十一 硯の心

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十一 硯の心

昼食時。彦三郎は深留に告げた。 「旦那様。元奥さんについてですが。現在、行方を捜しておりますので」 「ああ、何かわかったか?」 「まだですね」 「そうか」 前のめりの深留に対し、彦三郎は淡々と食べていた。そんな二人は帳場に戻っていたが、事務員が深留に尋ねてきた。 「旦那様、この反物はどうされます?」 「石下紬か、まだ買いに来ないのか」 欲しがっている人がいたため仕入れをした深留の言葉に、事務員は暦を見た。 「ええ、十日は経ちますね」 「十日?一週間で来ると言っていたはずなのに」 一緒に暦を見た深留は血相を変えた。この反物は高価で買い取りをしたため、事務員は困惑していた。 「まだ待とう。それよりも他の品だ」 ……もしかして。千波さんの言う通りだというのか。 彼女が詐欺による演技ではないかと助言した時、聞き入れなかった深留は、この事を千波に言えず心苦しくしていた。 「はあ。あ、国松、銭湯か」 「うん」 「僕も行く。待っていておくれ」 夕暮れ、深留は相崎を出て銭湯へ向かった。煙突からは銭湯の煙が上がっていた。 仕事と汗で疲れていた二人は、銭湯の湯に浸かっっていた。 「おう。深留」 「達っちゃんか。随分早い風呂じゃないか」 「お前もだろう」 味噌屋の達治は大きな湯船で手足を伸ばした。 「それにしても今日は暑かったな」 「ああ。朝からだもんな」 その時、女風呂から声がした。 「達っちゃん。石鹸貸して!」 「おう。今そっちに投げるぞ、それ」 すると女風呂からきゃああと笑い声がした。 「まったく、うちの嫁さんはそそっかしくてな」 「……さて、僕は上ろうかな」 ……奥さんか、いいな。 幼馴染の夫婦のやり取りを見ていた深留は、また落ち込んだ。そんな風呂上りの彼の背中を、国松は拭いてくれた。 「さあさあ!元気をお出しください」 「お前だけだよ。僕の味方をしてくれるのは」 そして深留は蛍飛び交う道を国松と一緒に帰っていた。 「そうだ!おいら、奥さんの事を聞きました」 「どうだった?」 「それが」 国松は道の石をそっと蹴った。それは元妻が冷遇されていた話だった。 「嘘だろう」 「まだ三人にしか聞いてないですけどね。奥さんは『水戸さん』って呼ばれていて、そして大奥さんの命令で、みんなでその」 「その?」 「……お嫁さんと口を聞いたり、顔を見たらいけないって、そういう決まりだったそうです」 「口を聞かない……では、みんなで無視していたのか」 詰め寄る深留に国松は驚いた。 「まだ調べ中ですよ。でも、番頭さんだけは仕事があるので水戸さんと話をしていたそうです」 「彦だけ?そんなことがあるのか」 そして国松は帰って行った。相崎に帰って来た深留は一人部屋で酒を飲みだした。 ……無視とは……一年だぞ? 置き去りにした嫁は、厳格な父と、気難しい母の世話をしていたのに、店中の人間に無視されていたという話を、深留は信じられないと酒を飲んだ。 しかし、その痕跡が確かにあった。それは両親が残した資産だった。 深留はその金の流れが記された帳面を見ながら酒を飲んでいた。 ……お袋は倹約家だったから。金の管理も全部も書き記してある。 そこには京都にいた自分への豊富な仕送り金額があったが、その他の支出の少なさに深留は目を疑った。最低の食事、最低の生活必需品の支出、そして両親の医療関係の金額が母の文字で書いてあった。 ……無い……まったく無い。嫁は何も使わせてもらえなかったのか? 毎月の相崎からの手当てと母の管理していた金額は一致していた。 これ以外、相崎から家族へ手当金は無いため、嫁には自由なお金はなかったと深留は判断した。 ……僕にはあんなにお金を送ってくれていたのに。 さらに毎月の出費は抑えられており、母は貯蓄もしていたが、その余裕を嫁に回した形跡は一切なかった。 あまりの非道に深留はこれ以上、読むのをやめて布団に入った。 ……僕のお嫁さん……この家では不幸だったんだな。 そんな嫁の話も聞かず、入院中の彼女を無視し葬儀をしてしまったことに深留は目をぎゅうとつむった。 ……僕を恨んでいるだろうな……最低だ、僕なんか。 夜、雨が降っていた。深留の心にも降っていた。 ◇◇◇ 「おはようございます。あれ?旦那様は」 「頭が痛いそうで、お休みです」 「そう、ですか」 多忙のせいだと思っていた千波は彼の分も精力的に事務仕事をこなしていた。 そんな中、千波は間違いの伝票を発見した。 「これ、数字が0ではなくて、6ですね」 「道理で計算が合わないわけだ、どうしようかな」 千波は柱時計を見た。 「明日が締め日なので、私、この染め物屋さんに行って伝票を差し替えてもらいますよ」 「申し訳ないですな」 そして千波は通りのはずれの染物屋に伝票を持ってやって来た。 「すみません、これなんですけど」 「待ってください、ああ、本当ですね」 染め物屋の番頭は自分の間違いと言い、伝票処理をし直していた。その間、千波は染め物の様子を見ていた。 ……懐かしいな、お父さんもこうやっていたし。 「いやいや。これは結城紬じゃないな、石下紬だよ」 「え、そうなのですか」 「お前さんは担がれたのさ」 「そんな……」 店の中、常連なのか老人達は手にした反物を自慢し合っていた。つい千波もその反物を見た。 「あの。私には違いが判らないんですけど」 「まあ、素人なら仕方ねえな。いいかい?」 老人は語り出した。それは結城紬と石下紬の違いだった。 「まず糸だけど、結城紬は『絹』、石下紬は『絹』と『木綿』なんだ」 「混ざっているんですね……でも丈夫そうです」 「その通り!その意味もあって結城紬は手織りで、石下紬は機械で織っているんだ」 「そうか、絹は機械だと糸が切れてしまいますものね」 そのため機械で作られる石下紬は大量生産されており、安値で多く流通していると語った。 「ああ。だから高い結城紬の代わりに、石下紬を着る人が多いな」 「じゃあ旦那、俺の石下紬は価値が低いってことかよ」 「そうは言ってねえよ、ええとだな」 老人はいうには石下紬でも価値が高いものがあると話した。 「それはだな。今の機械じゃなくて、その前の機械で作った古いものでな。藍染紺の地に、茶色か鼠色の縞模様があるものは、非常に価値があるぞ」 ……それってもしかして。 「あの。それ以外に特徴がありませんか」 「そうだな。老舗の龍村さんの品なら間違いないな」 この時、伝票が修正された。千波は石下紬に詳しい老人に礼を言うと相崎に帰って来た。 「ただいまです!あ、旦那様。他の皆さんは?」 「彦は銀行……他はお使いだよ」 他に事務員がいる中、腑抜けの深留が悲しく留守番をしていたが、千波は今の話をした。 「え?あの石下紬かい。待てよ」 「早く確認してください」 深留は蔵の在庫棚から取り出し、その反物を再確認した。 「うん、これだけは違うけど、ここのは全部、藍染紺の地に、茶色か鼠色の縞模様がある………しかも、龍村さん、だね」 「じゃあこれって」 「ああ。高価な品のようだ」 すると、千波はそっと彼の背を向けた。 「良かったです、私。奥の部屋にいます。用事を思い出したので……」 「あ?ああ」 そう冷たく話した千波は足早に進み一人の部屋に入った。 …………やった!―!良し!! ばんざーいと千波は一人で喜んでいた。深留が悩んでいた反物事件が解決し、千波は一人、歓喜を表現していた。 ……ああ、これで旦那様もほっとされるわね!良かった。 「千波さん」 「きゃあああああ」 「し!そんなに驚かないで」 実は全てを見ていた深留は千波の口に手を当てた。彼は笑っていた。 「ふふふ、ねえ、どうして隠れて喜んでいるの?」 「もごもご」 「フフフ、ハハハ!ハハハ」 深留は思わずおでこを千波にぶつけると、手を離し大笑いした。そんな深留に千波は、どこか膨れて話した。 「だって!旦那様が落ち込んでいた反物じゃないですか、だからその」 「フフフ……涙が、ああ、おかしい」 ……あなたが悩んでいたから、私も悩んでいたのに。 腹を抱えて笑う深留に、彼を心配していた心を笑われた千波は涙が出てきた。 「良かったですね……」 「千波さん?」 「私、帰ります」 涙を拭った千波はそう言って部屋の襖に向かった。 「待って、ごめん」 「離して!私の事なんかほおっておいて」 「ごめん、ごめんなさい」 深留は背後から千波を抱きしめた。 「もう、離して!」 「離さない……本当にごめん」 暴れる千波を抑える深留の声は切なかった。 「僕があの時、君の言葉を無視して反物を買ったのに、それなのに千波さんは僕を助けてくれたのに」 「もういいです、お願い離して」 千波は破顔の顔を手で覆った。 「旦那様なんか嫌いです」 「僕は大好きだよ」 彼の抱きしめる力は千波の涙に比例していった。 「嬉しかったんだ。僕なんかのために一生けん命考えてくれて」 「ううう」 「本当にごめん。ね、だから」 彼女をほどいた深留は、懐から手拭いを差し出した。受け取った千波は大粒の涙を拭いた。これを見た深留はまた抱きしめた。 「僕が本当に悪かった!だからもう泣かないで」 彼まで悲しそうな様子に千波は心を落ち着かせた。 「……わかりました」 「本当かい?」 うんと千波は頷いた。その時、帳場から深留を呼ぶ声がした。 「どうぞ、行ってください……」 「あ、ああ」 そう彼を送り出した千波は、深呼吸をして自分を落ち着かせた。 ……千波、しっかりして。旦那様の『好き』は、恋人の意味じゃないのよ。 深留の匂いがする手拭いでそっと顔を拭いた千波は、何とか呼吸を整えた。 そして部屋にある書類を整理し始めた。 風鈴が鳴る夏の部屋。窓の外は夕暮れ。風は生ぬるかった。 元夫への思いをため息に閉じ込めた千波は、心鎮めるように硯に向かっていた。 完
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