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九 桑、芽吹く
「ああ、くそ!」
「リヨ、声が大きいよ」
「これが黙っていられるかい」
悔しいとリヨは酒を煽った。粗末な部屋の畳の上、胡坐をかきながらを手酌のリヨの相手の男はひやひやしながら部屋の外を伺った。
「ねえ、リヨ。これからどうするんだよ」
「知るかい!少しはその首の上にあるものを使って考えな!」
「首の上って……ああ、頭の事か」
「はあ……」
片膝を立てやさぐれたリヨは空になった酒瓶をバカらしいと倒した。
……ちきしょう!せっかく良いカモだったのに。
結城の隣町の寂れたアパートはこの男の住まいだった。この男は梅吉と言い、リヨの内縁の夫だった。
二人は姉と弟として深留に近づき、彼の財産を狙っていた。
そもそもリヨは深留よりも二十歳も年上であり、離婚歴が数回ある女である。
美しい顔は彼女の化粧術のたまものである。皺の顔の上にそれは見事な化粧を施し、世の男性を欺いてきた。
世間知らずの深留と同居していた時も、一度たりとも彼女は素顔を見せたことはなかった。女のたしなみと話すリヨの言葉を、過去の男達も信じていた。
そんな化粧美人の彼女は今までの手口はなんとかして金持ちと籍を入れ、その後、相手のせいにして離縁し、その際の慰謝料を目的としていた。
このご時世、妻に慰謝料を払わない風潮であったが、そこは梅吉が誹謗中傷を公にすると脅し、今までは多額の金を手にしていた二人だった。
「でも金をもらったじゃないか」
「これだけじゃないか。全然合わないよ!くそ、あの相崎にはまだ金があるはずなのに」
深留を騙すことができなかったリヨは皺だらけの顔で苛立っていた。このリヨを梅吉はそっとしておこうと、家の外に出た。アパートに帰るのもおっくうになった梅吉は、屋台の焼き鳥で酒を飲んでいた。
「旦那さん、隣の席、いいですか」
「どうぞ、どうぞ」
どこか美麗な男達は梅吉に酒を奢り世間話を始めた。
「そうですか、結城の里にいたのですか」
「へえ、でも。追い出されちまって、このざまですよ」
「どうぞお酒を、そうですか……紬の問屋の相崎ですか」
男達に酒をおごってもらった梅吉は、嬉しさもあり相崎の内情をべらべらと打ち明けた。男達は梅吉とリヨに同情してくれた。そして梅吉は千鳥足で帰って行った。
「では兄貴、相崎にするのか」
「ああ。それにあそこには借りがあるからな」
男は酒を飲んだ。
「ふう!あの店からの女工がもっと入っていれば利益は一桁違ったぞ」
「確かにな」
女子訓練学校の詐欺を働いた男二人は、焼き鳥が焼ける様子を見ていた。
「それに、今の男の話だと今の旦那は『もの知らずのボンボン』だ」
「そうだな。ではもうひと稼ぎといくか」
笑顔で乾杯した二人は、酒を飲み干していた。
◇◇◇
「こんにちは。すみません。近くに来たのでお線香を」
「あ、これはこれは、醤油屋の若旦那さん?千波さん、ちょっとすみません」
「はーい」
相崎の昼下がり。先代夫婦に線香を上げたいという醤油屋の若旦那を千波は仏間に案内した。
「すまないね。毎度毎度」
「いいえこちらこそ、月命日ですものね」
優し気な彼はそういって線香を上げた。その間、千波は麦茶を淹れてきた。
「どうぞ」
「ありがとう……君はその。番頭さんの姪なんだってね」
「はい。彦さんが怪我をしているので、お手伝いをさせていただいています」
「あの、相談なのだけど」
彼は恥ずかしそうに千波を見た。
「その。ここの仕事が終わったらうちに来ないかい?番頭さんの姪なら大歓迎なんだ」
「でも、私はお醤油には、詳しくないですけれど」
「いいんだよ。それは仕事をしながら覚えてくれれば」
「はあ」
ここで千波は名前を呼ばれたため、彼は帰って行った。見送った千波が帳場の席に座ろうとしたとき、また客が入って来た。
「あの。お線香を上げさせてほしいのですが」
「ええと、千波さん、いいですか」
「は、はい」
またしても千波は客を案内した。彼は深留の幼馴染の下駄屋だと話した。
「千波さんというんだね。番頭さんの姪だとか」
「はい」
「あの、これ良かったら食べてくれないか」
「お饅頭ですか。嬉しいです!さっそくみんなで、いただきますね」
「あ、ああ」
こんな調子で弔問客が絶えない相崎であるが、この報告を聞いた深留は、彦三郎に尋ねた。
「しかしだね、なぜ僕がいない時に来るのかな」
「いわれてみればそうですね。旦那様がいない時が多いですね」
……どうもおかしい。
首をひねる深留は、黙々と仕事をする千波を見ていた。
その真剣な横顔に彼は一抹の不安を抱いていた。
◇◇◇
「乾杯!どうもお疲れさん」
「はあ、この一杯がいいね」
「……ところでみんなにお礼を言いたいんだけどね」
幼馴染と久しぶりに料亭『菊屋』の離れ奥座敷で飲み会に来ていた深留は、彼らに尋ねた。
「うちの両親の月命日まで来てくれるのは嬉しいけれど、どうも腑に落ちないんだけど」
「そうか?俺はほら、生前世話になったから」
「俺もだよ。近くに行ったときだけだよ」
「……おかしいんだよな、しかも僕がいない時で」
怪しむ深留に話を聞いていた妻帯者の味噌屋の達治は笑った。
「そんなの決まっているだろう。番頭の姪っ子狙いだよ」
「え。千波さんを」
すると彼らは頬を染めた。
「だって俺はその、独身だからな」
「俺だってそうだよ!その、評判の娘さんだからさ、つい、会ってみたくて」
「呆れた……それが理由だったのか」
眉間に皺寄せる深留に、醤油屋の勝太郎と下駄屋の富男は詰め寄った。
「なあ深っ君。千波さんは番頭さんの怪我が治ったら辞めるんだろう?だったら俺の店に」
「お前は黙ってろ!あのな深留、千波さんは俺の店に」
「だめだ!絶対お前達にはやらないよ」
珍しく頑な深留に達治は片眉を上げた。
「へえ。珍しいな。でもさ深留。あの女はどうしたんだよ」
「そうだよ、チンドンさんだっけ?」
「派手な女だものな」
故郷の結城を離れて数か月前に帰って来た深留は、心許せる幼馴染に真実を打ち明けた。それは新妻を置き去りにし離縁し、さらに京都から連れてきた女に手切れ金を渡し追い出した話だった。
「道理で奥さんがいないと思ったよ」
「まさかお前がそんなことになっていたとは」
大人しそうな深留のしたことに勝太郎と富男は飲んでいた酒を思わず置いた。
しかし達治は酒を手酌した。
「お前は真面目過ぎたんだ……で、チンドン女とは縁が切れたのか」
「縁も何も、一緒に住んでいただけなんだ。リヨの弟も一緒だったし」
「どういうことだよ」
勝太郎の問いに深留はしみじみ話し出した。自分の作品を褒めてくれるリヨとその弟が住む所がないというので同居したのがきっかけであったこと。そして
男女の関係ではなかったが、相崎を一緒に継ぎたいと言ってくれたので、リヨを連れてきたと深留は打ち明けた。
「で、生活費はお前が出していたのか」
「うん……今にしてみればおかしかったと思うけど、当時はそうは思っていなかったんだ」
はあと幼馴染の三人はため息をついた。これに深留も悲しくつぶやいた。
「……でも、やったことはひどいと思っている。今更だけど」
しんとなった部屋で達治はたくあんを食べながら箸を回した。
「まあ、それでもお前は金を渡して、誠意を見せたんだ。相手は受け取ったんだから。終わりでいいじゃないか」
「まあ、そうだけど」
「でもさ、千波さんは俺の店に」
「だめだって俺の店だよ!」
ぎゅあぎゃあうるさい勝太郎と富男を背にした達治は深留に向かった。
「……というのが建前だがな。お前は気になるんだろう?」
「ああ」
「その、千波さんだっけ?良い娘らしいな、うちの嫁も道で会って挨拶したようで感じが良い人だって褒めていたぞ」
「……ああ、良い人なんだ」
深留は遠くを見ていた。
「だけどその、なんていうか」
「好きになるには『後ろめたい』とか、そんなところか」
「たぶん」
「まあ、女の立場からすればお前は最低なことをしたからな」
「はあ」
一番仲の良い彼は率直に話した。
「そのチンドンさんはさておいて。元嫁さんを気にするなって言っても気になるのだったら、いっそ、謝ってしまうのはどうだ」
「謝る」
「ああ。受け入れてもらえないと思うけど、そうでもしないとお前は前に進めないんじゃないのか。あ?バカ野郎、俺にも酒がかかったぞ!」
騒がしい酒の席で深留は思っていた。
……そうか、謝るか。
「深留!もっと飲めよ」
「そうだよ。ほらほら」
友人に悩みを打ち明けることができた深留は、少し心軽くなった。
こうして楽しい飲み会は終わった。
◇◇◇
「おはようございます、あら、どうされました」
「二日酔いで」
「あらあら。お水をもっと飲みましょうね」
夏の朝、百日紅の花が赤く燃える中、この日は母屋で深留は休むというので千波は母屋まで水を持ってきていた。
「どうぞ。縁側で横になったら涼しいですよ」
「うん……」
「待ってください。今、座布団を頭の方にしましょうね」
「千波さん、あのね」
世話をする千波に背を向け深留は甘えるように寝そべった。
「ちょっと聞いてほしいんだ」
「なんでしょう」
「僕に奥さんがいた話を知っているよね」
……なぜそんな話を?
驚く千波に彼は続けた。
「僕はね……最低な男なんだよ」
二日酔いなのか、深留は悲しく語り出した。千波は仕方なく聞いていた。深留は自分のしたことがいかにわがままで横暴であったと反省していた。
「調べもしないで妻を悪人と思ってしまって。僕はひどい男だろう」
「そうですね」
「ああ、やっぱり……」
落ち込む深留が千波はだんだん面倒になってきた。
「それで。何だって言うんですか」
「謝ろうと思っているんだ、奥さんに」
「そんなことをしても無駄じゃないですか」
「どうしてだい」
深留は寝ていた体を起こし、千波を見た。
「ねえ。どうして無駄なんだよ」
「それは旦那様のためにするからです」
「僕のため?」
うんと千波はうなづいてやった。
「旦那様は元奥さんのためじゃなくて、自分がすっきりしたくて謝るんでしょう?」
「僕のため」
「私が元奥さんだったら、そう思うと思います。すみません、失礼します」
茫然としている深留を背に千波は退室した。
この日、仕事を終えた千波は相崎を後にし、家まで早足で歩いていた。
「やあ。どうも」
「醤油屋さん、こんばんは」
「帰るところかい。家まで送るよ」
優しい言葉、優しい態度、それに彼の家は裕福だと千波は知っていた。しかし言葉はすらすらと出た。
「一人で平気です。またお仕事で」
そういうと長屋まで歩いた。なぜか涙が出てきた。
……今更謝るなんて。自分の都合ばかりで。
待っていれば彼は認めてくれると思っていた。逢って話せばわかってくれるかもしれないと思った時期もあった。しかしそれは過去だった。
寂しかった。孤独だった。新婚を夢見ていた分、悲しかった。
……ああ、でもあんなに悲しそうに。
今は深留の悲し気な目が忘れられなかった。千波はやっと家に帰り戸を背にした。
ここでどっと涙が出てきた。
……そうか、私も自分の事しか、考えていなかったんだ。
結婚が嫌だった深留の気持ち。千波と言う妻の苦労を知らなかった彼の都合。千波もまた彼の事を、気遣っていなかったと思い知らされた。
……ああ、雨だわ。
ざあと降って来た雨は千波の心を強く濡らした。雷が鳴ったが彼女を抱きしめてくれる人はいなかった。
翌日。相崎は休みだった。泣きつかれた千波であったが、この日は暑かった。洗濯する気力もない千波はそれでも玄関を開いた。
「やあ、どうも」
「え?旦那さん、どうしてここに」
深留は申し訳なさそうに立っていた。
「これを、君に」
「スイカですか」
ああと彼はうなづいた。
「昨日、そのつまらない事で、君を、怒らせてしまって」
……気にしていたのね、ずっと。
申し訳なさそうな彼に千波はぐっと目をつむった。
「私こそ、すみませんでした」
「いや?その」
「旦那さんは謝ろうとしているのに。無駄なんて言ってしまって。でもやっぱり奥さんはその気持ちが嬉しいと思います」
「千波さん」
「私も……自分の事ばかり考えて、旦那さんの気持ちをわかろうとしていなかったと思います、だからだから」
「ありがとう」
深留は必死に千波をふわと抱きしめた。深留は震えていた。
「本当にありがとう。頑張って奥さんに謝ってみるから」
「そ、そうですか」
「ああ」
……どうしよう。でも、今は。
深留の思いを千波はそっと抱きしめてから、帰って行った。
長屋には彼女の不安を打ち消すように風鈴の音色が響いていた。
六 「桑芽吹く」 完
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