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新学期
◇4月◇
三喜雄は音楽室から洩れて来るピアノの音に耳を澄ませた。
グリークラブの部員ではないだろう。顧問である小山が弾いているのかと思ったが、いつも部活の時間の途中からしか来ない彼ではなさそうな気がする。三喜雄はそっと音楽室の引き戸を開けた。
グランドピアノの前に座っていたのは、見たことのない生徒だった。窓から入る春の柔らかい光に、黒い髪がつやつやして、白い肌が透けていた。目鼻立ちが整っているのは、ぱっと見てすぐにわかった。こんなきれいな奴いたかな、この学校に。
彼は形の良い唇に微笑を湛えて、緩やかでシンプルな和音の、しかし美しい曲を奏でていた。それにしても柔らかいタッチだ。同じピアノを弾いているのに、グリーの伴奏者たちや小山と比べて、上品な音のように思えた。
彼は三喜雄に気づいて、手を止めた。そして、あ、すみません、と言った。高くもなく低くもない、耳に心地良い声だった。
「開いていたので勝手に入りました、ごめんなさい」
彼は立ち上がって、やけに潔く三喜雄に頭を下げた。別に罪に問われるようなことでもない。いいよ、と三喜雄は答えたが、彼の大きな目に見つめられると、何故か少しどぎまぎした。
「えっと……何弾いてたの? 今……」
三喜雄は尋ねた。彼はきれいな形の眉を少し上げて、フォーレのリディアです、と答えた。
「……フォーレ? ピアノ曲?」
「いいえ、声楽曲です」
「伴奏を弾いてたってこと?」
三喜雄は自分の質問がくどいと思ったが、美しい彼は迷惑そうな顔もせず、はい、と答えた。
「……グリーで伴奏しない? めちゃ弾けるっぽいし」
「ありがとうございます、でも僕美術部なんです」
とっさに出た三喜雄の誘いに対し、彼は少し首を傾けて応える。何だ、惜しいな。三喜雄は自分の予想した以上にがっかりする。
「……2年?」
「はい、2Bの高崎といいます」
文系の特進か。確かに賢そうな顔をしていると思う。その時、音楽室にグリークラブの2年生が3人入って来た。
「おはようございまーす」
「あれっ、高崎何してんの?」
2年生たちは一様に驚いた顔をしており、それが少し可笑しかった。
「ピアノ借りてた、……じゃ僕も美術室行きます、失礼しました」
高崎は言うと、三喜雄に会釈して音楽室を出て行った。美術室は同じ階の反対側の隅である。
「……あいつってどういう奴なの?」
三喜雄は後輩たちに訊いた。凄い奴ですよ、と彼らは口を揃える。
「B組で成績は常にベスト3、美術部でも1年の時に展示会で賞を貰ってるらしいです」
「でも高崎がピアノ弾けるって俺初めて知りました」
「うん、僕も」
きれいな顔で、頭が良くて、ピアノも弾けて、絵も上手い。そんな奴ほんとにいるんだなと、三喜雄は感心する。
そんな会話が交わされるうちに、グリークラブの部員がわらわらと集まってくる。高崎がフォーレを弾いていた時は静謐だった音楽室の空気が、一気に掻き乱された。
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