七 雷に抱かれて

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七 雷に抱かれて

「ねえ。例の話を聞いた?」 「うん、私、どうしようかと思っていて」 敷地内の女工の噂話を千波は思わず聞いてしまった。彼女達は深刻そうに話し合いをしていた。 内容からどこかに行く話の様子だった。庭の掃除をしていた千波は他の用事もあったため、この場を離れた。 「おはよう。朝から精がでるね」 「おはようございます、旦那様」 千波は深留に挨拶をした。寝ぐせであくびの彼におもわず笑みがこぼれた。 その笑顔に深留は胸がドキとした。 ……こんな風に笑うんだな。 いつもどこか寂し気な様子の千波であるが、今朝の自然な微笑に深留は頭をかいた。 「旦那様、今朝は朝からお客様ですよ」 「そうだった。はあ、着替えるか」 やれやれで着替えに向かう深留の後ろ姿を千波は愛しく見ていた。 ……少しずつだけど、お仕事に慣れてきたみたいね。 彦三郎の姪として手伝うようになった千波はこうして一か月が過ぎようとしていた。 この日、通いの婆やの食事の手伝いを済ませた千波は、さっそく紬問屋「相崎」の事務仕事を開始していた。そんな帳場に女工の三人が話にやってきた。 「番頭さん、私達、明日、早帰りしたいのですがいいですか」 骨折した右手は未だ吊ったままの彦三郎は三人娘を見た。 「明日ですか、特に問題がないが、何か用事でもあるのかね」 「その、勉強会に」 「そうです!」 ……今朝、庭で話し合いをしていた人たちね。 思えば嫁時代、千波に冷遇をしていた娘達だった。当時は無視されていた千波であるが、彼女達はそれだけではく、洗った洗濯物を泥を付けたり、物を隠したりなどの嫌がらせをしてきた娘達だった。  そんな娘達は翌日、早帰りしていた。その時間、他の女工達はそわそわしているのが気になった。 ……何があるのかしら。みんな落ち着きがないわ。 千波は思い切って一人の女工に尋ねてみた。 「ねえ。早帰りした人はどこに行ったの」 「例のあれよ。女工訓練校の話よ」 「女工訓練校」 初めて聞く話であったが、千波は話を合わせて聞いていた。それは近日、女工訓練校なるものが始まり、その生徒を募集しているということだった。 「今日の説明会には三人が参加しているから、明日詳しく教えてくれるわよ」 「そう」 「だって。この相崎はいつ潰れるかわからないもの。あなたも早く決断した方がいいわよ」 話に夢中な女工はそういって去った。千波は話の大きさに困惑していた。 ……潰れるっって。そんなことはないのに。 確かに社長が交代し、体制は変わったが相崎には借金もないし、経営は継続状態であった。しかし女工達はそう思っていると千波は思った。 この日、彦三郎は外出であり深留にはまだ不確定の話はできないと思った。 千波はこの話を密かに調べることにした。 ◇◇◇ 「みんな集まったわね。これから話すことは秘密よ」 翌日の夕刻。相崎の女工達が密かに敷地の隅に集合した。千波も紛れて参加した。 「昨日の説明会はとても素晴らしかったです。私は女子訓練校に行く事にしました。 どこかうっとりしている女工は説明をした。それはその学校に通う事で、資格を得て今後の給与が倍増するというものだった。 「群馬の織物工場の女工達は家が一軒建つほどもらっているそうよ。でも結城の里ではそこまでじゃないわ。それは資格がないせいよ」 「そうよ。だから私達も学校に通って資格を取りましょうよ」 「それがあれば所帯を持ってもお金を稼げるのよ」 三人の話を聞いていた女工達は目を輝かせ口々に言い出した。 「私、行くわ!その女子訓練校に」 「私も!」 ざわつく様子に千波は思わず手を挙げて質問をした。 「あの、その学校に行くにはお金は?」 「もちろんかかるわ。資格を取るのですもの」 「学校の場所は?それに、その資格はどんなものなのですか」 しかし、多くの女工の話声で千波の質問は消えてしまった。そして解散したが、千波と途中まで一緒に帰る女工達は口々に参加を表明していた。 「千波さんも行きましょうよ」 「……その前に、その学校を詳しく調べないといけないわ」 「どういう意味?」 「だって。お金だけ払って資格が取れなかったら嫌じゃない」 「まさか?!そんなはずないわよ」 千波の心配を彼女達はバカにしたが、千波は翌日、先導している女工三人に詳しくたずねてみた。 「どうしてそこまで聞くのよ」 「何か気に入らないの」 「違います、その」 千波は必死に尋ねた。 「例えば、学校を途中で辞める場合があるじゃないですか。結婚とか、ケガでできなくなるとか、その時はお金を返してもらえるのかなって」 「……まあ、それはあるかもね」 「で、どうしろっていうのよ」 苛つく三人に千波は必死に頼んだ。 「その女工訓練校の人はどこにいるんですか?私、直接聞いてきます」 千波の熱心さが面倒だったのか、三人は責任者がいる場所を教えてくれた。一人では不安だっ千波は国松を連れてやってきた。 「姉さん、住所はここだよ」 「本当にここで学校をするつもりかしら」 元倉庫だった建物には確かに「女子訓練校」の看板がでていた。様子を伺うと中から声がしていた。 「婆さんが通うって。それはねえだろうな」 「金は持っていそうだが、年寄りはだめだ。家族がうるさい」 ……やっぱり怪しいわ……よし。 国松にここで待てと目で合図した千波は、深呼吸をし声を発した。 「すみません、入学についてお尋ねしたいのですが」 「どうぞ!」 声のトーンが上がった玄関はすっと開いた。千波は中に入った。 「私、友達にお話を聞いてきたんですが、詳しく知りたいと思って」 「どうぞ、何でも聞いてください」 ……織物の器具があるわ……それに本もあるけれど。 「お嬢さん?」 「あ、すみません。私、不器用なのですけれど、私でも資格が取れるのでしょうか」 静々と尋ねる千波に美麗に整えた男二人は笑顔で答えた。 「もちろん!手厚く指導しますよ」 「わが社は群馬高崎にも支店がありますので」 「すごいですね!あの、どんな資格が取れるのですか」 確かに近年、女子技工学校の設立の話はある。しかしそれは公の学校であり織物組合が運営するものと千波は亡くなった大旦那から聞いていた。 ……この人たちがそうとはとても思えないわ。 千波が疑うのも知らず、男達は微笑んだ。 「この資格を取れば同じ仕事でも給与が跳ね上がりますよ」 「そうです。資格を取る時は料金が発生しますが、一生ものですからね」 「そ、そうですね」 最期に会社の本社の住所と社長名を尋ねたが、彼らは名刺を切らしているといい、教えてくれなかった。 「何かあればまたここに来てください」 「いつでも待っていますよ」 「ありがとうございました」 挨拶を交わし出てきた千波は、国松を見てほっとした。彼はそっと駈け寄って来た。二人はここを後にして歩き出した。 「姉さん、調べておいたよ」 「どうだった?庭の方は」 話し合いの最中、建物を調べた国松は、中には何もないと言った。 「お酒の空瓶が勝手口にいっぱい出ていたよ」 「やっぱり訓練校じゃないわね、ここは」 そして、近所の人にも様子を尋ねた千波は彼らは学校設立としての活動をしていないと知った。 「他に何か気が付いたことはありませんか」 「とにかく連日若い娘さんが出入りしているから、何かと思ったよ」 「そうでしたか」 「ところでお婆さん。奴らはいつからここにいるんだい?」 こうして千波と国松は女子訓練校が怪しい団体であると確認した。 翌朝、千波と国松は密かに深留と彦三郎にこの話を打ち明けた。 「旦那さん!あれは騙しの学校だよ」 「国松君は静かに!あの、旦那様、他の店の旦那さんにこの話を聞けないですか?他の店の女工も騙されているかもしれませんもの」 国松と千波の話に深留はうなった。 「そうだな。幼馴染の店に聞いてみるか」 「そうした方がいいですね。旦那様」 こうして深留は幼馴染の味噌屋に尋ねると、味噌屋の女子使用人がこの噂を吐露した。他にも同業者から聞き出した深留は店に帰り、女工達を集めこの話の説明をした。 「というわけだ。うまい話に乗せられないように!以上だ、仕事に戻っておくれ」 深留の話を聞いた女工達はざわつきながら職場に戻って行った。まぎれて参加していた千波はほっとしていた。 「ねえ、あんた」 「お前が旦那さんに話したんでしょう」 「どういう意味ですか」 「とぼけやがって」 首謀していた女三人は千波を織場の裏に連れ出し取り囲んだ。 「今の話は嘘さ!私達を辞めさせたくなくて言っているんだよ」 「そうさ!せっかくの良い話を」 「みんなはそれで幸せになるんだよ」 男達の話を信じている娘達は千波を殴り出した。 「止めてください。止めて」 「うるせえ」 腹いせもあり千波は袋叩きにあった。しかし、やられっぱなしの千波はだんだん腹が立ってきた。 ……こうなったら! 倒れていた千波は自分を蹴る女の足首を掴んだ。 「離せ!こいつ」 「ううう」 足を握られた女は千波の手首を足で蹴ろうとした。その瞬間、千波は手を離したため、娘は地面に足を叩きつけた。 「ああ、足をひねった?痛」 「はあ、はあ」 そして立ちあがった千波は自分を殴って来た女の髪を掴んだ。 「痛い!離せよこの野郎」 「てめえ、その手を離せ」 そして殴って来た女を千波は髪を掴んでいた女で盾にした。その結果、女は仲間の女の顔を殴ってしまった。 「痛!」 「……あ、歯が」 地面には抜けた歯が落ちていた。殴った女は拳を傷め、痛みで顔をゆがめていた。 「くそ……」 「ううう。歯が」 「覚えていろよ」 彼女達は悔しそうに去って行った。 「姉さん、そこにいるのは姉さんかい」 「くにまつくん……」 「姉さん……おいら、誰か呼んでくる」 「いいの。手を貸して頂戴」 土にまみれた千波は立ちあがった。切れた唇、頬に一筋の傷。腹を抱えた痛々しい姿に国松は悲しそうな顔になった。 「姉さん、本当に大丈夫?」 「……明日は休むって、彦さんに言っておいて」 「うん」 よろめきながら歩く千波を国松は長屋まで送ってくれた。夕日の中、大通りを避け小道を進む二人には火の見やぐらの高台が見えていた。 「姉さん。この事、おいらから旦那さんに話しておくよ」 「いいの、言わないでちょうだい」 「どうしてだよ」 「そうね……どうしてでしょうね」 遠くのカラスを見ながら千波もそう思った。 「意地かな……」 「意地ってなんだよ」 離縁された夫のために働く自分は、何のためにここにいるのかと、千波も思った。 「……私なんかいなくても良いのでしょうけど、でも、そうね……私が少しでもここにいた、っていう(あか)しが欲しいのかもしれないわね」 「証し」 「うん。そうじゃないと、ここにいた意味が無い、というか。私が生きている意味が無いような気がして」 相崎に嫁として過ごした一年余り。誰にも褒められもせず幽霊のように暮らした時間であったが、自分が去った後、相崎が寂れてしまえば、自分の嫁時代が無駄になるような気がした。 それに自分は元相崎の嫁とは名乗れない千波は、今回の被害を誰にも言うつもりはなかった。 血が滲む体でそう話す千波に国松は彼女を支えながら歩いてくれた。そして長屋まで送った国松は、千波が布団に休んだのを見届け走って帰って行った。 ◇◇◇ 「今朝は千波さんは休みか」 「はい。それと、例の娘達ですが」 翌日の相崎の帳場にて彦三郎は、八名の女工が退職届を出したと告げた。 「説得しましたが、意志が固く無理でしたね」 「八名は痛手だな」 「いえ。こう言っては何ですがね」 仕事も遅く素行が悪い女工だったと彦三郎は淡々と話した。 「それに、彼女達が決めた事なので、もう関係ないかと」 「そうか」 後味は悪いが相崎ではそう決着がついた。 その後、幼馴染の味噌屋で深留は話の続きを聞いた。 「深留!すごい話だぞ。例の女子訓練校は入学金を納めたら、翌日にはもぬけの殻だって」 「ひどいな」 若旦那の達治は興奮しながら話した。 「ああ。他の織物の里でもやっているらしい。入学金を借金して収めた女工もたくさんいるらしいぞ。もう嫁にはいけないな」 「はあ……世も末だな」 着物のたもとに手を入れた深留のため息に、達治は声かけた。 「それはそうと、深留、お前の嫁さんはどうしたんだ」 「え」 「みんな姿を見ないって心配しているんだぞ」 彼の奥方がお茶を出す中、達治は不思議そうに尋ねてきた。葬式時に居なかったのは体調不良ということになったが、彼は気にしていた。 「今だから言うけどな、亡くなる前、お前の親は大変だったんだぞ。親父さんはまあ、耄碌(もうろく)してな。訳の分からない事を言ったりしていたけど、嫁さんはよく一緒に散歩していたぞ」 「そ、そうかい」 「お袋さんはまあ、きつい人だったじゃないか。でも、良く我慢して世話してるって、近所の人やうちのお袋が感心していたんだよ」 「……そうだったのか」 そこに、彼の妻の茜が顔を出した。 「深留さん、あの『チンドンさん』て女は何なんですか」 「『チンドンさん』ああ。それは」 ……リヨのことだな、ああ。 深留は恥ずかしそうにこぼした。 「あれは、京都時代に知り合ったモデルの娘なんだ」 「奥さんは見かけないし、あの女がいますものね、もしかしてあの派手な人を奥さんにする気なんですか」 「そ、それは」 「おいおい、茜。人の家の事に口出しするな」 夫にとがめられた味噌屋の若妻は奥の部屋に引っ込んだ。深留は今度飲みに行こうと約束し、店をでた。 ……ん?あれは国松じゃないか。 ため息つく暇もなくどこかへ行く様子の彼を見つけた。深留は思わず国松の跡をついて行った。角を曲がるとそこは長屋だった。国松は慣れた様子でとある家の戸を開けて入って行った。 深留は様子を伺った。 「姉さん、どう。熱は下がったかい」 「ありがとう。だいぶ良くなったわ」 ……この声は。もしかして。 「あの女達。やっぱり騙されたみたいだよ。姉さんをこんな目に遭わせたんだもの、いい気味さ」 「そんな事を言ってはいけないわ」 「だって。姉さんはこんなに」 「あの、失礼するよ」 居ても立っても居られない深留は、戸を開いた。 「だ、旦那さん、どうしてここにいるの?」 「それは私の台詞だよ。国松、ここは千波さんの家なんだね。何が遭ったんだ」 古く傷んだ長屋の千波は布団に横たわっていた。深留はまっすぐ彼女に向かった。 「ひどいケガだ……それに、熱があるのか」 「旦那さんあのね、姉さんは」 「国松君、それは」 「いいんだよ、旦那さん。姉さんはあの三人にやられたんだ」 女工に責められ怪我をした千波はその夜熱を出し寝込んでいると、国松は話した。 「でもどうして千波さんが」 「旦那さんに騙し学校の事を告げ口したって思われたんだよ」 「国松君、もういいのよ。私もやり返したし、旦那様、ご心配を掛けました」 「千波さん……」 千波は布団から身を起こし笑顔を見せた。 「それよりも、彦さんのお仕事は大丈夫でしたか。私は明日から行きますけれど」 寝間着の白地の浴衣は朝顔模様。見える腕には赤い傷が見受けられ、かき上げた黒髪は静かに揺れていた。 千波の目は自分を心配するように潤み、深留は思わず彼女の側に寄った。 「無理しなくていいよ。治るまで休んでおくれ」 「でも、本当に大丈夫ですよ」 「だめだ。国松、お前は明日も見舞いに来てやってくれ」 「いわれなくてもそうしますけど。あ!おいら水を汲んでくるんだった」 国松は樽を持ち外に水を汲みにいった。部屋には二人だけになった。 「すまない、君を守れなくて」 「旦那様のせいじゃありません。あ、夕立だわ」 ざあさと大雨が降って来た。国松は井戸端で雨宿りのようで戻ってこなかった。 「すごい雨ですね」 「ああ。まるで『この世の終わり』のようだな」 「ふ、ふふ」 大げさな深留の言葉で千波はコロコロと笑った。 ……ああ。この人はなんて。 「千波さん。あの……あ、光った」 「え?きゃああ」 「おっと」 雷の轟きに千波は深留にしがみついた。 「雷は苦手で……」 「大丈夫だよ、あ、また光った」 「う!すみません、どうしても」 「いいんだよ、収まるまで、こうしていよう」 雷に震える千波を深留は小さく肩を抱きしめていた。 ……こんなに華奢な体で、一人で耐えていたなんて。 雨が屋根を叩く轟音、雷鳴、稲光は二人を抱かせていた。 紬の里結城には、暑い夏がやってこようとしていた。 六話「雷に抱かれて」完
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