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1話 夫婦の元に宿った天使
── 子供が欲しい。
そんなささやかな願いは、容易に叶うと思っていた。
しかし、それは簡単ではなかったと夫婦は思い知る。
何故なら十年間、不妊治療に励んできたからだ。
もしかして? と喜んでは、期待した通りにならず泣き。
次こそは、と意気込んで泣き。
意識しないように努めても、結局意識をしてしまって泣き。
休んだら逆に授かるかも? と、結局意識をしてしまい泣き。
こうする間に気付けば十年。そんな不毛な日々を本日で、終わらせると決めていた。
1990年(平成2年)、四月中旬。日本列車の中央付近に存在する、滋賀県長浜市。
何よりの象徴は、県の1/6の面積を占めている琵琶湖だった。
そんな美しい湖付近に築数が幾度と経った古民家が集結しており、その一角に一組の夫婦が住んでいた。
「病院は……、いつだった?」
夫は仕事に行く為に玄関で靴べらを使用しながら、さも関心ないように問う。
本当は、本日だと知っているのだが。
「今日だよ。行ってくるね」
そう返事をする妻の口角は上がっているが、眉は下がり目に光はない。
その笑顔を、夫は何度となく見てきたことか。
「……電車で行けよ」
「分かってるよ」
その後に続く言葉はなくしばらくの沈黙後に妻より鞄を受け取った夫は、結局その後に続く言葉を見つけられずに出勤して行く。
本日は、前回受けた不妊治療の結果が分かる判定日。……つまり、懐妊に至っているか否かが分かる運命の日。
普通なら力が入るが、二人は期待などしていない。何度となく落胆を経験をした夫婦は、予防線をしっかり張っていた。
不妊治療の病院は遠い為、電車で行くようにしている。家には車があり妻は免許を保持しているが気持ちが沈むと危ないからと、不妊治療の病院には電車で行くと夫婦で決めていた。
玄関の引き戸を開けると目の前には琵琶湖が広がっており、今日の波も穏やか。
そんな中、黒の軽自動車で出勤する夫を送り出した妻は、庭先に出て外に備え付けられている水やり用のホースを手に取り、蛇口を捻る。
自身が庭で育てている色とりどりのチューリップ、紅いナデシコ、鮮やかな黄色や橙色のマリゴールドなどの園芸。にんじん、ほうれん草、トマト、かぼちゃなどの菜園に恵みの雨を降らせる。
すると草花たちは太陽の光に照らされてより美しく輝き、そんな姿に妻の表情は自然と朗らかになっていた。
「……私には、あなた達がいるものね……」
そう言い残し家に戻って行った妻は、身支度を済ませ徒歩十分先にある駅に向かい歩いて行く。
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