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act.5 たぬきがこけた
修羅場だった。
デビューして20年、とにかく締切だけは守ってきた俺の初めての修羅場。
デスクには過ぎた嵐の激しさを表すように、ゼリー飲料のゴミ、倒れたデッサン人形、丸まったティッシュ、謎のネジ、メジャー、軟膏等々、漫画に関係あるものないもの雑多に散乱しているが、肝心なものはない。
あのペンだ。
真面目といえば聞こえがいいが、実際ただの小心者で、自分ごとき下手糞はせめて期日は守ろうと20年頑張ってきた俺が、あのペンを無くしただけで締切当日の朝3時まで何も思い浮かばないポンコツになってしまった。
何とか穴を空けずに済んだのは、担当編集の根岸さんとアシスタントの若ちゃんが奮闘してくれたおかげである。
俺が相棒のペンがないことに気がついたのは一カ月前。
螺鈿模様のそのペンは漫画家を夢見た小学生の時に買ったもので、作画をデジタルにした現在もプロットだけはずっとそれで描いてきた。
というか、初めて知ったけどあれじゃないと俺は描けない。
「先生、良かったら」と根岸さんも若ちゃんも新しいペンをくれたけど全然ダメ。
デビュー以来、波はあるもののアイディアが詰まることなんてなかったのに、何時間粘っても夏空のようにスコンとした空白ばかりが頭に浮かぶ。
ガキの頃、螺鈿の虹色がまるで魔法のアイテムみたいだと思ったあのペンを無くした俺はマジで魔法が解けたようにつまんないオッサンになってしまったのである。
もはや根岸さんと若ちゃんには頭が上がらない。
「全然できません」と泣きつく俺を、根岸さんは根気強く励まし、各所に交渉してリアルなデッドラインまで締切を引き延ばしてくれた。
若ちゃんも、半狂乱になってペンを探す俺に「先生、たぬきがこけたって言いながら探すといいそうですよ」とスマホで見つけたおまじないを教えてくれた。「百回たぬきがこけても見つからなかったら諦めて仕事しましょうね」と釘も刺して。
「これだけ探しても見つからないんだから、あのペンはきっと自分の意思で身を引いたんです。ほら象とかそうでしょ。しかるべき時がきたら自ら群れを離れるって」
「あのペンは天寿をまっとうしたんです。約30年使い続けたんでしょ?本望ですよ、ペンも」
「仕事しましょう。ペンのためにも。ペンへの感謝と餞を込めて、良い作品、これからも作っていきましょうよ」
二人に口々にそう言われ、何とか乗り切った俺の修羅場。
今、俺はひとりである。
ひとりでいるとわかる。修羅場は乗り切ったけど、やっぱりペンがない空虚は全然乗り越えてない。
「たぬきがこけた」
百一回目を呟きながら、もう何度も見たカバンや棚を漁る。だってあのペンがなきゃ、どうしても俺はダメだから。
「たぬきがこけた、たぬきがこけた」
俺が俺であるために、たぬきくらい、何度でも転がしてやる。
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