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夫が出張に行く日は笑っていた。義治さんの家に初めて泊まることになっていて、ウキウキしていた。珊瑚色のかわらしい下着まで新調して、浮足立っていたから義治さんちのキッチンでカレーを焦がしてしまった。
「火加減がうちのと違って」
なんて言い訳だ。恋愛ではなく不倫なんだから楽しんでばかりいてはいけない。
「すごくおいしいよ。いつもレトルトだから」
あなたのその顔が私の自責の念を吹き飛ばしてしまう。
義治さんの家にいて、あたなもいて、共にこの空気を吸うだけで幸せです。貧乏なのに本だけはたくさんあって、ほとんどが芝居とか戯曲関連のもの。辞書みたいのもある。値打ちはないのかな。売ってしまったらいいのにと思う私は頭が貧相なのだろう。
「映画のDVDを知り合いから借りてきたよ。波ちゃんの好きそうなやつ。食べ終わったら見よう」
「うん」
私の好みを知っているのだろうか。知り合ってまだ一年足らず。疑っていたら開始10分で号泣。わかり合える人っている。
映画よりもセックスがしたかったのに、本当に私のほうが見入ってしまった。寡黙な女の子が音楽を通して人とつながってゆく成功もので、最後はやっぱり金とクスリでおかしくなるありふれた話。せつない音楽がどんどん厚くなる。あつかましくなる。そして、愛した男は自分よりもお金が好きみたい。
あれ? これって私たちのことじゃないよねと聞こうとして視線を落とすと義治さんはもう寝ていた。同じ布団で眠っている。枕も布団も義治さんの匂いがする。義治さんの吐いた息が頬にかかってくすぐったい。
どうしておじさんて臭いのだろう。でも、大好きですよ。
潤いのない髪を撫でたり、長く伸びた鼻毛を鼻の奥に押し込めたり、忙しい夜だった。呼吸のたびにふぁっと出てくるのだ。映画が終わっても私は義治さんを見ていた。
今夜、地球が終わってしまったらいいのに。
夫の出張中に義治さんのバイトがないのはその夜だけで、朝方にセックスをして、一緒に狭いお風呂に入った。正方形で、二人で同時に湯船につかるのは不可能だった。さっきまで私の中にいたそれがだらしなく縮んで泡に隠れる。凶器みたいだったそれがまた欲しくなる。義治さんの年齢を考えたらおねだりはできない。ところどころに毛の生えた背中を洗ってあげるだけ。
そこそこ距離があるのにジョギングがてら自分の足で稽古場へ向かう義治さんと駅で別れた。
ホームで電車を二本見送った。意味はない。寂しかったの。足りないの。失礼だと思ってお金をあげたことはなかったけど、もしそうしたらばもっと一緒にいられるのだろうか。
女性を感じるものは部屋になかった。私でよかったのだろうか。もっと義治さんを愛している人もいるに違いない。
夫が帰ってくるまで暇だった。私には時間があるが義治さんにはない。かと言って、夫が戻るのを指折り数えるでもなく、家で帽子ではなくチーズケーキを作って時間を潰す。
「ただいま」
「おかえり」
不思議なのは夫に罪悪感もなければ嫌悪感もないこと。普通、義治さんに溺れたなら夫を嫌いになったり、この人がいなければもっと彼と過ごせるのにと勝手に呪うはず。
「はい、おみやげ。波子と波子の実家の分ね」
夫は人間ができている。
「ありがとう」
開封しながら手が止まる。なぜ沖縄土産のもずくが外国産なの?
今時、これくらいのものネットか物産館などで買える。デパートの沖縄展かもしれない。だとしたら、この数日どこにいたの? あなたも浮気? だったら、嬉しいような、寂しいような。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、夕飯を食べた。
夫はいつも出張から戻ると写真をスライドショーで見せてくれるのに、大きな封筒を食卓に置く。
水色で、嫌な感じがした。
「見てごらん」
そんな口ぶり、したことないじゃない。
少し前の私と義治さんの逢瀬の写真、食事の支払いを私が行ったことまで記されていた。夫が沖縄に行っているときのお泊りが決定的なのだろう。
バレないようにしていた。でもバレてしまった。離婚の二文字が頭をよぎる。
夫は飄々としていた。
「その人と別れてよ」
の一言だけ。責めないのね。
「嫌よ」
私は答えた。
「じゃあ離婚」
「それも嫌」
「波子はどうしたいの?」
夫が聞く。
「ポリアモニーって知ってる?」
「は?」
「弦くんだってちんすこうもチーズケーキも好きでしょう?」
その両方を食べる夫に言ったら手が止まった。
「俺は許せないよ」
結婚して初めての、最悪の夕飯だった。本当に怒ってしまったようで、その晩はなにも話してくれない。翌朝の朝食もなし。当然、キスも。
怒りたいのは私のほう。疑っていたってことでしょ? そうでなければ興信所に頼んだりしない。その片鱗をちっとも見せないで、いきなり結果を押しつけるだけ。
不倫が悪いのは風潮じゃなくても知っている。でも好きになってしまったの。
結婚指輪が重い。外してしまったら生きられない。義治さんからも捨てられるだろう。お金がない私には価値がない。
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