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 ゴールデンウィークもあと少しで終わるというタイミングで、父はレストランに菜月を連れていった。  こじんまりとしているが、よく行くファミレスとは明らかに違う。しかも個室に通されて、菜月は思わず、自分の服を見下ろした。  もう少し、いい服を着てくればよかった。  昼間は気温が高く、半袖のTシャツの上にカーディガンを羽織り、下はスキニーデニムだ。襟ぐりがよれよれになっていたり、ダメージデニムを穿いているわけではないが、なんとなく、こういう店にはスカートの方がふさわしい気がした。  部屋の中には、すでにおばさんが待っていて、立ち上がって出迎えた。  制服姿ではない薬屋のおばさんを、思わずぼーっと見つめてしまう。仕事で家に来るときよりも、彼女の化粧は上品で、ワンピースもよく似合っているし、レストランの雰囲気にもマッチしている。  固まっている菜月に、「驚いたわよね。ごめんなさいね」と、おばさんは言う。違う。父と彼女が付き合っていることには、とっくに気づいていた。  目につくように貼ってある冷蔵庫のカレンダーに、いつの頃からか、印がつくようになっていた。  始めのうちは、意味がわからなかったけれど、その日に置き薬の確認におばさんが来るし、父がなるべく休みを合わせて彼女のお喋りに付き合っていることに気がついた。  そして、いつしかカレンダーの印がランダムになり、薬の件でおばさんが来る日ではなくなった。そのとき、父とおばさんの仲が進展したのだと、菜月は悟った。  カレンダーどおりの休みだと、菜月も家にいる。父とおばさんは、定期的に休みを合わせて、娘のいない平日に、交流を深めるようになったのだ。  菜月が呆然とおばさんを見つめたのは、いつもとあまりにも違うから、その一点のみであった。 「座って。食べながら話をしましょう」  促され、父が座ったのはおばさんの隣。一瞬ためらいつつ、菜月は向かい側に腰掛けて、注文をした。普段見たことのないメニューに目を白黒させ、どうにか決めたときには、なんだか言いようのない疲労感に襲われて、菜月は水を口にした。  グラスを置くと、「食べながら」というおばさんの言葉は忘れ去られたようで、父が強ばった顔で切り出した。 「菜月。父さんは、(いずみ)さんと結婚しようと思っているんだ」  菜月はこのとき、初めておばさんの名前が泉だということを知った。制服についている名札は「小林(こばやし)」のみだった。  おばさん……泉は、隣に座る父の腿あたりを強く叩き、窘めた。 「どうして決まったことのように話すの? 菜月ちゃんの意志を尊重しようって言ってたでしょ!?」  本当に結婚するにせよしないにせよ、すでに父は尻に敷かれている。「うん」と頷き、菜月に「すまなかった」と謝ったところで、彼は自分の役目は終えたとでもいうのか、黙りこくってしまった。おそらく、菜月の意見を聞く態勢なのだろうが、何をどう言えばいいのかもわからずに、沈黙が続きそうになる。  打ち破り、話を具体的に進めてくれたのは、やっぱり泉だった。 「ごめんね、菜月ちゃん。いきなりのことで驚いているとは思うけれど……」 「いえ」  気づいていました、とは言いにくかった。 「私はあなたのお父さんが好き。結婚したいと思っている。もちろん娘のあなたの今後のことも、しっかり考えたい」  薬屋のおばさんという印象から、ただのお喋りな人だと思っていた。実のない話をいつまでもだらだらと喋っては、「あら、もうこんな時間! やだわ~」と笑うような人なのだと。  けれど、相対して真剣に話をする泉は違った。菜月のことを子どもではなく、ひとりの人間として扱い、自分の意見をしっかり話してくれる。 「簡単にあなたのお母さんになれるとは思ってない。あなたのお母さんは、亡くなった(あい)さんだけだもの。それでも私は、あなたとあなたのお父さんを支えていきたい」  母の役割を担いつつも、菜月に母と呼ぶことは強要しない。父と本当に結婚して、同居をするようになったとしても、ただの世話を焼く同居人として認めてくれればいい。 「もちろん、仲良くなって、お母さんって呼んでくれたら嬉しいけれどね」  笑って足された言葉にも、嘘はない。  運ばれてきた料理の味は、よくわからなかった。菜月は何も言わず、黙々と食べ続けた。  デザートまで終わり、ゆっくりと食後に紅茶を飲んで、ようやく口にする。 「いいよ。再婚しても」  そもそも、別に最初から反対というわけではない。いい年をして、という気持ちは多少あったけれど、父の人生は、まだまだ長い。そのすべてを、自分を育てるためだけに使ってほしいとは思わない。死んだ母だって、父の幸せを願っているだろう。  不器用な父に、しっかり者の泉はまさにふさわしい相手とも言えた。  少しだけ刺々しい口調になるのは、付き合っている相手を担当にし続けてきた父の神経がわからないせいだった。  父と泉は顔を見合わせてから、菜月の顔色を窺った。 「いいのか? 本当に?」 「そんなに反対してほしいの?」  そういうわけじゃないんだが、と口を噤んだ父の隣で、泉は複雑そうな、けれど嬉しそうな顔をしていた。 「これからもよろしくね、菜月ちゃん」 「はい」  差し出された手を、躊躇しつつも握り返した。少しだけ震えていたのは、堂々としている姿とは正反対で、彼女もまた、緊張していたのだと思った。  緊張。  そうか、緊張していたんだ。美味しそうな料理の味がよくわからなかったのも、全部そのせいだ。  支払いは父と泉が折半した。単純に二で割っていたから、私の分まで払わされて、彼女が損をしたことになる。会計後に、父を肘でつつくとようやくそのことに気づいて、菜月の分を払うと言ったが、ワインを飲んでご機嫌な泉は、ひらひらと手を振った。 「それじゃあね、菜月ちゃん。また」  颯爽と立ち去る泉に頭を小さく下げた。これから大人になっても、彼女のようになる未来はまったく見えなかった。  五月の夜の風が、頬を撫でる。 「ねえ、お父さん」 「うん?」  電車の中は空いていた。連休も終わりに近づき、家でのんびりと休養しようという人が多いのかもしれない。 「なんで、今さら結婚しようと思ったの?」  菜月がカレンダーから推測する限り、ふたりが付き合い始めたのはもっと前、まだ小学生のときのことだ。いい大人だから、相手に結婚する気があるかどうかとか、相性がどうだとか、見極めるのにそんなに時間がかかるとは思えなかった。  父はスマホから顔を上げ、菜月を見た。 「……そろそろお前にも、母親が必要かと思ってな」  ぼそりと告げられた回答は、まったく思いもよらないものだった。  呆然としている間に、電車は家の最寄り駅に到着して、父は先に下りていく。 「……今さらだよ」  ぼそっとその背に呟いた。  本当に、今さらだ。一番いてほしいと思ったときには、そんなこと、考えてもいなかったくせに。 「何か言ったか?」  振り返った父を追い抜いて、「なんでもない!」と、菜月は突っぱねた。
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