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こうして電車に揺られて一時間。目的地である大津市に着き改札を抜けると街並みはガラリと変わり、四車線の道路に人が行き交う交差点。
あちこちに佇む高層ビルの下を人の流れに乗って歩くこと十分。ビルの一角にて診察している、不妊治療専門クリニックに到着する。
いつものように受付を済ませて血液検査を受け、長い待ち時間を過ごす。精神的に一番辛い時だったが、ようやく今日で終わりを迎える。
──今日はお酒とケーキを買って帰ろう。十年間お疲れ様と互いを労おう。そしてこの先を二人でどう暮らしていくかを……。
「遠藤小春さん」
「あ、はい!」
若い女性看護師の声に小春は現実に戻り、診察室に向かう。
この待ち時間で子供のことを思い浮かべなかったのは初めてで、彼女は期待も何もしていなかった。
……考えはただ一つ。この先子供がいない人生を、どのように夫婦で生きていくか。
「こんにちは、お座り下さい」
「お願いします」
診察室には五十代の女性医師が座っており、今日も柔らかな笑顔をこちらに向けてくれる。
しかし一呼吸を置いた後にその表情は歪み、「残念ながら……」と懐妊には至っていないと告げられ、今後も治療を継続するかを問われる。
だが、そんなやり取りも今日で終わりで、今回で治療は終了すると事前に告げていた。
十年間共に闘ってくれた礼を告げ、笑顔で卒業する。それが夫婦で出した結論だった。
しかし──。
医師は表情を変えず、優しく微笑んだまま小春に語りかける。
「おめでとうございます。妊娠されてますよ!」
「……え?」
十年間、待ち望んだ言葉。
しかし小春の思考は追いつかず瞬きを忘れ、呼吸すら忘れ、ただ医師の潤んだ瞳をただ眺めていた。
「妊娠です。待望の赤ちゃんですよ!」
──信じられない……。十年待っても来てくれなかったのに?
その気持ちを言葉にして言い表せないが、心に沁みた途端、涙が頬を伝っていた。
「血液検査の結果です。陽性の判定が出ました。本当に良かったですね」
医師は声を弾ませ、検査結果の紙を指差し丁寧に説明してくれる。しかし大きく深呼吸をしたかと思えばいつもの声色に戻り、冷静な面持ちで一言添える。
「……ただ、あまり喜び過ぎないで下さいね。まだ分からない時期だからね……」
「あ、はい……」
小春は、涙をハンカチで拭きながら頷く。
そうだ。これで終わりではない。むしろ──。
「赤ちゃんを信じましょう。それで、この先のことですが 」
今後についての話を聞き、病院を後にする。
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