21 月影の湖

1/1

213人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ

21 月影の湖

 21 月影の湖    暫くヴィエーチルを走らせて辿り着いたのは蒼鱗湖の湖畔だった。レヴォネの屋敷がある湖畔と観光客用に解放している場所の中間くらいの場所で、森の切間に小さな草原と狭い砂浜があるちょっとした穴場だ。しかも、今夜は満月で他の明かりがなくとも周囲がはっきり見える。  手伝ってもらいながらヴィエーチルから降りると既に腰と股関節が痛む。明日は筋肉痛だろうか。  疲労感を覚えるが、それも目の前の光景を見て何処かへと吹っ飛んだ。  水際に広がる白い砂浜、月明かりを浴びて煌めく湖水は岸辺に淡い金色の漣を立てる。鏡のような湖には月と星が映っていて手を伸ばせば触れそうだ。森の奥ではどこかで梟が鳴いているようでほぅほぅと微かな音がこだまする。穏やかなその風景はまるで北欧の絵本に出てきそうだった。 「綺麗だな」 「ああ」  湖水の際に近付きながら振り返って言うが、オルテガはどこか上の空な返事を返す。どうかしたのかと軽く首を傾げれば、意を決したようにオルテガが俺の方に近付いてくる。 「……お前に話しておきたい事がある」  夕焼け色の瞳が俺を真っ直ぐに見つめながら真摯な声が俺を呼ぶ。改まった態度に困惑しながら向き直れば、オルテガが意を決したようにぐっと拳を握り締めた。 「なんだ、改まって」  俺の前まで来るとオルテガはじっと俺を見下ろした。真剣な表情はあんまり見た事がないもので、俺も思わず姿勢を正す。  そんなに重要な話なのだろうか。 「リア、俺と結婚して欲しい」 「……は?」  色んな可能性を考えて覚悟をしていた筈だが、あまりにも予想外の言葉に思考が止まる。今なんて言われたんだ? 「俺と結婚して、籍を入れて欲しい。いや、俺がレヴォネの籍に入ろう」 「待てまて! 急に何の話だ!?」  理解の進まない俺の事を置いて、オルテガが話を続けていくから慌てて止める。展開が急過ぎるんだ。それこそ毎晩愛を確かめ合っているし、オルテガがそういった雰囲気を匂わせる事はなくはなかったが……!  なぜ、いまになってきゅうにこんなことをいいだしたんだ……?  胸の奥で「私」も困惑している。この世界では同性でも子を作る方法があるから同性婚も少なくはないし、貴族でも珍しい事ではない。しかし、「私」は二人を取り巻く様々な事情からオルテガとセイアッドが婚姻する事は出来ないと思っていたし、オルテガも同じ考えだと思っていた。  何より、プロポーズがあまりにも急過ぎる。心の準備なんて何も出来ていないのに。 「お前、どこかの令嬢と婚約の話があるんじゃ……?」  王都にいる時、「私」はそんな噂を耳にした事があった。だからこそ、相手が誰であれオルテガが幸せになってくれるならそれで良いのだと自分に言い聞かせて積年の恋心に蓋をし、目を逸らす為に仕事に打ち込んでいた時期もあるというのに。 「初耳だ。そもそも俺とお前の婚約の話はセオドア様がご存命の頃から出ていたんだが……セオドア様から何も聞いていなかったのか?」 「それこそ初耳だが!?」  衝撃の話に思わず声が大きくなる。確かに良い歳をしてお互いに婚約者もいないのは不自然ではあった。だが、学園在学中はオルテガとリンゼヒースに振り回されるのと自分で立ち上げた商会を安定させるのに忙しくて父ともそういった話をした覚えがないし、父が亡くなってからは国の仕事に追われて自分の婚約者選びなんてする暇がなかった。  話すタイミングがなかったのか、驚かそうとしていたのか。そもそも既定路線で話す必要がないと思われていたのか。いずれにせよ父が墓の下にいる今では真実は分からない。  しかし、何となくだが驚かそうとしていたんじゃないかと思う。「私」の記憶にある父ならやり兼ねない。セイアッドに良く似た顔で、オルテガとの婚約の話を聞いて驚く息子の姿を見て楽しそうに笑う様子が思い浮かんだ。 「そうか。ならば、今改めて申し込もう。セイアッド・リア・レヴォネ。俺と結婚してくれ」  跪いたオルテガがそう囁いて俺の手にキスをする。愛を乞う儀式は突然だった。  ……どうすればいい?  急展開すぎて「俺」も「私」も頭も心もついて来ない。混乱している間にも目の前にいるオルテガの夕焼け色の瞳が真っ直ぐに俺を見上げている。  月明かりに照らされる端正な顔立ちに見つめられてくらくらする。ああ、心臓が煩い。じわじわと顔が熱くなってきた。握られた手に汗をかいていないだろうか。  真っ直ぐに俺を見る真剣な瞳には少しだけ不安が揺らぐ。ああくそ、そんな眼で俺を見ないでくれ。  なんて答えたらいいのか分からず、言いあぐねていれば、立ち上がったオルテガにそっと抱き締められた。レインが作ったという香水とオルテガの匂いが混ざった香りは良くて、高い体温は少し肌寒い俺には心地良い。  どんなにめをそらしても、ふれるたびにすきだとおもいしらされてしまう。 「俺」も「私」もこんなものを与えられて、断れる訳がないのに。 「少し急ぎ過ぎたな。返事はいつでもいい」 「……そうしてもらえると、有り難い」  猶予がもらえた事にホッとする。少しだけ、考える時間が欲しい。顔を上げれば、寂しそうな顔をしているオルテガがいた。ああくそ。そんな顔をさせたい訳じゃないのに。 「フィン、勘違いしないでくれ。お前の気持ちはとても嬉しいんだ。でも……!」  慌てて言い訳を口にする。セイアッドの立場は安定しているとは言い難い。そんな状況で婚姻を結べば、ガーランド家にも咎が及んでしまう。ガーランド侯爵家の者を、オルテガを巻き込むのは「俺」も「私」も本意ではない。それに、身分の問題もある。追放されているとはいえ宰相と騎士団長なのだ。いくらお互いが想いあっていたとしても、そう易々と婚約が出来る筈もない。  それでも、ゆるされるのならばそのことばにゆめをみたい……。  ぐっと拳を握り締めてすぐに答えられない自身の不甲斐無さを悔やむ。きっと、何も無い平和な時ならば二つ返事で同意したいと思ったろうに。 「いいんだ。お前の立場も、抱えているものも分かってるつもりだ。だから、もっと俺に甘えてくれ。俺だって使えるだろう?」  拗ねたような口調で言いながら大きな手が俺の髪を撫で、額にキスが落とされる。大型犬が甘えるようにぐりぐりと頬を擦り寄せられて思わず苦笑してしまう。やはり拗ねていたのか。  オルテガの背中に腕を回して抱き着けば、ふんわりと香水とオルテガの香りに包まれて安心する。 「十分甘えてるつもりなんだが」 「足りないな。お前の頼みなら何でもしてみせる」  額に口付けられて低い声が耳元に響くのが擽ったい。今のオルテガなら、強請ったら本気で相手の首級くらいあげてきそうだ。  頬を寄せた胸からはいつもより少し早い鼓動が響いている。ああ、彼も緊張しているのか。そう思うと肩の力が抜けた。 「……この先、どんな結末になっても、お前は私を見捨てないでくれるか?」  擦り寄りながら訊ねれば、応えるように強く抱き締められる。その腕の逞しさに覚えるのは深い安堵だ。  守られているのだと実感出来るその温もりは「私」が渇望し、「俺」が思い描いたものだった。 「当たり前だ。お前が選び歩む道ならば地獄の果てまで供をしよう。約束する。決してお前を独りにはしない」  ああ、そんなにもおまえはわたしのことを……。  真っ直ぐに見つめながら切な声で告げられる誓いに、俺の…そして「私」の思いは決まった。  家長として表立って婚約に同意する事はまだ出来ない。されど、セイアッド個人が想いに応える事ならば赦される筈だ。 「フィン、約束しよう。私にどんな結末が訪れようと、全て終わらせたら如何なる手段を用いてでもお前のものになる、と……」  ちかおう、ちかおう。かならずおまえのおもいにむくいると。わたしのすべてをおまえにささげよう。  俺を見る夕焼け色の瞳に喜色が滲む。そんな表情をしてくれるのが嬉しくて、また面映い。頬に手を添えて真っ直ぐに見つめれば、オルテガの表情が緩み、俺の手に頬を擦り寄せてきた。 「私が決着を着けるまで、祝夏の宴まで待ってくれるか?」 「ああ。待つから……約束だぞ」  力一杯に抱き締められて、俺も抱き締め返す。もっと混ざりあえたらいいのにと思うのに、服も体も邪魔だ。  降り注ぐ月の光は清廉で、森に落ちる静寂は心地良い。  二人きりの世界は穏やかで幸福に満たされている。こんな時間が続けば良いのに、なんて柄にもなく思ってしまった。    ◆◆◆    時は遡る事少し前。  レヴォネ家の別荘を辞する事になり、レインと話すセイアッドの後を追って歩き出そうとした時だった。 「ガーランド騎士団長」  背後からそう呼ばれたオルテガは僅かに眉を顰めながら振り返る。その表情に苦笑しながらもシガウスは懐から一通の手紙を取り出し、流れるような動作でオルテガに向かって差し出した。  白い便箋の上、真紅の封蝋の上に蹲る紋章を見たオルテガは今度こそ盛大に顔を顰める。 「陛下ならび貴殿の兄上からの伝言だ。辞意は受け取らぬ、ただし滞在は好きにせよ、と」 「……」  憮然としながらも受け取るようにと再度差し出される封筒を嫌々受け取る。どうせ中に書いてある事なんて嫌な内容に決まっているのだ。少々乱暴に封を破り、中を改めれば思った通りの内容が綴られていて隠しもせずにオルテガは溜息を零す。  セイアッドを守れと命じられた事はまだ良い。オルテガの意志にも沿うのだから。だが、いちいち相手に都合の良い事ばかり並べ立てるその文章に腹が立ち、封蝋のついた封筒ごとぐしゃりと握り潰した。  本来であれば王家からの手紙はたかが紙切れであっても丁重に扱わなければならないが、シガウスとて今更不敬だなんて注意する事もないだろう。そう思いながらシガウスに視線を向ければ、彼は楽しそうに微笑っていた。 「不満か?」 「ええ。陛下はリアをどうするおつもりでしょう」 「陛下がレヴォネ卿を手放す訳がないだろう。陛下にとって国王で在る為にレヴォネ卿は必要不可欠だからな」  そうだ、だから国王の動向にも王太子の所業にも腹が立つのだ。  生きたる王冠とまで言われるレヴォネ家はローライツ王国王家にとって重要な家の一つであり、レヴォネ家が傅き仕える事がローライツ王国国王たる証の一つでもあるというのに。  それなのに、彼等はセイアッドを蔑ろにし、追放した。その意味がわかっているのだろうか。 「気に入らない。ならば、もっと大切にするべきだった」 「ふん、自分が凡愚の自覚があるからこそ自らの元を離れられぬように見て見ぬふりをしていたのだろう。あのように追い込まれ、憔悴した状況では碌な判断もつくまい。……或いは、そうなってでも自らに仕える姿を見る事で優越感でも得ていたのかもしれないな。レヴォネ卿が、彼等の一族が抱えてきた民や国への深い思いなど知りもせずに」  歪んでいるな。そう言ってシガウスは嘲笑う。この男はライドハルトのみならずユリシーズにも見切りをつけたのだ。その笑みだけでそう思わせるには十分だった。 「ところで、いつ籍を入れるつもりだね?」  続いていきなり飛んできた質問に、オルテガは一瞬思考が止まる。しかし、目の前ににやにやしている男の思惑に気が付いて直ぐに自らを立て直した。 「……まだ考えておりません。それにまずはリアの承諾からです」 「なんだ、てっきり話がついていてお互いその気なのかと思った。早い方がいいぞ。アレは有能だ。それにあの容姿も人目を惹きつける。既に目を付けている者もいるし、そろそろ諸外国も動く頃だろう」  急かされる事は内心複雑ではあったが、シガウスがいう事はもっともでもある。  学生時代から……いや、もっと幼い時分からセイアッドは人目を惹く存在であった。セオドアに似た美貌はそれだけで人を惹きつけるというのに本人の自己評価が低くてどれだけ説明してもいまいち危機感が薄く、自覚がない事が難点だった。  その為に、オルテガがセイアッドの盾となり剣となり彼の知らぬところで降り掛かる火の粉を払ってきたのだ。  これまでセイアッドの身が守られてきたのはオルテガや周囲が警戒していた事もあるが、それ以上に彼が代々宰相を務め、重要な場所を治める侯爵家の嫡男という身分があった事も大きい。だが、その地位を失えばどうなるか分からない。  老獪な者ならば難癖を付けて奪いに来るだろう。そうなる前に既成事実を築かなければ。  ずっと話そうと思いながらも踏み出せなかった事だった。この状況とシガウスに背を押される形になったのは不本意だが丁度良い機会だったのだろう。  少し前を歩くセイアッドはレインと楽しそうに話している。  彼の平穏を守る役目は、隣で歩む事を許された存在は自分だけでいい。他の誰にも渡したくない。そんな仄暗い独占欲が思考を満たす。  オルテガの胸に渦巻く幼い頃から抱え続けた恋情も、成長してから覚えた野獣のような劣情も、全てセイアッドの為に在る。セイアッドはオルテガにとって生きる意味と言っても過言ではない。  幼い頃からずっと隣に居た者であり、何より大切な人。    彼を守る為ならば、手段など選ばない。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

213人が本棚に入れています
本棚に追加