20 行きは良い良い、帰りは怖い

1/1

213人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ

20 行きは良い良い、帰りは怖い

 20 行きは良い良い、帰りは怖い    シガウスと話し終えると、外はいつの間にか陽が落ちて西の方に微かな残照が残るだけだった。話し込んで全然気が付いていなかったが、室内は魔石を使用したシャンデリアの柔らかな光に満たされている。  すっかり遅くなってしまったと内心で慌てていれば、タイミング良く外からは車輪の音と馬のいななきが聞こえてきた。 「……どうやらお迎えが来たようだな」 「え?」  窓の外を眺めていたシガウスがにやりと笑みを浮かべる。お迎えの意味が分からずにいれば、ややあってからリビングのドアがノックされた。シガウスが自らドアを開けに行けば、その向こうに居たのはレインだ。 「お父様、リアお兄様。ただいま戻りました」 「やあ、おかえりレイン。楽しかったかい?」  微笑ましい父娘の会話を繰り広げながら彼等は互いの頬にキスをし合う。海外では良くあるチークキスの挨拶だが、生粋の日本人である「俺」の感覚が強い今はなんだか気恥ずかしく思える。 「とっても! 工房の方にも親切にして頂きました。物を作るという事がこんなに楽しいなんて思いもしなかったわ」  にこにこしながら楽しそうに今日の報告をするレインを可愛らしく思う。シガウスも同じなんだろう。俺と話している時とは打って変わって柔らかな笑みを浮かべながらうんうんと鷹揚に彼女の報告を聞いて嬉しそうだ。  どうやらお気に召してもらえたらしい、とひっそり安堵していると外で馬車が遠ざかっていくような音がする。公爵家の方が誰か出掛けたんだろうか。  そう思っていれば、再びドアがノックされた。娘にデレデレのシガウスは聞こえていないのか、レインの話を聞く事に忙しそうだ。  致し方ないと立ち上がってそっとドアを開けば、急に腕を掴まれて部屋から引っ張り出された。同時に既視感のある熱いものに包まれて慌てて闖入者を見上げれば、見慣れた宵闇と夕焼けの色。 「フィン!?」 「遅いから迎えに来た」  驚いて声を上げる俺に対して甘い声で囁くとフィンが俺を抱き寄せてきた。一気に近くなる気配に思わず顔が熱くなる。香水でもつけているのか、今日はいつもにも増して良い匂いがして心臓が速くなった。  本当に、不意打ちはやめて欲しい。心臓が止まりそうだ。 「何もされなかったか?」 「普通に話をしただけだ。こら、やめろ」  話しながらも俺の頭にキスを落とすオルテガの顔に手を当てて押しやる。ふと見れば、父親と話していた筈のレインが此方を窺っていた。その緩み切った表情はなんだ、レインよ。俺達のやりとりを見たシガウスは楽しそうに笑みを浮かべるばかりで、余計に居た堪れない。なんでこう締まらないんだ! 「番犬が迎えに来た事だし、今日はお開きとしよう。楽しかったよ、リア。また是非話をしてくれ。今度はもっと楽しい話を」 「ええ、是非とも」  挑発するようにオルテガを見遣りながらシガウスが言う。彼が「リア」と俺の事を呼んだ瞬間、心無しか俺を抱き締める腕の力が強くなった気がした。  独占欲の片鱗を見て、何とも言えない気分になる。そうやって思われるのは悪い気はしないが、これは帰ったら怖いぞ……。今から何とか逃げられないかな、なんて遠い目をしてみる。  浮気したわけではないのに冷や汗が出る。腰を抱くオルテガの指先が若干体に食い込んでるのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃないなこれは。 「フィン、手が痛いんだが……」 「ん?」 「何でもない、デス」  見上げながら一応言ってみるが、返ってくるのは不自然なまでの満面の笑みだ。これはもう覚悟を決めておいた方が早いかもしれない。明日起き上がれますように、なんて祈りながら俺は大人しくオルテガの腕におさまるしかなかった。  軽く後ろを向きながら肩を震わせているからシガウスは笑っているらしい。アンタ笑い上戸かよ……! 後が怖いからオルテガを揶揄うのだけはやめて欲しい、頼むから! 「くく、本当にリアの近くは退屈知らずだな。暫く見られなくなりそうなのが残念だ」 「それじゃあ、お父様は……」 「私はそろそろ王都へ帰るよ。そうだな、明後日には出立するとしよう。やる事も出来たからね」  シガウスがこちらを見て意地悪く笑う。その視線に、またオルテガの腕の力が強くなる。あああ、今日の睡眠は諦めよう! そして、最低限のやる事をやったら明日は休みにする!! 「サーレ殿、楽しい時間を有難う。ご連絡を心待ちにしている」 「こちらこそ。レインの事を頼んだぞ」  荒れに荒れている本心を隠してにこやかに握手を交わした。ちょっとばかり強く握ってやろうかと思ったが、俺の握力じゃダメージにならないと諦めた。体力は少しでも温存しておかなければ……。  解散となり玄関へと向かう道すがら、俺はレインと話しながら歩いた。オルテガはシガウスと話しながら俺達より後ろを歩いている。何の話をしているのか気にはなったが、レインと話しながらな事と絶妙な距離があるので殆ど聞こえないのが残念だ。  レインは工房の方で香水作りを行なっていると楽しそうに話してくれた。オルテガがいつもに増して良い匂いがしたのは試作品をつけていたかららしい。悔しいがとても魅力的だ。 「材料も組み合わせも沢山あるのですね。初めの香りと後の香りで印象が変わるのも素敵だったわ。わたくし楽しくてたのしくて……すっかり遅くなってしまいました」 「楽しかったのなら何よりだ。良い物は出来そうか?」 「勿論! 完成したらリアお兄様にもお渡ししますね」  はしゃいだ様子のレインに若干の悪寒を覚える。なんだろう、なんだか嫌な予感がする。  良い子なんだが、時折感じるこの身の危険は何なのだろうか。レイン本人が俺をどうこうしようというのとは何か違うんだが、なんかこう身の危険を感じる。  謎の悪寒を覚えながら玄関まで辿り着くと、レインは名残惜しそうに俺の側を離れ、代わりにそそくさとオルテガがやってきた。うーん、この感じはまたむず痒い。さりげなく距離を取ろうとしたが、それより早くオルテガの腕が腰に回されて逃げそびれた。  そこで気が付く。俺が乗ってきた筈のレヴォネ家の馬車がない。 「……馬車がないんだが?」 「馬ならいるから安心しろ」  そう言ってオルテガが指笛で呼ぶのは彼の愛馬であるヴィエーチル。  雪のように真っ白な毛並みをしたこの馬はオルテガ自慢の愛馬で、天翔馬という希少種だ。天を翔ける風のように速く長く駆けるからそう呼ばれている馬で、騎士であれば誰もが手に入れたいと思うものだと言われている。  この天翔馬は野生でしか繁殖しないが故にとても珍重されていた。しかも、その繁殖地は年中雪に閉ざされた寒さの険しい山間部であり、乗りこなすには乗り手が直接捕らえ、馬が諦めて主人と認めるまでその背に乗っていなければならないという。代わりに主人と認めた者にはとても忠実でその為ならば一日で国を横断した、なんて伝説が残っている。  オルテガは学生時代の冬季休暇に一人でこの馬を捕まえに行った。休みに入ったというのに姿を見掛けないし、屋敷にも来ないなと思っていたところである日傷だらけになったオルテガがヴィエーチルを牽いて帰ってきた。  オルテガ本人は一刻も速く捕らえた天翔馬をセイアッドに見せたかったようだ。しかし、全然姿を見せなかった幼馴染がいきなり訪ねてきたと思ったら全身傷だらけ酷い凍傷もある状態で玄関先で倒れた「私」からしたら恐怖でしかない。泣きながら治癒魔法を施して、話を聞いてからはめちゃくちゃ説教したものだ。  そんな思い出を振り返っていると近寄って来たヴィエーチルが鼻面を擦り寄せてきた。オルテガのせいで初対面の思い出は最悪だが、真っ白なこの馬は本当に美しいし、存外人懐っこくて可愛い。逞しい首筋を撫でてやれば、彼は満足そうに鼻を鳴らす。  オルテガと共に南方へ遠征に行っていたヴィエーチルは俺が領地に着いた頃にオルテガを追いかけてレヴォネ領へとやってきた。聞けば初めはヴィエーチルに乗って北上してきたらしい。しかし、流石の天翔馬も王都辺りで力尽きたようで後から追い掛けてくるよう言い付けて他の馬を何頭も乗り潰しながらここまで早駆けしてきたそうだ。  ちゃんとオルテガを追い掛けてきた辺りすごいと思うが、そういった所も何か特別なものがあるのだろうか。魔法も魔物も存在するような世界なのだから何かあってもおかしくないか。  そんな事を考えているうちにオルテガが軽々とヴィエーチルに跨る。真っ白な馬に跨るオルテガの勇壮な姿は非常に絵になるのだが、当然のように此方に差し出される手については頂けないと思う。 「……まさかと思うが、私もヴィエーチルに乗るのか?」 「馬車がないなら乗るしかないだろう」  にやりと笑う姿にやられた! と思った。これがやりたいがために先にうちの馬車を帰したのだろう。 「俺」になってから馬に乗るのなんて初めてだ。そもそも「私」の時だって移動は基本的に馬車だったのでそんなにしょっちゅう乗ったものではない。  そもそもどう乗るんだ?まさかオルテガの前か!?  イラストなんかで良く見る横抱きで馬に乗る自分とそれを抱き締めるオルテガの姿を想像して愕然とする。シガウスに馬を借りようか。 「リア」 「うぐ……」  混乱しているうちにオルテガに名を呼ばれ、馬上から再び手を差し出された。そのまま夕焼け色の瞳で見つめられては拒否出来るはずもない。  覚悟を決めてオルテガに引っ張り上げてもらいながら何とかヴィエーチルに跨る。幸いな事にオルテガの後ろに乗る事になったのはいいが、後ろは後ろで鞍も鎧もなく馬体に直接乗るのが不安だ。  大丈夫なのかとハラハラしながらオルテガの腰に恐る恐る腕を回して抱き着く。これで良いんだよな?バイクとかの二人乗りもこんな風だった気がする。  馬の二人乗りなんて萌えシチュエーションの鉄板を味わうなんてなかなか出来ない体験だが、落馬が怖くて楽しめそうにない。不安定な体勢にぎゅっと抱き着いていれば、オルテガが笑う気配がする。 「力を抜いておけ。力むと余計に危ないぞ」 「そう言われても……」  運動中枢は小脳が司ってるんだっけか。時が経っても自転車に乗れるのは小脳がその感覚を覚えているかららしいが、果たして人格が変わっても体が覚えてくれているものなのか。 「心配しなくてもヴィエーチルがお前を落とす事はないさ。俺の事を振り落としてでもお前を守る」  オルテガの言葉を肯定するように白馬がヒンと短く嘶いた。馬にまで心配されているのはなんだか情け無いな……。  大きく深呼吸してなるべく体の力を抜く。 「最初はゆっくり行ってくれ」 「わかった」  また背中が震えているから笑っているらしい。降りたら覚えてろ。 「二人乗り……! これはまたお手紙を送らなくては!!」 「待て、レイン! 誰に何を報告するつもりだ!?」  訊ねる俺の声も虚しく、おやすみなさいませー!と声を残してレインは別荘の中に戻ってしまう。残された俺はやり場のない思いを抱えたままオルテガの背中に額をくっつけた。オルテガが温くて気持ち良い。なんかもう色々あって疲れたな……。 「フィン、早く帰ろう。帰って寝たい」 「なんだ、お疲れか。これしきの事で参っていてどうする」  揶揄うようなシガウスの声にも溜息しか出ない。疲れ方の質が違うんだよ。肉体労働のがまだマシだ。 「……明日また使者を送る。サーレ殿のご助力、頼りにしている」 「私も存分に楽しませてもらうよ。……おやすみ、可愛いリア」  含みをたっぷり含ませた低い声音でシガウスが言うとオルテガがいきなりヴィエーチルの腹を軽く蹴った。急に走り出した事で挨拶も碌に返せないまま、俺は慌ててオルテガの腰にしがみつく羽目になる。背後からはシガウスの楽しそうな笑い声が響く中、別荘の門を駆け潜った勢いでそのまま坂を降りていくヴィエーチルの速度はますます上がっていく。 「始めは、ゆっくりって、言った!!」 「黙ってないと舌を噛むぞ」  文句を言うが叱られた。機嫌が悪いのは妬いているからなのだろうか。口では文句が言えないので代わりに抱き着いている手でオルテガの腹を抓ってやる。しかし、厚い筋肉のせいで表面の皮膚しか摘めなかった。これじゃ大したダメージにならない。  後ろに乗っているからオルテガの表情は窺えないが、纏う雰囲気は不機嫌そうな印象を受けた。そんなに置いて行った事が気に入らなかったのだろうか?  まるで拗ねた子供みたいでちょっと可愛くなる。帰ったら少しくらい甘やかしてもいいかもしれないな、なんて思ったが、それより俺の身の方がヤバい事を思い出す。今夜は寝かせて貰えるだろうか……。  しばし走って馬の動きに慣れてくると、というより乗り方の感覚を思い出してくると少し周りを見る余裕が出てきた。ふと気が付けば、帰り道とは違う方向へ向かっている。 「どこに行くんだ?」  抱き着いたまま訊ねれば、オルテガが少しだけ俺の方を振り向く。月明かりの下、俺を見る夕焼け色の瞳が綺麗だ。 「少し、寄り道をしよう」  いつものように甘い声が囁くのを聞いて、心臓が跳ねる。香水の香りも相俟って落ち着かず、今更ながらに自分の状況を思い出して恥ずかしくなった。  羞恥を誤魔化すようにぎゅっとオルテガに抱き付くと、微かにその背が震えた気がした。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

213人が本棚に入れています
本棚に追加