56 熱と匂いと羞恥心と

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56 熱と匂いと羞恥心と

56 熱と匂いと羞恥心と    ヤロミールに手を握られた俺はどうしようかと必死で頭を回転させていた。  とはいえ、「俺」の時も「私」の時もこういうタイプの者に絡まれた経験がないからどう対応すれば良いのかわからない。やっぱり慣れない事なんてするもんじゃないな……。  ダーランもいるし、護衛が廊下にいるのも分かっているから大事には至らないだろうが、下手するとトラウマは出来そうだ。  何とか穏便にこの場をやり過ごす方法はないか。  必死で考えている俺の視界の端でダーランが面白そうにニヤニヤしているのが見えるのが腹立つな。後でしばいてやる。  いずれにせよヤロミールに頼みたい物はまだ出来ていない状態だ。今日のところは大人しくかつ早々にお帰り願いたい所なんだが……。  キラキラした紫色の瞳は期待に満ちて俺を見ている。何かを命令するまで俺の手を離す気もなさそうだ。  とりあえず、街にある宿で待機とか言っとけば離れてくれるだろうか。うーん、難しいか。なんかないかな……。  そんな風に悩んでいれば、不意に階段の方が騒がしくなる。俺の執務室は二階の一番奥にあるから様子がよく分からないが、階下で何かあったのだろうか。  激しい足音がしたと思ったら俺の手を掴んでいたヤロミールが軽く吹っ飛ばされ、俺は何か熱いものに包まれる。同時に香るのは濃いオルテガの匂いだ。 「リア、無事か?」 「っ……!」  状況が飲み込めないまま、耳元で響いた切羽詰まったような低い声に思わずゾクゾクしてしまう。  頭が理解するよりも早く体が反応する。  自分を包み込む熱と匂いはずっと渇望していたものだ。  オルテガが帰ってきたのだと漸く状況を飲み込んで顔を上げれば、旅の間碌に身繕いもしていなかったのか無精髭の生えたオルテガの顔があった。  うわ、これはこれでやばいな。いつもよりワイルドで格好良くてついドキドキしてしまう。無精髭が似合うってのはこれまた狡い。 「フィン……」  名を呟けば、夕焼け色の瞳が蕩け、硬い掌が俺の頬を撫でる。それだけで虚無感に苛まれていた心が満たされる気がした。 「遅くなったな。もう少し早く帰ってくるつもりだったんだが」 「いや、十分早いよ。……おかえり」  当初想定していた日数の半分以下で帰ってきたのだから、ものすごく早いと言っていい。俺のために寸暇を惜しんで早駆けしてくれたんだろうか。そう考えるだけで堪らなくなる。  広い背に腕を回して抱き付けば、いつもより濃いオルテガの匂いが俺を包み込む。うわ……これは本当に宜しくないな。胎の奥が疼くのを感じて思わず身動ぐ。 「……それで、アレはなんだ?」  発情しかけていた俺は唸るようなひっくい声に現実に引き摺り戻された。  背筋が凍るとは正にこの事だろう。一気に落ちた周辺の空気感にヒュッと息が詰まる。  抱き込まれているので様子は分からないが、オルテガがヤロミールを睨み付けているのだろう。彼が吹っ飛ばされた方向からは引き攣ったような微かな悲鳴が聞こえる。 「ええと、アレはだな……」  うーん、何て説明したもんか。  碌な先触れもなく、昨晩いきなり押し掛けてきて「嫁に来ると聞いていたのにいつまで経っても来ないから迎えにきた」と宣った男だと正直に話したら間違い無くヤロミールの首が飛ぶ。物理的に。  せっかく使えそうな奴なんだし、無駄に血を流すような事態は避けたい。それに、ミナルチークに反撃の口実を与えてしまうのもまずい。 「私の狗だ。可愛いだろう?」  咄嗟にさっきまで話していた内容を告げれば、オルテガが一瞬怪訝そうな顔をする。まあ、そういう顔になるよな。オルテガはセイアッドに対して盛大にフィルター掛かってる感があるから。 「……随分躾のなっていない狗のようだが?」 「飼い始めたばかりなんだ。多少の粗相は許してやって欲しい」  怒っているのか、オルテガの声が硬い。オルテガからしてみれば、俺のお願いで魔物を狩りに行って帰ってきたら見知らぬ男が俺に迫ってたんだから怒りもするか。  小さく溜め息を吐いてからヤロミールを睨み付けているであろうオルテガの頬に手を添えてこちらを向かせる。案の定、夕焼け色の瞳は不機嫌そうだ。 「そんなことより、私がお願いした物の首尾はどうなんだ?」  真っ直ぐに見つめながら話を逸せば、ヤロミールよりも自分の事柄の方に興味がある事に満足したらしい。無精髭のはえた顔で小さく笑うとオルテガが俺の額にキスを落とす。 「頼まれた分の2倍は確保した。思ったよりサーデが生えていなくてな。根刮ぎ狩り尽くしてもその量しか獲れなかった」  サーデのサイズがどれくらいなのか、どんな魔物で生態系においてどんな役割をしているか全然分からないが、その近辺は更地になってそうだな……。しかし、それだけあれば十分だろう。 「ありがとう。それだけあれば大丈夫だ。私が欲しい物が作れる」  これでステラの所業はある程度妨害出来るだろう。ただつけているだけで周りの好感度が上がるなんて厄介な代物を奪った上で真逆の効果がある物を渡せるだけでも大きい。  しかし、まだ油断は出来ない。オルテガの香水が俺に対して影響があったように、個人に対して効果を示すアイテムが他にも存在している可能性がある以上油断する訳にはいかない。 「ダーランは直ぐにサーデの蜜をリクオルに届けてくれ。ヤロミールは私の指示があるまでこちらが指定した宿で待つ様に。……良い子で待てるな?」  オルテガに抱かれたままヤロミールの方へと視線を向ける。  ヤロミールはオルテガに吹っ飛ばされた際に尻餅をついたようで、そのまま睨まれて立てずにいたらしい。だが、俺の視線を受けて頬を赤らめると彼は素直に何度も頷いて見せた。  良かった、オルテガの威嚇に萎縮してやる気が無くなっていたらどうしようかと心配していたが、どうやら杞憂で済みそうだな。  同時に、俺を抱き締めるオルテガの腕の力が強くなるのを感じて堪らなくなる。隠さなくなった独占欲を見せ付けられているような気分だ。 「やれやれ、後の事は俺とアルバートさんでやっとくから。お二人はどうぞごゆっくり」  呆れたように呟いたダーランが立ち上がる。ひらひらと手を振って執務室を出ると彼は座り込んだままのヤロミールの首根っこを掴んで引き摺りながら歩き出した。俺とそんなに体格も変わらない細身のくせにどこにそんな力があるんだ。  引き摺られていくヤロミールは何やら言いたそうにしていたが、廊下の角で待機していた護衛の男に担ぎ挙げられ、そのまま視界からフェードアウトしていった。同時に周りにいた使用人や他の護衛達も潮が引くようにいなくなり、俺とオルテガだけが取り残される。  途端に襲ってくるのは羞恥心。オルテガが帰ってきた事に浮かれて全然周りが見えてなかったが、ヤロミールの騒ぎで集まっていたらしい家の者が大勢いたようだ。やばい、これは死ぬ程恥ずかしい。 「……とりあえず私の部屋に行こう」 「ああ」  羞恥に悶える俺とは対照的に、オルテガは楽しそうな声で返事をした。
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