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act.4 人魚ヵ淵
たぬきが化けるというのは本当である。
少なくとも、この仙波の山では。
仔だぬきの頃から修練を重ね、小さな額に葉っぱを乗せてドロンと回れば一丁あがり。
仙波のたぬきはヒトとなり、気まぐれに里に降りては悪さをする。
とはいえ畜生の浅知恵では大それたことはできない。せいぜい軒の洗濯物から靴下を片方隠したり、図書館の本をでたらめに並べたり。
なぜそんなことをするのか。
たぬきだからとしかいえない。
人間がカラオケやボウリングに興じるように「ちょっとヒトる?」という具合に、化けてのイタズラはたぬきの娯楽なのだった。
ある日、仙波山の清流で喉を潤していたたぬきは水面に美しくも不思議な反射を見つけた。
赤茶けた前足でひっかくと、果たしてそれは鱗である。角度によって虹色にかわるそれはブナの葉のように大きい。
すわ川の主のものかと見渡せば、上流から一枚、また一枚、と鱗は流れてくる。
好奇心にかられてたぬきは川を上る。するとそこにいたのは魚の下半身を川にあずけ、ヒトの上半身をぐたりと岩に横たえ、はらはらと涙を流す人魚であった。
「助けてください」
たぬきを見とめて人魚は声を上げる。
間一髪、たぬきはヒトに化けていた。ヒトに姿を見せないという畜生なりの矜持ゆえ。
たぬきの小さな脳では、上半分がヒトならばそれはヒトであり、人魚もヒトに見えている。
一方、人魚の方もまた現れたのは人間であると信じているらしかった。
「私はあなたのような人間に恋した人魚です。海で一目惚れした方に会いたい一心で泳ぐうち、ここから帰れなくなってしまいました。どうか助けてください」
この山奥に住む人間などいない。
よほど無計画で方向音痴な人魚である。
しかしたぬきにはそんなことわからない。ヒトの姿に化けはできても、人間の言葉も道理もたぬきにはわからないからだ。何もわからずとも、人魚の必死さはたぬきにも届いた。
「お願い、助けて。人間は優しい生き物でしょう。私を海に帰して。お願い、何とか言ってください」
たぬきは何も答えない。
目の前のヒトが必死であればあるほど、答える知恵のない自分がとても悲しかった。
お願い、お願い、と繰り返す人魚。たぬきは踵を返すと、片手いっぱいに黄色い花を摘んで戻り、人魚に差し出した。
「え……?」
動揺する人魚にたぬきは微笑む。
なぜかそんな気がしたのだ。こういうとき、ヒトはこうすると。こうしたら、ヒトはきっと笑ってくれるはずだと。
戸惑い、不審げに見上げる人魚にたぬきはもう一度微笑む。
たぬきと人魚、おずおずと伸ばしあった手がわずかに触れ合った。
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