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――僕は君にこれからもよろしくと言いたかった。
少し寝癖の付いた髪を整え、汗の匂いが少し残るスーツを着る。
そして僕は今日もいつも通り玄関の前に飾られている彼女の写真を見て「行ってきます」と言った後に、会社に向かう。
特に隠す必要もないから、僕と彼女の関係を明かしたい。僕と彼女は本当はもう少しで結婚する――いや、彼女がいなくなった1日後に婚約届けを彼女の生まれた街で出す予定だった。
でも、婚姻届けを出す前日の夕方、彼女のお母さんから一本の電話が来た。それは突然だった。
『ごめんなさい瀬里菜は、あなたと結婚できなくなってしまったの。瀬里菜はもう……、もう…………』
電話で瀬里菜のお母さんは話しているはずなのに、ここまで涙が垂れてきたような気がした。僕はこの声からすぐに何が起きているのかそんなの思いたくもなかったけれど悟った――彼女が何かしらの事故か事件にでもあってもうこの世からいなくなってしまったとこを。なぜか分からにけど一瞬にして消えてしまったことを。
まだそれから7日しかっていないのか。瀬里菜の家族から葬儀の話とかは聞いていない。たぶんまだ信じたくない気持ちが勝ってそういうものをやることに一歩を踏み出せないでいるんだろう。僕も信じたくないし、嘘であってほしい。なかったことにしてほしい。
でも、僕は今、現実にいる。だから自分の役目でもある会社に向かう。そこで少しでも自分の力が役に立つのだとしたら。瀬里菜もきっとそう望んでるんじゃないだろうか。
「お、久しぶりだな。んー、1週間ぶりぐらい?」
「あー、たぶんそれぐらいじゃないかな。久しぶり」
昼の休憩にトイレに行ったときに、部署は違うが色々と共通点があり仲良くなった同僚とふと会った。僕の心は沈んでいるので、彼が声を掛けてくれるまで全くと言っていいほど彼の姿に気づかなかった。
「どうだ、瀬里菜ちゃんとは? 婚姻届出したんだろー。なんかお祝いのついでに昼、奢ってやるよ」
彼は僕と肩を組んできた。ずっしりと重い。僕の心があんな状況であるし、ラインは交換しているが今日久しぶりに会ったので、まだ彼に瀬里菜の状況は伝えていない。僕らのことをすごく応援してくれたし、余計に言いづらい。
「いや、いいよそこまで……」
「いや、奢るよー。臨時収入も入ったしー、おめでたいしー」
今の僕の力では到底かなうこともなく、彼に負け、ためらいながらも彼について行くことにした。
彼が連れてきてくれたのはパンケーキが美味しいと有名な近くの喫茶店だった。店内に入った瞬間、瞳に輝いた光が映る。僕らが着ているスーツが全く似合わないんじゃないかと思えるぐらいに店内はおしゃれだ。この世界にあるどんなものを使ったらこういう空間が作れるんだろうか。
「お客様、何名様でございましょうか?」
「あ、2名です」
彼がピースで2名ということを示すと、店員さんは2名様ご来店ですと店内に優しく広がるように言った後、僕らを窓側の席に案内した。
「なんでここ?」
彼は本来こういうところにこないし、失礼だがこういうところは彼には似合わない。僕はシワを寄せながら彼に聞く。
「だって瀬里菜ちゃんとよくここにデート来たって話してくれたじゃん」
彼に全く悪気はないということは分かってはいるが、どうしても瀬里菜という言葉が胸の奥深くに刺さってしまう。たしかによく来たけど……。
彼はおしぼりで手を軽く拭いた後、メニュー表を見始めた。僕も、もう1つあったメニュー表を開く。僕が彼女と来たときと全く変わりない料理が並んでいる。
「んー、なんか悩むなー。どれも美味しそうだな」
「まあ、全部は食べたことないけど、どれも美味しいよ」
「じゃあ俺は……キャラメルバナナにしようかな」
メニューを見始めてすぐに、彼は自分の食べたいものを見つける。彼はこういう決め事について早い。だから僕と心だけを入れ替えたのなら、もう瀬里菜がいないことは現実なのだから受け止めるしかない。そうだから瀬里菜の分まで楽しんで充実した人生を送ることが、自分にとって義務なんだとでも思えるんだろう。
それに比べて僕は――
そういえば彼が頼んだキャラメルバナナのパンケーキは僕がよく頼んでいたものだ。僕は何にすればいいのか少しの間悩んだが、瀬里菜がよく食べていたブルーベリークリームチーズのパンケーキを結局注文することにした。これを注文することで彼女のことを余計思い出してしまうけれども瀬里菜との思い出の味を忘れるほうが怖いと思った。
「おー、これがこのカフェのパンケーキかー。輝いてるなー」
「うん、見た目もいいけど、味も美味しいよ」
比較的店も空いていたためか、僕らの注文したパンケーキはすぐに来た。彼は珍しい絵画を見たときのようにパンケーキに興味津々で何枚も写真に撮っていた。
「そんなに撮るの?」
「いや、いいじゃん。俺こういうの初めてなんだから……! あとでSNSにでもあげとこうと……」
「じゃあ僕も――」
僕も食べる前に1枚だけ写真を撮る。たった1枚だけ撮った理由は自分でもわからない。でも、なんかしら僕の体がそういう命令を出したんだろう。僕はふいに瀬里菜のラインを見る。
『明日はついに婚姻届を出す日だね! 僕は君みたいな人といられて周りの人にずるいって思われるぐらい僕は幸せだよ! 明日、1つ言葉を言いたいな』
これが既読のつかなかったラインだ。僕の送った最後のラインだった。明日一つ言葉を言いたい――それが『これからもよろしくね』だった。でも、言うことはできなかった。伝わるときに言っておけばよかったという後悔もあるけれど、そういう後悔は僕を更に締め付けるのでしたくない。僕は言いたかった――。そんな一言すら現実というものは簡単に言えなくさせてしまうのだろうか。
「何見てるの?」
「いや、なんでもない……」
「そうか、じゃあいただきます」
「いただきます」
いつの間にか自分ひとりの世界になっていたようだ。いや、僕と見えない彼女だけの世界に入っていたようだ。僕は慌てて自分を現実世界に引き戻す。
「おー、ほんとうだ美味しい!」
「だろ」
「うん、ほんとにうまい!」
僕も一口目をいただく。このパンケーキは彼女とシェアしたときに少し食べたけど、やっぱり心を包み込んでくれる。なんか食べるのってこんなに大切なことなんだなって思わせてくれる。
「ちなみにさ、今更だけど瀬里菜ちゃんのどういうところが好きになったの?」
いつの間にかもうかなり食べ進めていた彼がふいに僕に質問を投げてくる。彼女のいいところなんてたくさんあるし、たぶんこの世にある言葉では表せないようなこともいくつもあるんじゃないだろうか。そして僕にしか分からないような彼女のいいところも。
「僕が一番好きな部分は――僕が自分らしさを忘れたときも彼女がいると自分らしさを取り戻させてくれるところかな」
僕はその言葉の後に1つ例をあげた。これは大学2年生の時だ。僕がある作業を瀬里菜さんもいたグループでやっている時、作業順番を間違えてもう一度最初からやり直しなってしまった。グループの皆は優しかったので、特別僕を非難したり起こったりすることはなかったが、僕はこの一件でかなり自信を失ってしまった。
その日の夜、彼女から明日来てほしいというラインが来て、翌日言われた場所に行くと彼女はこう言ってくれた。
『君のさ、いいところはいっぱいあるんだから、小さな失敗で落ち込んでたら君のいいところ、出せないじゃん。小さなことで落ち込む時間があったら私に君の力で楽しくしてよ。自分の良さを出せないことも失敗の一つだよ』
僕はこの言葉に動かされた。この言葉がきっかけで僕は彼女に好意をいだきくようになった。付き合ってからも僕は何度も何度も彼女にこういう言葉をかけてもらった。そして結婚にまでいたろうとしたのだ。こんなにも僕のことを見てくれる人は今までいなかった。なんでこんなにも彼女は自然みたいに素敵な人なんだろう。でも、自然みたいに消えてしまうのだろう。どうしてなんだろう……。
「おー。お前らしいな」
「そうかもね。僕は逢えてよかった。運命の糸とかはわからないけど、何かの強い僕の意志が繋いでくれたある意味プレゼントみたいなものだと思う」
「思うじゃなくて、そうなんだよ。こういうのって何かあるんだよ」
「そうなのか……」
「うん」
彼は大きくうなずく。僕らが出逢ったのはただの運命なんかじゃない。そんな簡単な仕組みでなんてできていない。何かの力が複雑に絡まりあって僕らを出逢わせた。
「俺も瀬里菜ちゃんと仕事で少しだけ関わった事があるけど、瀬里菜ちゃん慣れない仕事にも頑張ってくれてたし、俺のことすごく気にかけてくれたし、お前は本当にいい人と出逢っちゃたんだなってその瞬間思たんだよね」
「……」
「瀬里菜ちゃんがさ、一つ言ってたことがあるんだよ。もし、私たちが結婚したときに旦那さんに言ってほしいって」
「えっ……?」
僕は急に背筋が伸びる、瀬里菜が何かを伝えて欲しいと彼に言った……? そして、未来の旦那さんに言って欲しいって……。何かが頭の中を巡る。血液とかそういうものではない。なにか、が……。
「『未来の旦那さんは、たぶん自分から恋をしたんだって思ってると思うけど、本当は私から恋をしたんだよ』そう伝えてほしいって言ってた」
――未来の旦那さんは、たぶん自分から恋をしたんだって思ってると思うけど、本当は私から恋をしたんだよ。
その言葉が僕の心の扉を開ける。僕が初めに好意を伝えた。でも、その前から瀬里菜が僕に好意を持ってくれていた……? 人の心は見えない。本当にそうなのかはわからない。でも、誰かに託した言葉……。
「そして、『これからもずっとよろしく』だって……」
――これからもずっとよろしく。
それは、僕が言いたかった言葉。
言えなかった言葉。
最後に言わせてもらえなかった言葉。
届けたかった言葉。
僕が彼女に一番贈りたかった言葉。
でも、ずるい。
言わせて。
これからも一緒にいたいんだよ。
僕らは夫婦になるんだから。いや、もうどこかでなってるんだから。
なにか、どうやれば僕の気持ちは、届くんだろう。
僕はなんで言えなかったんだろう。
少しだけ、悲しみを表す液体が瞳から出てきた。なんで泣いてるんだろう。こんなところで僕は泣いてるんだろう。
わけわかんないよ……。
僕って人は……。
こんなんじゃ僕の人生終われないよ……。
一生消えない傷ができちゃったっじゃん……。
するいよ……。
*
あの後、僕は今日は早めに仕事を早退させてもらった。彼はどうしたのかと問いかけてくることもなく、逆に『大丈夫か、何かあったら言えよ』と優しい言葉を書けてくれた。
過去を変えたい。一度だけでもいいから過去に戻りたいってこういうときなんだろうか。でも、僕にはそんな力を使うことはできない。ただの人間なんだから。
家に帰っても何もすることはできなかった。ただぼっと時間が進むのを感じることなく、そのまま寝転んでいるだけだった。夜の7時を過ぎたが、特に今日はお腹が空くことなんてなかった。むしろなにもかもしたくない。 この世界が無であって欲しい。
今更だけど気付いた。瀬里菜の存在の大きさに。瀬里菜がいないと僕はこんな風になってしまうのか。 何もできないただの人間になってしまうのか。瀬里菜がいることで僕の人生は大きな道を作ることができているのか。なんで失ってしまったんだろう。どうして僕はこの世界に一人だけになってしまったんだろう。
何をやっても時間が経たない。スマホを見ていても。
そういえば昼も見たけれど瀬里菜に届かないはずのラインを送ったなと思い、既読なんてつくはずないけどまたなぜだか開いてしまった。
『既読』
僕が送った最後の――『明日はついに婚姻届を出す日だね! 僕は君みたいな人といられて周りの人にずるいって思われるぐらい幸せだよ! 明日1つ言葉をいいたいな』その言葉に。
もしかしたら彼女の家族が見たのかもしれない。生きていないはずの瀬里菜が見るわけない。でも、誰がこのメッセージを見てくれたんだろうか。もし、彼女の家族なら瀬里菜にこのことを伝えてくれるだろうか。それなら届いたんじゃないだろうか。
『ピーンポーン』
何ヶ月かぶりに家のインターフォンがなる。何かいつもとは音が違う。何かが僕を導く――そんな感じがした。
すぐに玄関に向かう。玄関で急いで靴をかかとを踏んだ状態で履く。そして、ドアノブに手を当てる。いつもよりもいくらか固い。
ゆっくりとそのドアをまるでどこか遠くの世界に繋がっているかのようなそんな期待を込めながら右に回した。
――カチャ。
そこには誰かがいた。それは見たこともない人だった。僕と同じぐらいの女の人。何かを……どこかを……。
「私、誰だか分かる?」
その声が懐かしい。見たこともない人なのに、無性に懐かしい。その声と、そのほのかに香る匂いが答えを教えている。
「せ、り、な」
僕は一音一音丁寧に発音していく。君の大切な美しい名前だから。失いたくない名前だから。ずっと残しておきたい名前だから。
「正解」
やさしい声で瀬里菜はそう言う。
でも、その眼の前に居る瀬里菜はいつもの瀬里菜ではない。いくつも包帯や大きな絆創膏を顔も含め体の色々なところ貼られており、顔を半分ぐらいしか確認できない。痛々そうな姿。いや、本人はとても痛いはず。でも、そんなのを感じさせないようなにっこりとした顔。これが本物の瀬里菜なのかはまだわからない。ここは夢の世界なのかもしれない。
「どうしたの……?」
「あれ? 私のお母さんから聞いてなかった?」
「あ、お母さんから『ごめんなさい瀬里菜は、あなたと結婚できなくなってしまったの。瀬里菜はもう……、もう……』って言われた。だから――」
僕は確かに瀬里菜のお母さんにそう言われた。だから僕はもう瀬里菜は――と思っていた。
「えっ、そうなの? それはお母さん、流石に大げさだな。私は、事故にあって……。まあ、私が前からの車に気をつけてなかったのが悪いんだけど……」
瀬里菜は少し私って馬鹿だよねーと言うかのように一瞬笑った。でも、そんなことよりも――
「じゃあ、君は、今ここにいるの?」
「うん、もちろん」
瀬里菜はうなずいた。瀬里菜は今ここの世界にいる。間違いなくここの世界にいる。離さなくてもいいこの世界にいる。
瀬里菜は包帯が巻かれている手を僕の方に差し出してきた。だから僕は本当にそっとだけ手を握った。不思議な感覚だった。今まで体験したことのない感覚。
「でも、ごめん。今日はお別れを言いに来た」
瀬里菜の声の口調はさっきと全く変わりないのに、全然違うように聞こえてしまった。お別れって……。もちろんお別れの意味は分かる。でも、分からない。その別れるが。
「どうして、考え直して僕のことが――」
「いや――」
僕が最後まで言う前に瀬里菜が少し強めの口調で僕の言葉を跳ね返す。
「そんなことは絶対ない。だって、もう聞いてるかもしれないけど私から恋をしたんだもん」
「じゃあなんで――」
少し安心したと同時に、僕の頭の中でよくわからない感情が混じり合う。なんでという疑問もそこには含まれている。
「だって、こんな事故にあっただらしない私がいたら、君をだめにしちゃうしから。それに、私、前みたいな姿じゃないよ。前の姿が君は好きなんでしょ? この傷、治らないかもしれないものも多いって言われたんだよ」
瀬里菜――
その言葉に僕は反論以外思いつかない。その間違いだらけの言葉に。なんで瀬里菜は頭がいいのに、しっかりものなのにそんなに間違いだらけの言葉をいうんだろう。
「なんだよ。そんな理由かよ」
「えっ……」
瀬里菜は少しだけ驚いたような顔をする。でも、僕は構わず続ける。
「君をだめにしちゃうんなんて、そんなことはない。むしろ瀬里菜がいない方が僕をだめにする。そのことをさっき分かった。瀬里菜の力は僕の思っている以上だったってことを……。それにさ、今よりも確かに前のほうが可愛いい姿かもしれない。でも、変わってないじゃん。瀬里菜の心は。だからそれは間違ってるよ」
なんで言葉がこんなにも出てくるんだろう。いつもならきっとつまってしまうはずなのに。でも、今日は言いたいことが水の流れように出てくる。
「だから――僕と、明日、婚姻届を出してください」
僕は今までで一番瀬里菜の顔を見て言う。顔を見ただけじゃ瀬里菜が何を考えているのかは分からない。でも、きっと――
「……うん。私でも構わないのなら。私は君と夫婦になりたいです」
瀬里菜の言葉に僕は何を感じたんだろう。分からない。自分でも分からない。だけど、そういう気持ちなら――
「僕こそ、こんな僕で構わないのなら」
こんなだめな僕でも構わいのなら僕は君のそばにいたい。
「うん。もちろん」
一度は途絶えかけた僕と瀬里菜が夫婦になるということを再び本当にした。2人の想いは繋がった。それに間違いなんてあるわけない。明日僕らは2人で市役所に婚姻届けを出しに行く。このまま僕らは夫婦になる。
「あとさ、もう一個言いたいことがあるんだった」
そういえばまだ僕は、瀬里菜にある言葉を言いたかったんだった。この言葉を言いかかったから。これからのためにも。僕らがともに人生を生きるために、言っておきたい1つのこと。これが言えればなんかが舞い降りてきそう。
僕は大きく息をすって言葉を全身から吹き込む。
「瀬里菜、これからもよろしく」
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