49 寂寞

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49 寂寞

49 寂寞    王都への指示や様々な手紙に宛てた返信を書いているうちにいつしか日が落ちていた。時間が経つのは早いものだ。封蝋まで済ませて疲労感に溜め息を零すが、広い執務室に虚しく落ちるだけだった。  ほんの一時間程前、出立の支度を済ませて部屋にやってきたオルテガの姿が既に恋しい辺り、俺も染められているなぁと実感する。近くにいるのが当たり前になりすぎて、ついついその気配を探してしまうのだ。  一週間は帰ってこないだろうか。そんなに耐えられるだろうか。ぼんやり考えながら視線を窓の方へと向ける。  サーデが生息しているのはこの屋敷から東に3日程駆けた山の中だ。見た目は美しい花だが、匂いや蜜に誘われて他の生き物が近付くと本性を表して襲い掛かってくる食虫植物の巨大バージョンといった魔物らしい。単体での退治は簡単なようだが、群生していると倒しにくくなると聞いて少し心配になっている。  この世界の住人にとって魔物は身近なものであるだろうが、実際に目にした事がない「俺」にとっては未知のものだ。  ゲームの中で数え切れないほど魔物達を退治したとはいえ、所詮はグラフィック。攻撃を受けたって数字が減るだけで怪我をしたり、血が出たりする訳ではない。だが、この世界では実際に血が流れる。死ねば生き返る事もない。  いくらオルテガがこの国最強の騎士といえども怪我もせずに戻るのは厳しいんじゃないだろうか。そんな不安をダーランに打ち明けたら「ないない、心配し過ぎだって」と笑われてしまった。  モヤモヤしたものを抱えつつも、旅立っていったオルテガの姿を思い出す。目立たないよう平民が身に付けるような簡素な服ではあったが、愛剣であるリュズギャルを携えた姿は格好良かった。  この世界に「俺」の意識が目覚めてから見たオルテガの服装はラフな物が多かったが、騎士姿を見たら叫ぶのを抑えられない気がする。戦闘シーンのスチルがマジで格好良いんだよなぁ……!  戦う姿を間近で見たかったが致し方ない。俺はここから離れられないし、ついていったところでセイアッドは回復系の後衛職なので足を引っ張る姿しか想像出来ない。  一応貴族の嗜みとして剣術は一通り身に付けている筈だが、魔物に通用するかと聞かれれば答えは否だ。それに「俺」の意識が主導である以上上手く戦える気はしない。  カルが友好的だったからこそ触れたり乗せてもらったり出来たが、魔物から殺気を向けられたら動けなくなる気がした。命のやり取りなんて経験は俺にはないから。  現代日本で、自分の命に危険が及ぶ事なんてそうそう無いが、この世界では至る所にその危険が転がっている。  魔物や野生動物はもちろんのこと、日本なら簡単に治療出来る怪我や病気だってこの世界では脅威になる。時には小さな傷から感染症を引き起こして若者が簡単に死ぬ事だってあるのだ。  こういう時、転生チートみたいなものがあればもっと役に立つんだろうが、「俺」にある医療の知識は一般常識の範囲しかない。例えば、抗生物質であるペニシリンがアオカビが出来ている事は知っているが、カビからどう作ればいいのかわからない。効く薬がある事は知っていても実物が作れなければ意味がないのだ。  いくら治癒魔法が使えたとしても所詮は焼け石に水。もっと根本的な部分で医療以外にも色々な事を底上げをしたいという思いはある。その為にもまずはセイアッドの無実を晴らして宰相として復帰しなければ。  近付く黒斑病の危機にも備えなければならない。原因がわかればもう少し対処のしようがあるんだが、いかんせん分からない事の方が多いのが問題だ。  調査しようにも自らも感染する危険性が高い中で志願する者は少ないし、感染対策も成されない状況で行うのはリスクが高い。セオドアが自らの命を懸けて行った検証で薬効のある薬草は見つかったが、それでも手遅れでセオドアは命を落としてしまった。その薬草だってどこまで効くのか詳細な検証は行えていないのが現状だ。 「……頭の痛い問題だな」  誰もいない執務室でぽつりと呟く。オルテガは俺の為にサーデの蜜を狩りに行き、ダーランは商会の仕事の為に明日から二、三日領を離れるという。  急に独りになった気がするのは気の所為じゃないだろう。「俺」が覚醒してから誰かしらが傍にいてくれる事が多かったから。  日本で生きていた「俺」は両親を早くに亡くし、親戚とも折り合いが悪くて早々に独り立ちした。色んな家をたらい回しにされた事もあって人付き合いが下手で友人と呼べる間柄の人間も少ない。  だから、独りには慣れている筈だった。  そんな俺にとって、好きな物を仕事に出来た事は人生において輝かしい事だ。まあ、人付き合いの下手くそさが祟って色んな仕事を押し付けられ、疲労困憊のところで階段を踏み外して恐らく死んだのだからあの会社に就職した事が良かったのかどうかで言ったら微妙かもしれない。ただ、穏やかな記憶も僅かながらにある。  雨の日。コーヒーの匂いと低い穏やかな話し声。顔も名前も碌に思い出せないのに、心が凪いだ事だけは覚えているあの時間。  懐かしく思いながら椅子に身を任せて目を閉じる。そんなに時間は経っていない筈なのに、遥か昔のように思えた。  日本で「俺」が死んでも大した影響なんてないんだろうけど、それでも誰にも覚えて貰えないのは少し寂しいかもしれない。  ……ああ、駄目だな。独りでいると気が滅入るばかりだ。こんな事ではまたシガウスに笑われてしまう。  思いの外繊細だったらしい自分の精神にうんざりしながら立ち上がって大きく伸びをする。座りっぱなしだった体に血が巡るのを感じつつ、書いた手紙を持って執務室を出た。  手紙は私的なものや緊急性が高いものはダーラン達商会の者に託し、領主として正式に出すものはアルバートに託す。正直、商会の販路を使った方が情報伝達は早いんだが、流石に領主として公式に宛てた物を一般人である商会の者に託す訳にはいかない。格式やらしきたりやら気にしなきゃならないのはやっぱり不便だよな。  もっと簡略化出来たらいいなとは思いつつも、貴族という生き物は伝統を無駄に大事にしたがるもののようだ。身分の差というものをあまり実感した事がない「俺」の感覚からすれば理解し難い部分もあるが、そういう世界なので仕方ないだろう。これから変えられる部分は変えていけば良い。  部屋を出て向かうのは階下だ。使用人を呼ぶ為のベルもあったが、誰かと話したかったので自分で行くことにした。  2階から階下へ続く階段を降りていると、何やら香ばしい良い匂いがする。そういえば、朝方から軽い物しか食べていないな。魔力酔いによる超絶不調からの爆睡をきめているので生活リズムもめちゃくちゃだ。 「……先に腹拵えに行くか」  空腹を自覚した途端に我慢出来なくなった俺は足取りも軽く厨房へと向かった。
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