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草木も眠るような深い夜、マージはおもむろに目を覚ました。
歳のせいだろうか、この頃はこういうことがよくある。疲れているのに、朝までぐっすり眠れない。そういう時の常で、目を閉じたままマージは注意深く呼吸を整える。うっかり目を開けると余計に眠りが遠のいてしまうから。
明日もまた忙しい。鶏の世話に羊の世話。麦や野菜の畑仕事。どれもこれも自分が暮らしていく分のささやかなものだが、一人でこなすには骨が折れる。
眠るのだ。このまま、自分が目覚めたことに気がつかないかのように。
そう思うのだが、いつになく頭が冴えてきてしまい、諦めたマージは目を開ける。
仕方がない。こんなときは却って起きてしまった方がいいのかもしれない。それに何だか妙な胸騒ぎもするのだ。
ランプを灯すまでもないと思い、星あかりを求めて窓を開ける。
外気に触れると胸騒ぎは一段、強くなる。
ここは海辺の土地だ。マージの小屋からは草原を挟んで高台の崖沿いに領主の屋敷を擁する小さな街がある。
裏手の小屋で家畜が騒いでいる。
草原を渡る海風に混ざるかすかな違和感。炎の匂いだ。遠く、街が燃えている。
慌てて外に出ると待ち構えていたように血塗れの男がマージの腕を掴んだ。
「おいクソババア、俺を助けろ」
ひゅっと息を飲むマージだったが、だてに女ひとりでこんな僻地に暮らしてはいない。腕に力を込め、すばやく相手を観察する。
男は満身創痍だった。全身を濡らす血は返り血もあるが、大半が本人のものらしい。
眼光は鋭いもののまだ歳若い。少年からはみ出したばかりの未熟な喉が苦しげに上下している。
夜目にも目立つ鮮やかな赤毛はマージにも見覚えがあった。
「お前、ピクシーだね」
街で聞きかじった通り名を呼ぶと、男は苦しげに鼻を鳴らした。
「だから何だ。助けろ、死にそうなんだ」
「そのようだね」
マージが勢いよく腕を振り払うと反動で男はよろけ、そのまま尻餅をついた。
「何しやがる、クソババア」
「街が燃えている。何があった」
マージは男を見下ろす。
ピクシーと呼ばれるこの少年は街でも有名な悪童だった。
ろくでなしの両親のもとに生まれ、物事の良し悪しを知らない。腹が空けばパンを盗み、気に入らない相手がいれば殴りつける。
その暴れぶりはここでひとり暮らすマージの耳にさえ届くほどだ。
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