35人が本棚に入れています
本棚に追加
不倫はいけないことだってわかってる。でも、子どももできないし、好きなバンドは解散してしまうし、暇だったのだ。
31歳、結婚4年目、ほぼ無職。ほぼ、というのは帽子を作ってネットやクラフトフェアで売っているから。今はネットから注文も受けている。しかし、元来気分屋のため、すぐに手元がお菓子だらけになる。作業台に飲み物や食べ物を置くと帽子職人だった祖父は気が狂ったように私を叱った。祖母は店で祖父の作った帽子を売っていた。私の母には兄がいるが、どちらも継がずに私が帽子を見よう見まねで作りだしたころにはすっかり時代のあおりを食って店は人手に渡っていた。祖父母は今、老人ホームにいるらしい。母は自分の兄とそりが合わずあまり連絡を取っていないようだった。
自分の部屋のミシンでダダダダダダっ。世の中、いろんなものが進化しているのにどうしてミシン音は静かにならないのだろう。便利だと思って買った小さいミシンはうるさいすぎて使わなくなってしまった。この音のせいもあって、私と夫は結婚してからも自分の部屋を持ちたいという共通の考えがあった。夫は釣りとマンガが好きで、釣りは朝が早いし、マンガを読んでいると深夜になるから気を使いたくないと言った。私も帽子づくりと一人で映画を観ることが生きがいなので譲れない。
私たちは互いでなければ結婚を選ばなかったと思う。少し偏屈で、だからこそ合った。それなのに不倫なんかして申し訳ない。
言い訳がましいとは思うけど、私がしているのは一般的な不倫とはちょっと違う。不倫相手が旦那さんよりも収入がいいとか顔がいいわけじゃなかった。むしろ、私が貢いでしまっている。
お相手の義治さんは劇団員でいつもお金のやりくりに困っている。歳は50歳近く、服装も同じようなものばかり。
出会ったのは舞台のためにへんてこな帽子を頼まれたことがきっかけだった。
「こう、ぽーんとヒマワリが咲いてるような…」
と彼は手を広げ、目を輝かせた。
「はぁ」
最初の印象は、この人その顔でよく役者を目指したなと思うくらい特徴がなくて、しかも今は劇団においては役者よりも裏方の仕事がメインのようだった。
義治さんは私の作った帽子がよく似合った。花のものは主役の女の子用なのに、頭が小さいのかすっぽり。カラフルなフェルトのもの、魔女のとんがり帽子、なんでも似合ってしまう。
そういう人のほうが本当はいい役者さんなのだろう。こんなところでくすぶってかわいそう。
同情したから惚れたのではない。帽子をかぶせるときに触れた頭の形が気に入ってしまった。私が帽子を作るのを生業としている人間でなかったら惚れずに済んだのだろうと思う。
ともあれ、関係があれよあれよと進んでしまって、義治さんは年上のツバメ状態。
彼の公演が決まったらチケットを買うし、衣装づくりまで無償で手伝ってしまう。
でも顔はかわいくないんだよな。皮膚も硬い。髭はチクチク、口臭あり。欠けた前歯を治さない。義治さんはおじさんだけれど人を養う余裕がないから独身である。だったら女に稼いでもらったらいいのに、
「男たるもの…」
とか言い出す面倒な人。
そんな人のどこが好きなんだろうと自分でも疑問になる。
義治さんと今日はメキシコ料理。
「波ちゃん、食べないの?」
「食べますよ」
デートはほとんど私払い。
義治さんは夜に病院の守衛のバイトをしているから、それまでの間だけ。夢を追う人は時間とお金にも追われる。
タコスとチーズのがすごいおいしかった。義治さんがチーズとお肉をトルティーヤに巻いてくれて、酔っぱらう私を羨ましそうに見ていた。
その顔が、好きなの。4100円出してもちっとも惜しくない。
「ごちそうさま」
礼を欠かさないところも好きだ。
「うん。じゃあ、また」
と派手な看板の前で別れた。まだ明るいのに、セックスもしてないのに別れなければならない。
私は家に帰ってサラリーマンの夫のために夕飯を作る。ピーマンのツナ和え、鮭の西京焼き、里芋の煮物。メキシコ感はゼロ。
それがせめてもの夫への礼儀。
夫の弦くんとは互いを探すようにして惹かれ合った。ひとつ年上で、周囲も交際当時から彼のことを悪く言う人は一人もいなかった。悪い感じはしないのだけれど、いつも心の中で人を辛辣に見ている冷たい人だ。
それを時たま私にだけ漏らすから本当に嫌。
「あの人、抑制できないからあの体なんだな」
この前、外で食事をしたとき隣の席の太った人が帰ったあとで夫は呟いた。私だって善人じゃない。不倫をしているもの。でも、人の悪口だけは苦手なの。
義治さんと一緒にいても弦くんの話題にはほとんどならない。私が既婚者であることは劇団関係者から知らされているらしかった。しかし、目を伏せてくれている。二人で夫の悪口を言ったらもっと仲良くなれるかもしれないのに、義治さんはしない。そういうところも好き。
「ただいま」
「おかえり」
夫は古民家をホテルに改装する会社でホームページを作っている。内勤業務ばかりではなく現地に写真を撮ったりもしている。だから、
「来月、出張で沖縄」
というのも珍しくはない。
「いいなぁ」
私は久しく旅行にも行っていない。金欠なのは自業自得。
「沖縄なんて新婚旅行ぶりだよ」
と夫も言った。
「懐かしいね」
私と夫は仲が悪くない。私が不倫をしていても。不倫をしているからこそ優しくなれるというのは本当らしい。
うしろめたさは当然ある。金銭面では夫が頼り。
「波子、夕飯食べないの?」
「変な時間に食べちゃって」
嘘をつくのも慣れてきた。
「そうか。お菓子ばっかりじゃ栄養にならないからな」
「うん」
テレビ番組のチョイス、今日の話題。私と夫は互いに傷つけ合ったりしないのだ。
好きな音楽は近いけれど、読む本は大きく異なる。したいことも違う。だから、別の部屋に籠っているほうがいい。
食器を洗うのは私の役目。生活費の全般は夫が出している。私の帽子づくりは生地を買ったり糸を仕入れたりで自転車操業。
私と義治さんでは生活は成り立たないだろう。貧乏劇団員と趣味程度に帽子を作る女。無理だ。
自室に入り、ミシンに向かう。夫が会社から帰る前にやったらいいのだろうけれど、いかんせん一人だと調子が乗らない。壁を隔ててでも夫がいてくれるとほっとする。私は作業に没頭しすぎるのだ。一時間が二分程度に感じることがある。結婚をする前、一人で暮らしていた。会社員として働きながら、趣味で帽子を作っていた。そのとき、私の部屋に私ではない人がいた。真横に来るまでその存在に気づかなかった。泥棒だった。
人生で初めて、自分でもびっくりするほどの大声を出した。泥棒は何も取らずに出ていって、それでも窓を割られた部屋にはいられず、付き合いたてだった弦くんの部屋でしばらく暮らした。心配性の夫はすぐに結婚を決めた。
夫は夫で自分の部屋でなにかしているようだ。静かだけれど、音楽がかかっている。もう少しボリュームを下げてほしい。洋楽って、英語の意味を頭の中で考えてしまう。
『君が回って踊る。まるで花だ。そう、美しい花』
夫も義治さんも私に甘い言葉を囁かない。
「波子、いらない糸ちょうだい」
ノックもしないで入ってくる夫を無礼だとは思わない。
「ルアー用?」
「毛バリ」
短い糸も夫が釣りに使う疑似餌などに再利用してくれる。
「これでいい?」
余った糸をクルクル巻きつけた紙を幾つか手のひらに広げる。
「これキラキラしていていいな。刺繍糸? 高いやつ?」
夫は黄色の糸を手に取った。
「少しだから。これもどうぞ」
「サンキュー」
そもそも、それを買えているのは弦くんのおかげです。
夫のことは、愛している。そうでなければ一緒に暮らしていない。寝るときは音楽を消してね。あなたはつけっぱなしでも眠れる人だけど私は違うから。壁を隔てていても無理なの。私たちは寝るのも別々だ。
夫の唯一嫌いなところは牛乳パックの向き。どうして開け口を手前にして冷蔵庫に置くのだろう。いっぱい入っていたら零れてしまう。
何度か注意した。でも直らなかった。夫にとってはどうでもいいことなのだ。だから私も気にしないようにした。零れたら拭けばいい。それに最近は蓋つきのパックもある。割高だが。
ケンカをしなくなって久しい。
朝も私のほうが遅く寝ていてもワイシャツにアイロンがかかっていれば怒らない。
「波子、まだ寝てるのか? もう行くぞ」
こんなときだけベッドに入り込んでキスをする。
「はい、いってらっしゃい」
寝ている人間を起こさなくてもいいのにと毎朝思う。
「朝食作ってあるから」
「ありがとう」
腕枕は好き。人と寝ると温かいことも知っている。それでも私たちは別々が好き。
「じゃあな」
見送らなくても叱らない。弦くんが横になっていたところがほんのり温かい。そのぬくもりを撫でるのが愛の証拠ならいいのに。本当にいい人と結婚できたと思う。
それなのに、私は不倫をしている。
最初のコメントを投稿しよう!