新学期

4/14
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/114ページ
 小山は1年生たちを2つのグループに分けて、三喜雄に託した6人のうち2人はバスだろうと言った。3部合唱の曲では、バスとバリトンにパートが分かれるので、少人数でアンサンブルをするメンタルの訓練も必要である。  三喜雄はバスバリトンの1年生たちを座らせて、小山から渡された楽譜のコピーを配った。 「この中でちょっとでも楽譜読めるって人いますか? ピアノやってたとか」  三喜雄の問いかけに、バリトンの子がそっと手を挙げた。1人だけとはなかなか厳しいと胸の内で苦笑しつつ、三喜雄は皆に楽譜を見るよう促す。 「まずみんなには、左のト音記号だけでなく、右のヘ音記号の楽譜の読み方にも慣れてもらわないといけません、バリトンとバスの楽譜は基本的にヘ音記号で書かれてます……簡単に言えばヘ音記号のラがト音記号のドね、譜読みはゆっくりやるので各自復習をしてください」  また、練習を始めてからパートの変更があり得ることも伝えた。三喜雄自身も、1年生の夏休みにテノールからバリトンに変わったことを、経験として話す。 「主旋律があまり歌えなくなって最初嫌だったけど、楽に良い声が出るようになったので……もし歌ううちに、低過ぎて辛いとか出てきたら、迷わず言ってください」  1年生は不安げな表情を少しずつ和らげ始め、3年生でパートリーダーである三喜雄に憧れ混じりの視線を送ってくる。かつて自分もそうだったので、彼らの気持ちはよくわかった。入学したばかりの1年生にとっては、3年生は大先輩で、頼るべき大人なのだ。  1年生の尊敬や憧憬の視線を浴びるのは圧倒的に快感だったが、三喜雄はそれがこの場でしか得られない、極めて限定的な泡沫であることを知っていた。今日の部活は新入部員のためのオリエンテーションみたいなものなので、早く終わるだろう。この後ほとんどの2、3年生はパンを齧りながら塾へ直行し、三喜雄は先生に心をへし折られるべく、声楽のレッスンに行く予定である。  先生には、パートリーダーとして新入生の前でドヤ顔で語ったなどとは話せない。三喜雄は発声の訓練を始めたばかりの初心者で、コールユーブンゲンやコンコーネ50番の前半しかまともに初見視唱できないという、まだまだ歌い手とは呼べない代物なのだった。
/114ページ

最初のコメントを投稿しよう!