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31 葡萄の花と微睡み
31 葡萄の花と微睡み
少し経って辿り着いた葡萄畑はまさに開花シーズン真っ只中だ。そんな心躍る単語とは裏腹に俺はちょっと落ち込んでいた。
この世界に来て初めて葡萄の花を見たんだが、想像と違ってだいぶがっかりしている。ちょっとした花見が出来ると浮かれていたのだ。てっきり桃や林檎のように普通の花が咲いていると思ったのに……。
目の前にあるのはまるで実をもぎ取った後の葡萄の房。それも未成熟で頼り無くひょろりとした枝だ。その先から細かく枝分かれしてピョンピョン生えてる白い物体が葡萄の花なのだという。確かにしっかり見れば、白いピョンピョンした物が雄しべと雌しべだった。花弁がなくてどちらも剥き出しになっているから花に見えないのだろう。
よく考えれば、葡萄は果実一つひとつに種があるから花もこんな風に咲くのか。いやでも、うん……。正直にいえば藤みたいなのを期待していたのに残念だ。
葡萄はこの時期に開花を迎えるが、農家にとっては忙しい時期らしい。完成品の葡萄が綺麗な形になるように、また実がつきすぎて落ちないようにと今のうちにある程度この細かな花を間引いてしまうのだという。
その地道な作業を見ながらこういった農家の努力の上にいろんな人の生活が成り立つのだと痛感する。宰相職に復職したら見栄のために食糧を無駄にしがちな貴族共に対して食育でも施してやろう。彼等が普段好んで飲むワインだってこうして一から育てられているのだ。
日本人には「頂きます」と「ご馳走様」の文化があるし、俺自身食べ物を残す事に非常に罪悪感を覚えるタイプの人間なので余計に奴等の飽食が気になる。無駄になる食糧が減らせれば、その分貧しい家庭への支援にも回せるだろう。良い事尽くめだ。
葡萄の花の様子に密かに落胆しながら農家の話を聞いていたが、俺が視察に来たと聞いたワイナリーの主人が新しいワインを持ってきてくれた事で気分が浮上する。赤と白それぞれ数本ずつ貰ったから帰ったらオルテガと飲もう。
楽しみが出来たとほくほくしていれば、また別のご婦人に声を掛けられて初物が採れて手作りしたというブルーベリーのジャムとチーズの塊を渡される。大きな瓶にたっぷり詰まった濃い紫色のジャムはそれだけで美味しそうだ。
それぞれにお礼を言いながら馬車に向かって歩き出す。今年もレヴォネ領は豊作になりそうだ。そう思いながら心配事が一つ消えた事に安堵する。
同時にこれで反撃に集中出来ようになった。物流に関してはダーランと普段領を任せている者に任せておけば大丈夫だろう。
これまでにロアール商会の者達や王都の協力者が集めてくれた情報に追加して、今後はシガウスが王都から送ってくれるであろう情報も精査しなければならないので、本格的に忙しくなる前に視察を済ませておきたかった。
馬車に着くと御者兼護衛としてついてきていたリボルという男が馬車のドアを開けてくれる。
「また沢山お土産もらいましたな」
「ありがたい限りだよ」
「セイアッド様が愛されている証拠ですよ」
「世辞を言ってもワインはやらないぞ」
「む、残念」
軽い冗談を交えながら馬車に乗り込む。こう言いつつも、それぞれ渡すつもりだ。リボルもそれが分かっているだろう。彼は酒好きでいつも辛口の批評をくれるから、今回もそれを期待している。
俺が座って少ししてから再び走り出した馬車は軽快に農道を駆け抜けていく。サスペンションのないこのガタガタの揺れにも随分慣れてきた。こう思うと、現代というのは随分便利な世界だったのだと思い知らされる。
それでも、窓から射し込む暖かな陽射しを浴びながら揺れにうつらうつらしていると、前世で電車に乗っていた感覚を思い出した。地下鉄だったから陽射しが射し込むことはなかったけれど、カタンカタンとリズムを刻む車両。他の乗客の話し声が微かにさざめきのように聴こえてくるのが心地良くて。
『石川』
不意に耳を穏やかな低い声が撫ぜる。ああ、この声は誰だっけ。名前を呼ばれるのがやけに久しい気がする。地下鉄に乗るといつも眠ってしまう俺を、いつもこの声が起こしてくれたのに……。
一際大きなガタンという揺れに、俺は微睡みから揺り起こされる。いかん、すっかり眠っていたらしい。
ぼんやりする頭を軽く振れば、艶やかな長い黒髪が揺れる。そろそろ鬱陶しいから切りたいんだが、周りから止められるんだよな。
「着きましたよ……ってお休みでしたか?」
馬車のドアを開けてくれたリボルが俺の様子を見て申し訳なさそうな顔をする。
「いや、ちょっとうたた寝をしただけだ」
「セイアッド様はすぐ無理をなさるから心配だ」
リボルの気遣いが嬉しくも擽ったい。彼は代々レヴォネ家に仕えてくれる騎士でセオドアと同じくらいの歳だった筈だ。白髪の混じる黒い短髪に鋭い目付き、厳ついガタイは初見では近寄り難いが、その実可愛いものが大好きというギャップがあるのだ。「私」にとってはもう一人の父親と言ってもいい人物で、昔から可愛がってもらっている自覚はある。
「大丈夫だ。あんまり暖かいからつい眠ってしまっただけだから」
「それならいいんですがね。これ以上老耄の心臓に悪い事はせんでください」
「まだそんな歳じゃないだろうに」
馬車を降りながらも無理するなと釘を刺されて思わず苦笑する。彼が言っているのは王都から帰ったセイアッドの事だ。
領地に着いて馬車を降りた時、古くから仕えてくれた者達には酷く驚かれてあれこれと世話を焼かれた。その筆頭がオルテガだった訳だが、うちの使用人にも領民達にも徹底的に世話を焼かれたものだ。
これだけ心配してくれる者達がいる事は、とても有難い事だと思う。前世の「俺」は自分を蔑ろにし続けて死んだ……のだろう。セイアッドがそうなる前に「俺」が介入出来た事で初めて「私」に見えたものが沢山ある。
セイアッドは愛されていたのだ。様々な人達から。それに気が付けた事が一番大きい気がする。
視察に付き合ってくれたリボルに礼を言い、赤と白それぞれ一本ずつワインを渡してから別れた。屋敷に戻れば出迎えてくれるのは執事のアルバートとダーランだ。
アルバートはともかくとしてダーランが呼び出し以外で屋敷に来るのは珍しい。これは何かトラブルがあったか……。
俺の表情に思考を読んだのか、ダーランが苦笑する。予想が当たっているようで残念だ。
「おかえりー。報告と相談がある」
「……やっぱり」
「まあ、悪い話だけじゃないからさ」
「悪い話もあるんだろうが」
あんまり聞きたくないが、そうも言っていられない。アルバートにお土産を任せると、俺はダーランと連れ立って執務室に向かう。折角ちょっと楽しい気分だったんだが、こればかりは致し方ない。
オルテガとの晩酌を楽しみに今日を乗り切るとしよう。
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