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3
あ、来る。
そう思ったのは、一時間目の授業中のことだった。
数学の応用問題について説明する先生の言葉は、意識の外、右から左へ流れていく。
「次のテストに出すからな~」
という重要情報だけどうにかキャッチして、教科書の該当ページに赤ペンでぐるっと丸をつけた。やり方は、あとで誰かに聞こう。
授業が終わるまで、あと十五分ある。腹を押さえて、菜月は密かにパニックに陥っていた。
二週間前に来たばかりだった。どうして。いくらなんでも、早すぎる。
普段は、予定の日が近くなってきたら、トイレットペーパーをあてて備えている。しかし今日は、ダイレクトにパンツに血が付着してしまう。大量に出てくる感覚は収まっているけれど、こうしている間にも、経血は流れていく。
三時間目は、体育もある。担当は中年の男の教師で、前回の生理のときも「体調不良で」と、言葉を濁して見学を申し出たところ、露骨に嫌な顔をされた。去年は女の先生だから、言い出しやすかったのに。
長く女子校に勤めているのだから、生理中を指す符丁であることは、重々理解しているはず。実技だけじゃなく、保健の座学も教えているが、男性というだけで、やはり信用できない。
休めるかな。休めないかも。ああ、保健室に行くのもまずいかな。だって、二週間前に行ったばかりなのに。
もしかしたら、何か病気なのかもしれない。どうしよう。内科や歯医者くらいならひとりで行くけれど、婦人科では、変な目で見られそう。
子どもを産むための病院に、大きな子どもがひとりでいたら、おかしい。そしてそれを、誰かに見られたら……。
頭の中まで血に冒されたように、ぼーっと熱っぽい。すでに体操着に着替えていて、不幸中の幸いだった。ジャージの上着を一度脱ぎ、腰に巻く。漏れていないとも限らなかった。
トイレで確認すると、やっぱり下着が汚れていた。トイレットペーパーで擦って、濡れた部分を乾かすのが、なんとも惨めに感じられた。ジャージも汚れていたけれど、少なくとも外からはわからない程度だった。紺色でよかった。
三時間目、おずおずと教師に「体調が悪くて……」と、見学を申し出ると、思い切り眉間に皺を寄せた。こちらに向ける視線は鋭く、明らかに疑われている。
「またか?」
ずる休みを疑われていることに、いたたまれなくなり、俯いた。出席簿で自分の肩をトントンと叩き、菜月の反応を待っている様子に、生徒たちも、何事かと注目している。
悪口は耳に入ってきやすい。クラスメイトにまで、「サボり? ずるくね?」と言われているのがわかって、菜月は慌てて顔を上げた。
「や、やっぱり大丈夫です……やれるところまで、頑張ります……」
そうか、以外何も言わない。教師は準備体操の号令をかけ、菜月も列に戻る。背の順だと前後の関係になる奏が、「大丈夫なの?」と、こっそり話しかけてきた。
「顔、青いけど」
「大丈夫……」
柔軟を組んで、体育館をウォーミングアップで五周。ただでさえ、運動は得意じゃないのに、股から血を流して走るのは、苦行だった。ふらふらと力なく走っていると、「渡辺ー! 真面目にやれー!」と、怒号が飛ぶ。
返事をする気力もなく、黙って走り続けていると、ようやく「渡辺さん、本当に具合悪いんじゃ……」という空気になる。
「大丈夫?」
陸上部の健脚自慢が、周回遅れになった菜月と並走して、声をかけてくる。うん、と縦に首を振ろうとしたところで、頭が揺れた。あっ、と思ったときにはすでに遅く、倒れ込んでいた。
「渡辺さん!」
床に身体を打たずに済んだのは、両隣を走っていたふたりが、反射的に受け止めてくれたおかげだった。
名前を呼ばれているのはわかるが、頭が回らない。彼女たちの手を借りて立ち上がろうとして、再びの立ちくらみ。
ずる休みを疑った教師は、自分の判断ミスを詫びるかと思ったが、「おい! 誰か保健室に連れていってやれ」と、大声を出すだけだった。
「変わるよ」
奏が陸上部の子と交代して、一緒に保健室に行ってくれる。
「ありがとう」
言えば、ふん! そっぽを向いた。
「保健委員だからね」
一年のときから同じクラスで仲がいいから、この発言は奏お得意のツンデレだとわかり、苦笑した。
保健室まで時間をかけて歩く。少し硬い表情でノックをするのは、奏もまた、鬼ババと呼ばれる養護教諭のことを苦手としているせいだ。彼女が保健委員になったのは、じゃんけんで負けたからだった。
「はーい」
入室の許可を得て、扉を開ける。全部奏任せになっていて、少々申し訳ない。
「どうしたの」
「体育の授業で……」
説明を始めようとした奏を遮り、先生は菜月を座らせた。顔色を見て、それから菜月自身の口で事情をを話すように求める。具合が悪いのに、と唇を尖らせた奏は、しかし、先生を恐れて何も言えない。
確かに、体調についての詳細は自分自身にしかわからない。菜月は、突然生理が来たことを報告した。けれど、体育の先生が信じてくれずに、結局授業に無理をして出席することになったこと。悔しくて悲しくて、涙が滲む。
「あ、だからナプキン……」
言い出す前に、サニタリーショーツとナプキンが出てくる。まずは着替えて来いと言われ、最寄りのトイレへ。
菜月が戻ってくると、怒った口調で奏が先生に対して訴えていた。
「確かに菜月は、先々週も体育を見学してたけど! でも、ずる休みを疑うなんてひどくないですか!」
菜月本人よりも、よほど逆鱗に触れた様子で、あれほど憂鬱に感じていた鬼ババ相手にも食ってかかる。
対する鬼ババは、冷静に相づちを打つ。
養護教諭は医者ではないが、学校の中では一番、身体や健康のことに詳しいはず。けれど、先生は先生だ。
この人に「ずる休みじゃないの?」と疑われたら、奏までも自分のことを信じてくれなくなるんじゃないか。
念のためにと渡された体温計で熱を測りながら、寒気由来ではなくて、震えが来る。
ピピッと鳴った体温計の数字を記録してから、先生は菜月に、ベッドで休むよう促した。ベッドに入ってカーテンを閉める。目を閉じる前に、耳に入ってきたのは、先生の力強い声だった。
「私の方から言っておくわ。若い子はホルモンバランスがまだ整っていなくて、月に二回生理が来てもおかしくない。逆にしばらく来なかったりもするしね。ずる休みなんかじゃないって」
ああ、と安堵の溜息を漏らして、菜月はジクジクと痛む腹を抱え、眠りに落ちた。
起きるともう三時間目が終わっていて、だいぶ体調もマシになったところで、教室に戻ることにした。
「ありがとうございました」
一日分にしては、いつもよりも多い枚数をもらい、菜月は頭を下げた。
書類仕事をしている先生は、こちらを見ずにひらひらと手を振った。
「また、しんどくなったら遠慮なく来なさいよー」
開けた扉の前で、思わず立ち止まり、振り返った。やっぱりこちらなど見ておらず、手元に集中している。
先生だって、生徒にどこまで関わればいいのか、手探りなのだ。こちらだって、どこまで頼っていいのかわからない。
そんな中で、お節介にならず、生徒の心の負担にならない程度に心を砕いてくれることに、安堵した。
もう一度深く礼をして、菜月は保健室を出た。
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