53 銀狼の帰還

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53 銀狼の帰還

53 銀狼の帰還    翌朝はここ暫くの晴天が嘘のような曇天だった。  窓を開けられば、吹き込んでくるのは少し湿った風だ。これは雨が降るだろう。今にも泣き出しそうな重く垂れ込める雲とじっとりと湿った空気にうんざりして溜め息を零す。うーん、憂鬱だ。オルテガも雨に降られていなければ良いが……。  少しでも気を紛らわせようと窓を閉めて大きく伸びをする。使いの話では今日にはダーランも戻るそうなのでアイツに愚痴を聞いてもらおう。  それにしたって昨夜のことを思い出すだけで腹が立つな。ステラといいヤロミールといい最近の若い奴らの教育はどうなってるんだか。  そこまで考えて思い出したが、セイアッドの学生時代の事を思えば可愛らしいものかもしれない。主にリンゼヒースとオルテガのせいで良くやらかしたものだ。  遠き日の思い出に何とも言えない気分になる。もっと歳を取ったらあの頃は楽しかったと思える日が来るんだろうか。楽しい思い出も多いが、苦い思い出も決して少なくはないんだよな……。  曇天と黒歴史に微妙な気分になっていると部屋がノックされた。入れと返せば軽い足取りで入って来たのはダーランだ。  思ったより早い帰還に驚いたが、ダーランはにっこり笑って「驚いた?」とひらひら手を振る。茶目っ気たっぷりな様子に気分がちょっとばかり上向いた気がした。 「たっだいまー」 「おかえり。そんなに御機嫌なのは珍しいな」 「いやー、ウハウハだよぉ」  満面の笑みで楽しそうに語るダーランは心底笑みが止まらないといった様子だった。こういう顔の時は本当に良い事があって御機嫌な時だ。どうやら大きな商談がまとまったらしい。 「はい、これ」  懐から取り出してきて渡されるのは一冊の本だ。何だろうと思いながら受け取れば、黒い革製の表紙に銀の箔押しというなかなかに豪華な装丁の本だった。刻印によって細やかな装飾の施された表紙はこれだけで調度品になりそうな程美しい。 「随分と凝った装飾の本だな。どうしたんだ」 「この間話したリアとオルテガ様がモデルになってる話の本だよ。刷り上がったから確認してもらおうと思って。それは豪華版の見本誌」 「は……?」  寝起きだからなのかダーランの話に頭が付いてこない。今何つった。  良くよく見れば、タイトルに『黄昏』と『月』が混ざっている。またそんなあからさまなタイトルを、と思いながら恐る恐る本を開いて流し読みしていく。くそ、紙もめちゃくちゃ良い奴使いやがって。お陰でめくるストレスなくするする読めてしまう。  元々「俺」も「私」も読むのは早い方なのでざっと大まかに目を通して見れば、内容はもちろんのこと文章も読み易くてそれでいて美しい筆致の仕上がりになっている。流石はうちの商会が抱える一番人気の作家だ。昨夜半分寝ながら読んだものとは月とスッポン。ちらっと読んだだけでも面白そうだった。  しかし、順調だった速読もとあるシーンに辿り着いて思わず本を閉じた。おい、がっつり房事のシーンがあるじゃねぇか!しかも、まだそこそこ序盤だぞ! 「房事の描写はめちゃくちゃ拘ったって先生言ってたよ」  によによ笑いながらダーランが揶揄ってくるので無言で軽く蹴ってやった。  自分がモデルじゃなきゃもう少し楽しく読めたかもしれんがもう無理だ。結局、房事のシーンを飛ばしつつも半分程目を通した所で羞恥心に負けてダーランを見遣る。 「報告! 連絡! 相談!」 「したら絶対却下したでしょ? ダメだよ、売れる作品にするなら中途半端な事せずに押さえるとこはきっちり押さえなきゃ。前も言ったけど、俺結構怒ってるんだからね。やるなら徹底的に相手を社会的に抹殺してやらないと。ついでにうちが儲かるなら万々歳!」 「お前が大事なのは一番最後のだろう。それに、向こうが社会的に死ぬ前に私が羞恥で死にそうなんだが?」 「下地が出来て一石二鳥でしょー? この話が本当の事だと広まれば民衆を味方に出来る。そうすれば、リアは色んな事がもっと動かし易くなる。アイツらは立つ瀬が無くなっていく」  にっこり笑ってそう言われればぐうの音も出ない。全体的にはダーランの言ってる事に理があるんだが、それはそれとして俺のプライベート的な問題がだな! 「そんなの有名人の宿命だよ」  言い返そうと思ったが、言いたい事を察したらしいダーランから先ににこやかにそう切り捨てられて俺は黙るしかなかった。いつの時代も偉い人や有名人のゴシップは民衆の大好物だもんな……。そんなに流行らない事を祈ろう。ひっそりで良いんだ、ひっそりで。 「ところで、豪華版だと言ってたな。通常のもあるのか?」 「もっちろん! まずは豪華版なんだけど拘り抜いた装丁に高級紙を使用、豪華版特別仕様の短編収録で通常版の三倍の値段で用意した。貴族や金持ち向けに作ったけど、これが何と予約だけで即日完売しましたー! 先生とオルディーヌ嬢のアドバイスで部数増やしたけど、それでも全然足りなかったわ」 「……」 「通常版も注文すごい入ってるよ。発売は来週の頭だけど既にフェガロフォト出版で一番の冊数更新して今は増刷予定立ててるところ」  満面の笑顔で言われて俺は頭を抱えるしかない。ダーランが御機嫌だった理由はこれかー!  この世界では本は庶民でも買えるものではあるが、高価な事には変わりない。それが、飛ぶように売れるとなったらそりゃこの顔にもなるだろう。金儲けの事となると血も涙もなくなるダーランの容赦の無さを甘く見ていた。  そこまで話が進んでいるものを今更止めることは出来ないだろう。というか、もう止められない段階まで来たから俺にこの見本誌を寄越してきたな、コイツ。  出版されたら俺はしばらく引き篭もるとしよう。人の噂も何とやらだ。 「あともう一個報告ねー。ウィリアムズ商会がうちの傘下に入ったから」  にこにこ顔であまりにもさらりと言われた言葉に理解が追い付かずに思考が止まる。えーっと、今なんつった? 「……ウィリアムズってロビン・ウィリアムズの実家か?」  恐る恐る尋ねるのはステラの取り巻きの中で最も攻略が簡単で唯一の一般人枠であるロビン・ウィリアムズだ。  彼の実家は大きな商会をやっていて、現状ではロアール商会に代わってステラ達の取り引きをしていた筈だが……。 「そうそう、そのウィリアムズ商会ね。腹が立ったからさー、潰して来ちゃった!」  語尾にハートか星でもついてそうな軽さでダーランが宣う。散歩に行ったら綺麗な花が咲いていたからむしって来ちゃったみたいな無邪気さでとんでもない事を言われても反応に困る。  ぶっちゃけロビンはそこまで関係なかったから放置するかと思っていたんだが、預かり知らないところでまさかの制裁が下っていた。 「……だーかーらー! 報告! 連絡! 相談!」 「今してるじゃん。主導はうちの子飼いの商会だし、基本的にそっちに任せてたから俺はあんまり関与してないよ?」  悪びれもしないダーランはにこやかに答える。小首を傾げても可愛くないぞ。やってる事が凶悪すぎる。主導は子飼いとは言っているが、間違い無くコイツの差金だろう。絶対確信犯だ、これ。  ああ、駄目だ。頭が痛くなって来た。親指でこめかみをぐりぐりマッサージしながら溜め息を零す。天気が憂鬱だとか言ってたけど、それより憂鬱な展開が来たな。王都の方は一体どうなってるんだ。  実益と癒されたいのとで早いところラソワの伝書竜が欲しいなと思ってしまう。  諸々のゴタゴタが終わったら本気でオルテガに竜を強請ってみようか。グラシアールから聞いた感じでは飼育環境も馬とそう変わらないらしい。餌は肉だが魔物の肉でいいし、厩舎も基本的には馬と同じ物を大きくすればいいそうだ。  小型の竜ならもっと飼うのは簡単だと言っていたし、本気でマイドラゴンが欲しい。小型竜は愛玩用でありながらしっかり関係が築ければ護衛にもなるらしいので一石二鳥だ。なーんて思考を現実逃避させる。  ……最近ダーランに振り回されてばかりな気がするが、正直この強引さに助けられている部分も多い。俺の考えだけではどうしても甘くなってしまう部分を、ダーランは容赦無く補完してくれるから。 「……あまりやり過ぎるなよ」 「分かってる。リアが本当に嫌がる事はしないから」  にんまりとチェシャ猫のように目を細めて嗤う男を見ながら、疲労感を覚えた俺は隠しもせずに深い溜め息を零した。
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