29 麗しの月に捧ぐ憧憬

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29 麗しの月に捧ぐ憧憬

29 麗しの月に捧ぐ憧憬    ◆◆◆    ヒューゴは……イン・ダーランは元々商人であり船乗りをしていた男の息子であった。  幼い頃から父親について世界中を旅していた彼は父親の事業が失敗した事で遠い異国であるローライツ王国で貧民となった。故郷に帰る事も叶わず、全てを失った父親と共に泥水を啜りながら貧民街で暮らすうちに世の中の汚さと貧しさへの憎悪を覚えたダーランはあらゆる手段を用いて金を稼いで生きてきたのだ。  しかし、彼がそうまでして金を稼いだのには理由がある。彼は貧民街に棄てられる子や親のない子、病で動けない者や老人といった弱者を守っていたからだ。  ダーランの父親は根っからの善人だった。商人時代にも慈善活動を精力的に行うような男で、貧民に堕ちてなお弱き者を守ろうとした。自らの食べ物をより餓えた者に分け与え、怪我や病に苦しむ者がいれば、可能な限り手を尽くす。幼い頃からそんな父の背を見て育ったダーランにとって自分より幼い子や立場の弱い者は護るべきものだ。  汚い手で稼いだ金で他の者を養うなど偽善だと罵られた事もある。それでも、彼等父子は諦めなかった。  貧民街の中ではダーランを敵対する者もいたが、数年も経つうちにダーランは貧民街を取り仕切る男の一人になっていた。他にもいくつかグループはあったが、どのグループもダーランには一目をおいていてそれぞれ小競り合いはあれど、それなりに平穏な日々を送る。……そんな最中に貧民街を大火災が襲った。  瞬く間に街を呑み、轟々と吼え立てながら迫る焔は正に劫火。焔に追われ、熱に灼かれ、煙に巻かれて逃げ惑う人々。絶望と悲鳴に満ちたそこはこの世の地獄だった。崩れた建物に押し潰される者、生きたまま焔に身を焼かれる者、何とか逃げ出したというのに力尽きる者。男も女も、子供も老人も沢山の者が死んだ。  ダーランの父は子供を逃そうと庇った事で逃げ遅れ、ダーランの目の前で瓦礫に潰されて死んだ。また、ダーラン自身子供や病人の避難を優先させるうちに酷い火傷を負って生死の境を彷徨っているような状態だった。  焔が失せても、地獄は終わりではない。焼け出され、全てを失くした人々を待っていたのは王都を管理していた貴族からの通達だ。 「これを機に王都を去るように」  冷たく言い放たれた言葉に、残された人々は絶望した。元より貧困が原因で何処にも行けなかったというのに、どうしろと言うのだろうか。  ダーランが看病してくれる者からそんな話を聞いたのは辛うじて焼け残った粗末な小屋の中だった。医薬品も治療に関する知識もないから、同じく怪我を負った者達と共に硬い床に転がされて死を待つしか出来ない。  痛みと熱に魘されながらダーランは世界を憎み呪った。同じ人間だというのに何故こんな惨めな目に遭わなければならないのかと呪詛を吐いた。その時だ。 「それだけ喋れるなら大丈夫だな」  不意に凛とした声が耳を撫でる。自然と視線を向けた先には月が居た。  それは長い黒髪を後ろで高く括った美しい人だった。少年と青年の間にあるような瑞々しいその絶佳は小屋の中の惨状に臆した様子もなくダーランの元へと近付いてくる。煤や泥だらけになっているが、着ている物は動き易さを重視しつつも見るからに上等な品。整った顔立ちと月光のような優しい銀色の瞳に思わず目を奪われる。 「大丈夫、必ず助けるから」  よく見れば、世話をしてやっていた子が一人、美しい人の服にしがみついて泣いている。その人は子供の流す涙や鼻水で自らの服が汚れる事も厭わずに、子の頭を撫でていた。  その姿を見てダーランは思った。神は実在するのだと。  青年はダーランの横に膝をつくと歌うように何かを囁き始めた。同時に淡い光がダーランの体を包み、あれ程身を苛んでいた痛みも熱もあっという間に引いていく。治癒魔法が存在する事は知っていたが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。治癒魔法を受ける事は一般人にも出来るが、貧民街で暮らす者にはその対価を払えないから。  光が引く頃には痛みも熱もすっかり失せ、恐る恐る視界に持ち上げた手は火傷の傷など一つも残っていない。まるで奇跡だ。 「……痛みは?」 「ない。ってアンタ、顔色が!」  少年は真っ青な顔色をしていた。魔力が足りなくなったのだろうか。慌てて体を起こして肩を支えれば、驚く程細い。 「すまない。この子に頼まれて助けに来たのに情け無い……」  苦々しく吐き出された言葉は予想外のものだ。てっきり触れるなと蔑まれると思っていたのに。彼は自らを不甲斐ないのだという。  驚いていれば、月光色の瞳がダーランを見つめる。 「君が貧民街を取り仕切っていたうちの一人、イン・ダーランだろう?」 「……そうだと言ったら」  訊ねる声に僅かに警戒する。そんなダーランを見ても目の前の少年は穏やかに笑うだけだ。 「私と手を組まないか? 君にもこの子にも他の街の住人達にも、決して悪いようにはしないから」  そっと差し出された白い手は煤と泥で血で汚れていた。ここに来るまでに、同じように幾人もの貧民に対して治療を行い、傷を心を慰撫してきたのだ。  そう気が付いてダーランの心は熱く高揚する。  汚れてなお美しい手はこれまで生きてきた中で何よりも尊いもの。その手を見て、ダーランは直感的に思った。この人ならば信じても大丈夫だと……。    それからイン・ダーランと貧民街にいた住人達の多くはセイアッドとセオドアによってそれぞれ新しい人生を歩む事になった。  望む者は教育を受けて新たな生活を始めたが、多くの者はレヴォネ領で働く事かセイアッドのロアール商会に入る事を志願した。もちろん、ダーランもそのうちの一人だ。  ダーランは商人であった父から幼い時より商売のノウハウを教わっており、実際に数年で貧民街で成り上がった実力の持ち主だ。彼はセイアッドに命を救われて以来、その恩を返す機会をずっと探していた。  ヒューゴと名を改め、商人として手腕を振るうだけでは足りない。ロアール商会を大きくし、国でも一二を争うまでの商会にしてもまだ足りなかった。  そんなダーランや他の貧民街出身の者にとって、今回セイアッドが受けた仕打ちは非常に赦し難いものだ。  誰も助けてくれない絶望の中、唯一手を差し伸べてくれた人。貧困や餓えから逃れ、後ろ暗い職業から足を洗い、人並みの穏やかな生活を送れるようになったのはセオドアとセイアッドがいたからだと皆分かっている。  実際、セオドアがおこなった粛清には元貧民街出身の者が大いに力を貸していた。時には悪事の生き証人として証言をし、時には証拠集めに奔走した。今回も同じように、いや、それよりも多くの者達が動いている。  貴族達は彼等の事を時にドブネズミや野良犬と揶揄し、疎んできた。されど、ドブネズミはどんな場所でも潜り込んで生きていける生き物だ。  そして、見えない所からじわじわと喰らい尽くす。気が付いた時にはもう遅い。  セイアッドは知らない。ダーラン達が裏でなにをしているのか。  既に幾人かが闇に葬られている。セイアッドの政敵に近しい裏家業の者やセイアッドを襲おうとレヴォネ領に来ていた者。  教えるつもりもない。オルテガは気が付いているようだが、セイアッドは知らなくて良い。元より穢れた手なのだ。今更血に汚れた所で気にならない。  銀狼は嗤う。自らが敬愛する月を護る為、静かにその足元に身を伏せてその時を待つ。 「……アンタとアンタの父上だけが俺達を救ってくれた。俺はアンタの為なら何だってするし、アンタが望むなら国だって呑んでやる。だが、アンタはそれを望まないだろう?」 「ああ。あくまでもやり返すのは俺の敵にだけだ。関係のない者を巻き込むな」  予想通りの言葉に思わずダーランは笑みが零れる。  セイアッドがあれ程痩せ細るまで身を削って尽くしたのに、貴族も民も王都の連中の多くはその献身を知りもしない。その上で冤罪で追放されたというのに主人は首魁の連中以外は恨まないというのだ。 「やっぱりな。普通なら貶めた連中も、自分の功績も知らない連中も全員潰すって思うところだろ。だが、そんな甘いアンタが俺達は……俺は大好きなんだよ」  ダーランがセイアッドの手を取る。あの時と違って煤や泥に汚れていないが、変わらぬ美しい手だ。その手に、自らの鼻先を擦り寄せるダーランはまるで親愛を示す狼のようだ。  出来る事ならこの手を汚したくない。 「……俺はアンタの為なら命も惜しくない。アンタの敵を噛み殺すくらいなら訳もない」  真紅の瞳は真っ直ぐにセイアッドを射抜く。その瞳をうけてセイアッドは月光色の瞳を細めた。 「ダーラン、お前は私にとって数少ない心から信頼出来る人間なんだ。友としてもお願いしたい。……必要以上に危険な事はしないでくれ」  亡くしたくない。敬愛する主人にそう言われて嬉しくない者がいるだろうか。ふは、と思わず笑みが零れる中でダーランは胸に手を当てて深く一礼をする。 「わかったよ。無茶はしない。アンタを悲しませたい訳じゃないからな」 「それならいい。……出版以外にも頼みたいことがいくつかあるんだ」  ダーランの言葉にセイアッドがほっと小さく息を零す。どうやら、心労をかけていたようだ、とダーランは内心で反省をする。もっと彼からは見えないように、分からないようにしなければ、と。 「はいはい。なんでも御用命を」  思考を切り替える為にも再び頭を下げ、長キセルの火を持ち歩いている灰皿に入れて火を消す。代わりに取り出すのはメモと鉛筆だ。 「ラソワから買い付ける絹の量を増やせるか向こうに打診して欲しい。これは、出来るだけ早急に」 「無能な宰相代理と色ボケ王子と頭の軽そうな新しい婚約者が外交でやらかすと思ってます?」  不敬な言いようにセイアッドは眉を顰めるが咎めはしない。代わりに小さな溜息が零れた。どうやら訂正させるつもりはないらしい。 「……確実に。嫩葉の会でデビュタントを飾る者達の分はある程度確保したい」 「りょーかい。向こうに焦ってる事を察せられるとふっかけられそうなんで国境までは天翔馬に、そこからは普通の馬で行かせます」 「そこら辺の采配は任せる。あとは……」  いくつかの頼まれ事を受けながらダーランは思考を巡らせる。どう動けば一番効率的にセイアッドの役に立て、相手の足を引っ張れるのか。  ……ああ、そういえば。  ふと思い浮かぶのはライバルの商会の一つだ。商会長には息子が一人いて、その息子は今学園に在学中。そして、件の女の取り巻きの一人だった筈だ。  その商会はロアール商会が王都から撤退した後釜になり、王太子と新たな婚約者の寵愛厚く、随分と儲けているらしい。お陰で羽振りが良くなり、新たな事業にも幾つか無節操に手を出しているという報告も受けている。  良い事を思い付いた、と途端に上機嫌になるダーランを訝しげに月光色の瞳が見遣った。 「おい、妙な事はするなよ?」 「分かってますってー。信用ない?」 「そういう顔をしている時のお前は、な」  そう言って再び零れたセイアッドの深い溜息に苦笑しながらもダーランはセイアッドからの依頼と自らが思い付いた事を実行する為に早速部下を動かす算段を立てる。部下達もセイアッドの役に立てるならと嬉々として取り組んでくれる事だろう。  優しい主は必要以上の制裁を望まない。だが、ダーラン達からすれば誰に手を出したのか思い知らせてやらなければ気が済まなかった。  それは主人に寄り添うあの騎士も同じ事だろう。  先日、あの騎士から男が一人投げて寄越された。わざとらしいくらいに見窄らしい姿をし、怯えに怯えている男を目の前に転がされて困惑しているダーランに対して騎士は「好きに料理しろ」と冷酷に言い放ったのだ。その一言と男を見る視線の冷たさに、そいつが主人を害する為に送り込まれた者なのだと瞬時に察した。  あのなりで目に触れるところで物乞いでもすれば、優しい主人はきっとすぐにその綺麗な手を差し伸べただろう。改めさせた持ち物の中に体を麻痺させ、意識を失わせる薬があったから攫おうとでもしたのだろうか。主人の持つ純麗な優しさに付け込もうとするなど到底赦せなかった。  ダーランは直ぐに部下に命じてその男を始末させた。勿論、誰の依頼で行ったのか口を割らせるのも忘れてはいない。  当時の騎士の様子を思い出してダーランの首筋に汗が伝う。主人の傍にいる時の穏やかさとは打って変わって全く慈悲を感じさせなかった。  修羅場慣れしているダーランですらその静かな怒気と殺気に気圧され、一瞬呼吸が止まった。直接対峙した男は恐怖の余りに失禁し、狂乱しながら必死に命乞いの言葉を叫んでいたが、それを見る黄昏色の瞳には微塵の慈悲もなかったのだ。  あれ程恐ろしい思いをしたのは初めてだった。そう思い返しつつ、目の前でぶつぶつと独り言を呟きながら思案している主人を見る。  あの苛烈さは、全てがセイアッドへの愛ゆえなのだから恐ろしい。 「……ほんっと愛されてるよねー」 「急に何の話だ」  怪訝そうな顔をする主人ににこやかに笑って見せながらダーランもまたその本性を隠す。牙も爪も衰えてはいない。こういう時の為にずっと研ぎ澄ませてきた。  蜘蛛の巣のように国中に張り巡らせた情報網も人脈も全ては偏に敬愛する主人の為に。  美しいその指先は国に繁栄と幸福を齎すが、同時に禍事への道標ともなり得る。彼がたった一枚の書類にサインするだけでどれ程の損害が出る事か。  致死に至る猛毒はほんの一雫口にしただけで人の体に害を及ぼす。主人もまた同じなのだ。国にとって有益でありながら、使い方を間違えれば一気に破滅への道を辿る。  ローライツ王国に咲く毒華。誰かがレヴォネ家をそう評していた。だが、美しい華がその身に持つ毒を以ってどれ程国を、民を守り愛し慈しんでいるのだと、果たして何人の者が理解しているのだろうか。  無知とは時に罪になる。これからそれを思い知る者達が大勢出て来るのだろう。  今頃、王都がどうなっているのか考えるだけで哄笑が湧き上がってくる。今更気が付いて慌てても遅いのだ。今暫くは各々が犯した過ちについて後悔するといい。そう思いながらダーランは主人との話を楽しむ事に集中した。
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