8 悪夢

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8 悪夢    花を見た。  それは懐かしい光景だった。小さいけれど、ずっと憧れていたゲーム制作に関わる会社に就職して希望に満ちていた春の日の思い出だ。  決して綺麗とは言い難いけれど、滔々と流れる川面に淡いピンクの花筏。川沿いの遊歩道には花見をしながら散歩する人達が沢山いて賑やかで。そんな道を、大学卒業したばかりの俺は歩いていた。  入社式を翌日に控えた春休み最後の日。ゲーム制作に関われる事が嬉しくて待ち切れずに新しく越したばかりのワンルームから会社まで散歩した、そんな風景だ。  俺の勤める会社は川沿いにあって、整備された遊歩道には桜並木があった。窓から見える景色は四季折々に色彩を変え、道行く人々を眺めるのもまた楽しくて。  浮ついていた俺は清々しい気持ちで道を歩いていた。しかし、それまで頬を撫ぜていた柔らかな風が不意に失せる。同時に色彩に溢れていた筈の世界から少しずつ色が抜けて薄暗い灰色になっていく。  驚き戸惑う俺に追い討ちを掛けるのは後輩や上司の声だ。頭上から重なり混ざりぐちゃぐちゃの騒音となって降り注ぐように響くその声から逃げるように耳を塞ぐ。  声は止まない。脳に心に刻み込まれた嘲笑も侮蔑も塞いだ耳を通り越して。  いつまでも、いつまでも。声は止まない……。   「……ア……リア!」 「っ!!」  低い声と体に触れる熱に急激に意識が覚醒して飛び起きた。じっとりと嫌な汗をかいた体は重く、心臓がドクドクと暴れている。  ああくそ、なんて酷い夢だ。そう内心で毒を吐きながら胸元に垂れている長い黒髪をぐしゃりと握る。早鐘のような鼓動は未だに落ち着かず、カタカタと体が震えていた。  乱れた呼吸を整えようと深呼吸しているうちに視界に水で満たされたグラスが差し出される。そろそろと視線を上げれば、心配そうな顔をしたオルテガがいた。  ああ、そうだ。俺は今「俺」ではない。ここには上司も後輩もいない。そう言い聞かせていても震える体は碌に言う事を聞いてくれなくて、グラスが上手く受け取れず、水が少し零れてシーツを濡らした。 「……悪い」 「気にするな。悪い夢でも見たのか?」  グラスをベッド横の小さなテーブルに置くとオルテガが抱き締めてくれる。眠りに落ちる前にも抱き合っていたから互いに何も身に付けていない。素肌に触れるその熱と匂いに深い安堵を覚えて身を任せれば、大きな手が子をあやすように撫でてくれた。それだけの事なのに、あれ程暴れていた心臓と心が徐々に落ち着いてくる。  ほっと息を零せば、不意に耳元を低い旋律がくすぐった。驚いて見れば、オルテガが俺を抱き締めたまま歌っている。  その歌は古い歌だ。レヴォネ領に昔から伝わる子守唄。今は失せてしまった古語で綴られたその歌詞は相手の平穏を願うものだ。 「……懐かしい歌だな。昔は「私」がお前に歌っていたのに」  広い胸に頬を擦り寄せながら「私」の記憶から想起するのは王都のタウンハウスで過ごして来た幼き日の思い出だった。  王都に構えたタウンハウスが近く、親同士の仲も良かったセイアッドとオルテガは物心付く前から良く一緒に過ごしてきた。引っ込み思案でインドア派のセイアッドと、活発でヤンチャなオルテガは正反対の性格でありながらも互いに尊重し合い、足りない所を補い合いながら共に成長してきた。  オルテガのヤンチャぶりは凄まじく、成長するにつれ勝手に魔物退治に出掛けたり、街に蔓延る裏家業の人間を叩きのめそうとしたりと貴族令息に相応しくない行動を度々起こした。その度に酷く叱られて臍を曲げては家出と称してレヴォネ家の屋敷に来たものだ。セイアッドは苦笑しながらもオルテガを受け入れて、彼を宥めるために良くこの歌を歌って聞かせた。  思えば、オルテガも焦っていたのかもしれない。代々騎士として名高いガーランドの一族に生まれ、優秀な兄の背を追い掛けて。それなのに、上手く出来ない自分に焦れて。  当時のオルテガは小柄で、まだまだ力も弱かった。幼い子供なら当然の事だが、己の体の成長の遅さにすら苛立っていたのだろう。そうやって荒れるオルテガを宥めるのはいつもセイアッドの役目だった。  いつだったかオルテガの父親に「リアは猛獣使いだな」なんて溜息混じりに揶揄われたのを思い出して思わず笑みが零れた。彼もオルテガには手を焼いていたのだろう。 「どうした?」  俺を抱き締めながら柔らかな声が問う。同時に顔や頭に幾度も落とされるキスがくすぐったい。 「いや、懐かしい事を思い出して。昔、お前のお父上に猛獣使いだと揶揄われたんだ」 「……それはうちでも良く言われた」  当時を思い出したのか、憮然とした表情になるオルテガの頬に触れ、昔のように髪を撫でる。俺のものよりも硬い髪は昔と変わらない感触がした。 「リア」  セイアッドを呼ぶ声も、表情も、この男は昔から何も変わらない。それが嬉しかった。  背中に腕を回してぎゅうと抱き付く。多少肉がついてきたとはいえ、先日まで骨と皮だけでもともと細身だった腕はオルテガに比べると随分細くて頼りない。  抱き締め返してくれる腕の力強さに身を任せているうちに、再び優しい旋律が紡がれる。温もりと低い声音に誘われるようにとろとろと睡魔が忍び寄ってきた。 「……まだ夜明け前だ。起きるのには早い。もう少し眠っておけ。今日から公爵を迎える準備を始めるんだろう?」  ああ、そうだ。スレシンジャー公爵に療養を受け入れると早馬を出したんだ。眠気に襲われながら思い返す。  スレシンジャー公爵家は俺にとって重要な駒の一つだ。何とかして俺の計画に引き入れなければ……。  必死で考えようとするが、宥めるように髪を撫でる大きな手に、誘惑するようなオルテガの声に逆らえず、俺の意識は再び眠りの淵へと落ちていった。
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