、ぽろりと涙が零れた。自分自身、泣くとは思っていなかったので、俯いて必死に隠す。
娘の泣き顔を見て、ようやく様子がおかしいと悟った父は、慌てて「おい、どうした? 遊びに行った先で、何かあったのか?」と、見当違いもいいところの心配をしてくる。
首を横に振る。どうせ、言ってもわかってもらえない。父は、女の身体について、あまりにも無知だ。母に菜月を産ませたくせに。姉と妹がいて、祖父とふたり、肩身の狭い思いをしてきたと、語っていたくせに。
ふたりきりだったら、埒があかなかった。けれど、今この空間には、もうひとり、頼りになる女性がいる。
「っざけんじゃないわよ!」
一喝に、父はぴたりと動きを止めた。恐る恐る目を向けると、泉が髪を逆立てるほどに怒っている。
娘の心配をしているのに激怒されて、何がなんだかわからないという顔の父を、彼女はトイレへと引っ張っていく。
唖然として見送りかけて、はたと気づき、菜月も追った。
「あんた、このトイレ見て、なんとも思わないの!?」
「なんともって……」
飾り気のない、ただ用を足すだけの小さな空間を、父はぐるりと見回した。違和感を覚えない彼は、無言で立ち尽くすだけだ。
「あのね、中学二年生にもなれば、生理が来てる子が大半なの!」
「えっ、早すぎないか……?」
「早くない!」
ぴしゃりとやってから、泉は菜月に矛先を向ける。目には爛々と怒りがまだ燃えさかっていて、反射的に後ずさった。
「菜月ちゃん。生理はいつから来てるの?」
嘘はつけないと思った。彼女はずっと、家の薬箱の中身を把握している。痛み止めの減りが早いことを指摘し、鉄分の入ったドリンクを置いていったのは、たったの二ヶ月前の話だ。
「六年生……」
父は絶句した。小学生が、子どもが産める肉体になるということに、衝撃を受けている様子だったが、泉は容赦しない。
「このトイレには、何にもない! ナプキンをしまっておく場所も、ゴミ箱も! 奥さんいた頃は、使っていたでしょう?」
使用期限についてわからないから、未使用のナプキンは捨てた。ゴミ箱も、存在意義がなくなってしまったから、処分した。
「し、しかし、菜月は何も言わなかった……」
「言えない雰囲気にしてたのはあなたじゃないの? 毎日ちゃんと、声をかけた? そうしたら、何かしらの変化に気づくはずよ。現に、他人の私でも、気づいたわ」
「それは君が女だからで」
「だから? あなたは父親。血の繋がった親でしょう?」
ぐうの音も出なくなった父親は、泉に詰られてばかりなのに堪えて、恨みがましく菜月に視線を向ける。
「……小遣いはじゅうぶんに渡しているだろう」
そのセリフに、泉はこれまで以上にぶち切れた。拳を握り、父の腹を思い切り殴る。ふぐ、という呻き声に、菜月は何も言えずに泉を見つめてしまう。
「はぁ? それはこの子がお友達と仲良くするため、自分のために使うもんでしょ? ナプキンはね、生活必需品なの! トイレットペーパーやティッシュなんかと同じ扱い! 別に渡せ、このあんぽんたん!」
ひぃ、と悲鳴を上げた父。それから「あんぽんたん」という聞き慣れない罵倒語の響きが面白くて、菜月は泣いていたのを忘れて、笑い声を上げた。
「菜月ちゃん……」
その間に生理痛がひどくなって、お腹を押さえてうずくまった。
「な、菜月。その、父さん……」
謝罪を聞かず、泉は父に向かって、「財布! 出せ!」と脅迫した。受け取った彼女は、すぐさまドラッグストアに走り出す。
十分もせずに戻ってきた彼女の手には、大きめの袋。その中には昼と夜、それから軽い日用のナプキンとおりものシート。菜月が持っていなかったサニタリーショーツが三枚。鉄分入りのドリンクにカイロなど、さまざまなものが入っていた。
父は「そんなに……」と、呆然としている。
泉に手渡されたショーツとナプキンを手に、菜月はトイレへと籠もる。一緒に、中が見えない黒い袋を手渡された。
「明日、ゴミ箱を買ってくるわ」
「うん……」
借り物ではない生理用下着は、しっかりと菜月の身体を支えてくれて、ようやく安心した。
ポケットの中には、ショッピングモールで手に入れた、無料のナプキンが入ったままだった。
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