八 二重の虹

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八 二重の虹

「姉さん!旦那さん!」 「あ。国松君」 「国松か、雨は上がったか」 「とっくですよ。もう、何をしているだよ!」 抱き合っていた二人の内、深留をじっと睨んだ国松は、台所の水瓶に水を注いでくれた。 どこか呆れた顔の国松はさてと、千波を見つめた。 「姉さん、おいらは帰ります」 「ありがとうね。明日は私、相崎に行くから」 「無理しないでくださいね、ほら!旦那も帰ろうよ」 「あ、ああ。では千波さん」 「お見舞いありがとうございました」 千波は見送りに玄関まででてきた。二人は遠慮したが千波は戸口に立った。 「本当にお世話に……あ?見て」 「どうしたの。あ、すごいや」 「どうしたというんだい」 訳が分かっていない深留の隣に立った千波はそっと指した。 「旦那様。ほら、虹が」 「おお……綺麗だね」 「姉さん!大きいね!」 すごい!と騒ぐ国松であるが、深留は目を凝らしていた。 「いや、二人ともよく見て見ろ。虹が二重になっていないか」 「二重……うわ!本当だ」 「どこですか?私は」 「あそこだよ」 深留は病み上がりの千波の肩をそっと抱き、指した。千波は大きく息を吸った。 「……綺麗……私、二重の虹って、初めて見ました」 「おいらは三つ目を探してみます!」 「おいおい。足元に気を付けろよ」 深留はいつの間にか千波と一緒に虹を眺めていた。 「旦那様、あの。手を」 「あ。すまない、つい」 無意識に千波の手を握っていた深留に千波はくすくすと笑った。 そして虹が消えた中、二人は千波に手を振られながら後にした。 「国松よ。千波さんはあの家で一人暮らしなのか」 「そうだよ」 「……独り身なんだろう」 「そうですけど。旦那には関係ないですよね」 痛いところを突く少年に深留は、一呼吸を置いて答えた。 「まあ、それはそうだな」 雨上がりの道は泥だらけだった。やがて用事があるという国松と別れた深留は帰り道、思いにふけっていた。 ……関係ないか、確かにそうだな。 確かに千波は使用人。それに自分には恋人がいる。しかし、深留は夕日を見上げた。 ……もう、自分に嘘をつくのは止そう。どんな目に遭ったとしても。 もう虹は見えなかったが、深留は決心し、自宅に帰って来た。 「おかえりなさい。あのね、お願いがあるの」 「……ちょうどよかった。僕からもあるんだよ」 美しい友禅の着物姿で化粧を施したリヨは、背後から深留に抱き付いた。 「ねえ、一度、京都に帰ってもいい?向こうでしか買えないものがあるの」 「いいよ」 「いいの?本当に帰って」 「ああ」 深留はそういうとタンスを開け、封筒を取り出し、リヨに渡した。 「こんなに使っていいの?」 「ああ、自由にどうぞ」 「嬉しい!これだけあれば相当滞在できるわ」 「それは滞在費じゃないぞ」 深留は冷たい目でリヨを見つめた。 「手切れ金だから」 「手切れ金って。じゃあ誰に払うの」 「お前にだよ」 「え」 驚くリヨに深留は淡々と続けた。 「お前の荷物はこっちから送るから、とにかくその金を持って出て行ってくれ」 「どうして急に。私はここの奥さんになるんでしょう」 「……なれないよ。リヨ、きいてくれ」 深留は、悲し気な目でリヨを見つめた。 「確かに私はお前に惹かれていた。いつも明るくて元気で一緒にいて楽しかったんだ」 「だったらどうして?!これからじゃないの」 縋るリヨに深留は顔を背けた。 「お前はいつも自分の事ばかりじゃないか」 「そんなことないわ!これでもあなたの事を思って」 「金を使いそんな着物で贅沢をして、従業員達を虐めてか?」 ここでリヨは深留が本気だと気が付いた。 「綺麗な着物を着るのが何が悪いの!私はここの妻になるのよ」 「リヨ。うちは紬の店なんだぞ」 深留は彼女を見下ろした。 「お前が着ているのは友禅じゃないか」 「こ、これは来る時から持っているものだし、それに紬は地味なんだもの」 「お前は紬を侮辱する気か?」 深留は身を掴むリヨの手をほどいた。 「いいか!紬はな、生活に密着した暮らしのものなんだ!地味かもしれない、安値かもしれない、だがな!これをみんなこれを着て毎日を過ごしているんだ」 「何よ、そんなの分かっているわよ」 「リヨ、お前、結城に来て一度でも紬を着たか?」 「え、それは」 「僕は一度も見ていない。しかも香典はどうした?お前が預かると言った金はどこにもないじゃないか。そんな女を嫁にできると思うか?」 「深留さん……ごめんよ、私が悪かった」 「さあ、明日でもいい。出て行ってくれ」 深留は彼女を見下ろした。 「お前は僕を侮辱したんじゃない。結城紬、すべてをバカにしたんだ」 「はあ、そうかい」 今まで必死に縋っていたリヨは、急に態度を改めてた。 「バカにしてるのはお前だろう?こんな田舎の店のボンボンが。ちょっと優しくしただけ良い気になりやがって。この私がお前のような男を本気で相手してると思ったのかよ?」 「リヨ」 ここでリヨは深留を一発殴った。 「おい。深留。ひとまずこの金は頂いていくよ。まあ、その地味な野良着を一生懸命作って行く事だね」 開き直ったリヨは封筒を握ると走り去っていった。 リヨが出て行った部屋で深留はため息をついていた。 ………京都でのリヨとの暮らしの楽しさは、親父とお袋と彼女の支えがあったからだったんだな。 構図の勉強をしたいという言い訳で、経営を継ぐのを避けた彼は、新妻を置き去りにし、京都でのんびり過ごしていたことを後悔し始めていた。 リヨは金が無いと言い、深留の部屋に転がり込んだ女であった。彼女とは遊び仲間で男女の関係はなく、今まで深留の身近にいなかった遊び上手な人間だった。 ……あの時、嫁が悪妻だと言ったのはリヨの弟だったし。 新妻は金目当ての女であり、父親の愛人だったという話を鵜呑みにした深留は、己の愚かさに唇をかみしめた。 リヨの弟の話に根拠はなく、あるのはこの相崎での妻の善行ばかりだった。 窓の外は蝉がうるさかった。深留はリヨの香りが残る部屋で深呼吸をした。 彼女との淡い思い出に終止符と、すべてに謝罪するように一人、頭を垂れていた。 ◇◇◇ 「おはようございます。よろしくお願いします」 「ああ。千波さん。まだ無理をしないでくださいね」 「彦さんは心配しないで。さて、と。あ」 「失礼するよ」 相崎の帳場に深留が顔をだした。千波は挨拶をした。 「おはようございます」 「ああ、おはよう。今日は千波さんに頼みがあるんだ」 「何でしょう?」 「ちょっと来てくれるかい」 深留はそういうと奥の部屋に彼女を連れてきた。その部屋にはたくさんの紙に書かれた図案があった。 「すごい量ですね」 「……そうかな、これでも一部だよ」 深留は図案を前にし、考え中だと頭をかいた。 「千波さんはうちが問屋だって知っていると思うけど。僕は図案作りが専門なんだ」 「旦那様はその勉強をなさっていたんですものね」 深留は帳面を手に取り説明をした。 相崎は問屋である。問屋には縞長といわれる柄見本が備えており、これを見本に問屋は織り屋と相談して織り柄を決めていく。 その注文通りに各職人が反物を作成し、完成品をこの問屋の相崎に持ち込んでくる流れである。 相崎ではその反物を買い上げ、東京など都会へ販売をしていた。 「結城紬は『千筋』『二筋』とか、これは『よろけ縞』だね。江戸時代の流行したものだ。まあ。一般的な模様が使いやすいから無難に売れるんだけどね」 「この斬新な図案もそうですか?」 「いや、それは僕が作ったものだよ」 「へえ……」 「紬も新しいものをつくっていかないとね」 ……やっとやる気がでてきたようね。 親を亡くし後継者になった深留がようやく美術の仕事をやる気になったことが、千波には嬉しかった。 「そうですよ。さっそく取り掛かってください」 「千波さんにも作品を見てもらいたいんだ」 「私ですか」 思わず自分の鼻を指し、寄り目になっている彼女に深留は微笑んだ。 「ああ、そうだよ。千波さんはそういう勉強をしてきたって彦から聞いているよ」 「でも、私なんかより、その」 千波はじっと彼を見つめた。 「奥座敷の、その、リヨさんが適任ではないですか?お洒落ですし、そのお綺麗なものに詳しそうだから」 「千波さん、そうじゃないんだ」 俯く千波の肩に深留は手を置いた。 「リヨには出て行ってもらったんだ」 「へ」 「……勝手な男と思うだろうが、とにかく彼女はもういないんだ」 「そ、そうだったんですか」 ……てっきり奥さんにするのかと思っていたのに。 道理で最近、姿を見ないなと思っていた千波は、深留の寂しそうな顔に息を呑んだ。 「大丈夫ですよ」 「え」 「きっと大丈夫です!旦那様なら立派にこのお店を盛り立てて行けますよ」 「そうかい」 「はい!彦さんだっているし、それに従業員のみなさんも、いつも一生懸命だし」 「……千波さんは?」 「私ですか、ええ、あのその」 深留は思わず千波を襖に追い詰めて手を付いた。 「千波さんは、いてくれないの?」 「い、いますよ。彦さんの怪我が治るまで」 「……どうしてそうやって僕の前からいなくなろうとするの?」 「そ、それは」 ……あなたが私を離縁したから! と、今さら言えない千波に、深留は顔を近づけた。 「とにかく。これからは千波さんに色々手伝ってもらうから」 「は、はい」 思わず返事をしてしまった千波に深留はニコ!とほほ笑んだ。 「さて、と。この中から千波さんが気になる図案を見つけて欲しいんだ」 「こんなにたくさんの中からですか?!」 「時間はたっぷりあるから。よろしく」 鼻歌まじりで深留は部屋を出て行った。千波はまだ胸の鼓動を押さえていた。 ……それでも、やるしかないか!ええと、どれどれ。 元々、紬の仕事は好きだった千波は、部屋いっぱいの図案の中、うきうきと用紙を手にしていた。それは昼食後も続行されていた。 「ん、旦那様、夕立のようですな」 「ちょっと席を外す」 「あ、ああ、どうぞ」 帳場にいた深留は廊下を進み彼女がいる部屋にやってきた。 「失礼するよ。そろそろ来るよ」 「え?雨……また雷?……きゃ」 「おいで」 光る前に深留は千波を抱きしめた。千波はおびえていた。 「すみません、お手数をかけて」 「いいんだよ、これくらい、あ」 「また!うう……どうしてこんなに雷が」 胸の中の千波に深留は嬉しい顔を見せずに抱きしめた。 「去年は冷夏で雷は無かったようだけど、ここは昔からこうだよ」 「こんなに雷があるなんて……どうしよう」 「あ、また光った」 「うう」 稲光の後、すぐに轟が聞こえてきた。 「ごめんなさい、お仕事中なのに」 「いいんだよ。これからも僕がいるから」 「そういうわけにはいかないです」 「あ、今度も近いよ」 「ううう」 ……ああ、千波さんといると心が安らぐな。 窓の外は激しい雨がどんどん落とす雫を減らしていた。 図案が広がった和室の二人はそれも知らずに抱き合っていた。紬の里、結城の夕暮れは穏やかに過ぎて行った。 七「二重の虹」完
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