十二 優しい味

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十二 優しい味

「おはよう、ん。彦、それは何だい」 「ああ。これですか」 帳場にはなぜかお重が届いていた。彦三郎は頭をかいた。 「女工の一人が置いていきましたよ。旦那様に食べて欲しいとか」 「……ふーん」 そして仕事をしていた深留が在庫の反物を見ようと在庫室にいると、女工が入って来た。 「あの、旦那様」 「ん?何だい」 「私、お稲荷さんを作ったので、お昼に食べてください」 「え」 「これです」 「あ、ああちょっと」 行ってしまった娘に深留は首をかしげていた。 そんな深留が昼飯の時間になった。するとまた女工達が顔を出した。 「旦那様、これ、私が作りました」 「押さないでよ、私はこれです」 「わかった。わかった!とにかく、みんなは戻りなさい」 ようやく娘達を追い返した深留は、肩を落としながら彦三郎に尋ねた。 「どういうことだ?」 「旦那様のせいだと思いますね」 部屋いっぱいの稲荷ずしの世界に圧倒された彦三郎は、利き腕ではない手でざるそばのつゆにネギを淹れながら食べ始めた。 「僕のせいって?」 「千波さんが作ったお稲荷さんを美味しいって言いふらしたじゃないですか。だから女工がこぞって作って来たんですよ」 「確かにそうは申したが」 畳いっぱいの稲荷寿司にさすがの深留も困ってしまった。そこで彼を呼んだ。 「国松よ。これはいただき物なんだがね、どこかに配ってきてくれないか」 相崎の織場はだめだと言われた国松も困ってしまったが、偶然、橋の工事をしている大工を見かけ、これを全部食べてもらった。 「大変でしたよ」 「助かった!よし、では銭湯に行こう」 そんな深留はこの日は国松の背を流していた。 「しかし、女工の姉さんたちが稲荷寿司を作ったのはわかるけど、結城にはあんなに油揚げがあるんですね」 「ああ、僕の好物ではあるけれど、なぜなんだろうね」 すると、隣で体を洗っていた老人が語り出した。 「それはあれだ!お前さんに気があるんだよ」 「僕ですか、でも僕は今はそんな気は」 「お前さん、相崎の若旦那だろう?俺の若い頃はな、道を歩けば恋文を」 「旦那、湯に入りましょう」 「ああ。すみません、どうも」 老人の長話をうまく国松が交わし二人でお湯に浸かった。こうしてこの日は無事に銭湯を出た。 「お前には助けてもらってばかりだね」 「それがおいらの仕事ですから。ところで水戸さんの続きです」 帰り道、一番星。国松なりに元妻の行方を捜しており、彼はその報告をした。 「ええと。水戸さんはですね。いつも奥座敷で大旦那様のお仕事を手伝っていたそうです」 「なるほど、そしてお袋は?」 「お気を悪くしないでくださいね」 国松は母親が嫁にしていたことを語った。 「旦那様が京都に行ってしまったのは、水戸さんのせいだとそれはお怒りになってしまって。それでみんなに『水戸さんと口を聞いてはいけない』っていう事らしいですよ」 「僕にはその無視の意味がわからないんだよ」 「おいらが思うには、奥様は水戸さんに、みんなと仲良くさせないようにしたんじゃないですか」 「……」 母親の非道にさすがの彼も思わず言葉が詰まった。 「でも、まだ調べ中です」 「ありがとう」 そして今宵も別れたが、深留は幼馴染と飲み会に参加していた。 「聞いてくれよ。うちの店に妙な手紙が来たんだよ」 醤油屋の勝太郎は酒を飲みながら話した。 「そこにはさ。俺の奥さんからの手紙でさ、いつ帰ってくるんだって書いてあってさ」 「おいおい、お前は独身だろう」 下駄屋の富男の言葉に勝太郎は続けた。 「そうなんだけど、そう書いてあるんだよ!でさ、なんか俺の親父の様子がおかしいわけよ」 「ふ、もしかして」 「そうなんだよ。親父の奴、俺の名前で浮気をしていたんだよ」 老齢の親の話に一同は笑った。深留も笑っていたがふと達治はにやにやしてきた。 「深留はどうなんだよ。例のお稲荷さん事件は」 「え、どうして知っているんだい」 噂になっているという事に深留は必死に説明をした。しかし仲間はうらやましいと言い出した。 「俺もそんなにもらってみたいな」 「俺はいいや、それよりも千波さんが欲しい」 「何を言っているんだよ」 「いいじゃないかよ」 ぎゃあぎゃあうるさい勝太郎と富男を背にした達治は、深留の肩を抱いた。 「それよりも、どうなんだ千波さんとは」 「どうって、何もないけれど」 「おいおい、深留君、君は相崎の御曹司なんだぜ」 味噌屋の彼は、奥手の深留にドンドン行けと言い出した。 「でも、これ以上千波さんに嫌われたくないし」 「お前は何をしたんだよ」 深留は石下紬の話をした。いつの間にか仲間たちは聞き入っていた。 「う、うう」 「どうした勝っちゃん?」 「千波さんは良い人じゃないか……()っ君のこと、そこまでしてくれるなんて」 「お前にはもったいないよ!やっぱりここは俺が醤油屋の奥さんとして千波さんを」 「だから俺だって」 「はいはい、いいか深留」 再びぎゃあぎゃあうるさい勝太郎と富男を背にした達治は、深留の肩を抱いた。 「今の話を聞く限り。その娘さんはお前に気があるな」 「本当かな」 「ああ、ある。でなきゃお前なんか今頃、張り倒されているぞ」 「僕もそう思う」 杯をじっと見つめる深留を達治は励ました。 「よし飲もう!我らの深留の新しい恋の成功を祈って」 乾杯と男達は飲んだ。深留も楽しい夜を過ごした。 「おはようございます」 「おはよう、頭が」 「どうぞ奥で休んでくださいね」 千波は慣れた様子で彼を母屋に休ませた。 「暑い……」 「少し眠った方がいいですね」 ……ああ、気持ち良い。そうか千波さんは団扇で扇いでくれているんだ。 ゆらゆらと風が来る縁側、深留は気分よく目をつむっていた。 「ねえ、千波さん」 「なんですか」 「後でいいから。味噌汁を作って欲しいんだ」 「では、係りの人にそう言っておきますね」 「いや!?そうじゃないよ」 深留はそっと目を開いた。 「僕は千波さんを飲みたいんだ」 ……それを言うなら『千波さんの味噌汁』でしょう。 しかし二日酔いで参っている彼は、そこまで配慮ができなかった。 「みんなに言われたんだ。君のような『出来すぎた人』はいないって」 ……『出来すぎ』って、これは褒めているのかな。 「聞いているかい」 「はい、しっかりと」 「そう……あとはね……スース―」 寝てしまった彼に千波は優しく木綿の浴衣を掛けた。そしてそっと部屋を出て廊下を歩いていた。 「千波さん、ちょっといいですか」 「何でしょう?」 織場の古株の女工数人が千波に声を掛けてきた。彼女達はどこか怒っていた。 「彦さんの姪なのは知っていますが、最近、旦那様に慣れ慣れしいと思います」 「そうですよ。後から来たくせに」 「みんなそう言っていますよ」 「そうですか……」 千波は彼女達にそっと目を伏せた。 「私は仕事柄、旦那様とお話する機会が多いかもしれませんが、私は旦那様に取り入るつもりはありません」 「どうだか」 「玉の輿を狙っているんでしょう」 「玉の輿……」 本気でそう言ってる彼女達が、千波には空しかった。 「とにかく、私は仕事で接しているだけです。特別な感情はありませんので、どうぞご理解ください」 そういうと彼女達の冷たい視線を背に受け、千波は帳場に戻って行った。 ……玉の輿か。そう見えていたのかな。 嫁時代。冷遇されていた千波は、現在は彦三郎の姪として相崎にいた。確かに相崎は名家であったが、嫁だった千波はお金を自由に使い、楽な暮らしをしていたわけではなかった。 義両親は倹約家であり、義母はやりすぎであったが、義父の考えを千波は尊敬していた。 無駄遣いはしないが、ここぞという時には大きな資金を投資していた義父の考えを千波は思い返していた。 ……さて、仕事に戻ろう。 そんな義父に少しだけ恩返しをしたい千波は、彦三郎の手伝いの事務机に向かっていた。 「ふわあ随分、寝たな」 「旦那様、お昼ごはんです」 「ありがとう」 「どうぞ、お代りもありますよ」 運んできた女工の二名はなぜか立ち去らず、うっすら化粧し、にこにこと彼の周りに座っていた。不信に思ったが深留は食べだした。 「どうですか?美味しいですか」 「それは私が作ったんです」 「ああ……美味しいよ」 事務的につぶやく深留の感想に二人は嬉しそうにした。 「あの、醤油味にしたのですが、旦那様は何味が好きなのですか?」 「私達、何でも作りますので」 「……ごちそう様でした」 「え」 「まだ残っていますけど」 ほとんど食べていない深留は悲しく箸を置いた。 「君達の化粧が臭くて食欲が失せた。もういいよ」 そういうと深留は立ちあがり、帳場に向かった。女工二人は驚きで後ろ姿を見ていた。そんな深留は千波がいる小部屋を訪ねた。 「失礼するよ。ああ。遠慮しないでいいから」 一人、昼食を食べていた千波の部屋の襖を深留はそっと閉めた。千波は食べるのを中断し彼に向かった。 「旦那様はもうお昼は済んだのですか」 「済んだと言えば済んだけど、お腹は空いているんだ」 ……どういうことかしら。 最近は女工達が張り切って料理をしているため手伝っていない千波は、自分の弁当を見つめる深留を不思議そうに見た。 「千波さんは何を食べているの」 「炊いたご飯が少し焦げていたので……醤油を塗って焼おにぎりに」 「美味しそうだね」 じっと見つめる深留であるが、千波はちょっとイラっとした。 ……そもそも。この人がしっかりしていないから、みんな困っているのよ。 資産家の深留は、誰にでも優しい品の良い好青年である。そんな彼が独身のため妻になりたい女性が殺到している事が、千波にはだんだん腹が立ってきた。 ……早く、誰かと結婚すればいいのに。 「ええ、そうですね!」 そんな深留の前で千波はもぐもぐ食べて見せた。 「さて、今度はこれですね」 「海苔かい」 「ええ。こうやって海苔を巻くと、さらに美味しいんです……ほら。綺麗!」 「ああ……あと一つだけなんだね」 「うん?!美味しい!?我ながらこれは実にうまくできましたよ」 満足そうに頬張る千波の前に深留はすっと正座をした。 「……千波さん。まだ怒っているの」 「別に?私は何も怒っていないですよ」 「嘘。僕に怒っているでしょう」 「怒っていません!全然です」 ……いや、怒っているんだよな。 珍しく機嫌の悪い千波に、彼は顎に手をやった。 「例の石下紬の事?」 「違います」 「じゃあ、あの。雑誌の広告を断った事かい」 「あれは断ってよかったと思います」 「じゃあ何で怒っているの」 千波はまっすぐ深留に向かった。 「別に怒っていません。でも、あの。旦那様がその」 「その?」 千波ははっきり話した。 「いいですか?旦那様は独身でしょう?だから、こういうのは困るのです」 「困るってなにが」 「私に親しくすることです。他の女性から見れば私が旦那様の奥さんの座を狙っているように見えるんですよ」 千波の真剣な顔を深留は申し訳なさそうに頭をかいた。 「ごめんよ、千波さん。でも僕は千波さんが好きだから、どうしてもそうなるな……」 「え」 「迷惑かけていたんだね。本当にごめん」 「まあ、分かってくだされば」 ……そこまで落ち込むなんて。 落ち込んでいる深留が可哀そうになった千波は、そうだと竹の皮の包を差し出した。 「どうぞ。これ」 「いいのかい?」 途端に目がキラキラした深留に千波は頷いた。 「実はまだあるのです。作りすぎて」 「うわ。美味しそう」 「待ってください、今、海苔を巻くので」 「いい。まずはこのまま……うん!?うん!うん!」 頬を染めて食べる深留に千波は諦めた。 ……仕方ないか、秋の展覧会までは。 元夫は元妻の手料理を嬉しそうに頬張っていた。誰にでも優しい深留は両親を失い、家業の継承で大変な苦労をしている現状に千波は胸を痛めていた。 「ねえ。今度は海苔を巻きたい」 「はいはい。あ。今度のは中身がありますよ」 「なんだろう……これは味噌だ?いや……これを考えた千波さんはすごいね」 ありがとうと千波は彼に麦茶を淹れた。 元夫を支える元妻を知らずに彼は黙々と食べていた。 南の日差しを遮る(すだれ)の隙間から白い明かりと風が入ってきていた。 元夫婦が過ごす部屋には穏やかな時間が流れていた。 十二「優しい味」完
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