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十三 騒がしい奴ら
「達っちゃん、それでさ、何か屋根か落ちたと思ったら。泥棒だったんだよ」
「ハハハ!そいつ、屋根で何をしていたんだよ」
そんな達治に富男は肩を寄せた。
「そうだよな。屋根に金目のものなんかないもんな」
「これから入るところだったのかな」
「深っ君の言う通り!奴は手ぶらでさ。慌てて逃げていきやがった」
いつもの小料理屋の『菊屋』席、四名はハハハと笑った。結城の里の名家の御曹司は同じ年齢。昔から一緒に遊んだ仲間である。
味噌屋の達治と醤油屋の勝太郎。桐の下駄の富男と紬問屋の深留は今宵も楽しい酒を飲んでいた。
「ところで達っちゃん。奥さんは妊娠中なのに遊びにきていいのかい」
「今はまだ変わりは無いからいいんだよ。それよりも今の内に来ようと思って」
富男の話に答える達治を深留はじっと見ていた。
「どうした」
「いや、でも奥さんがいるのに飲み来ていいのかなって思って」
「何言っているんだよ。深留だって京都に女がいたんだろう」
「そうだよ」
「その話を聞かせてよ」
三人に言われたが、深留はしみじみと話した。
「確かにいたけれど。リヨが僕のアパートに押しかけてきた感じで、奥さんと言う感じじゃなかったかも」
「贅沢言うなよ!あんな綺麗な人」
「京都の人なんだろう」
勝太郎と富男に深留は首を傾げた。
「リヨは東京生まれだよ。京都にはモデルの勉強で来ていたんだ。いつだったか、リヨがいない時に親父さんが尋ねてきたことがあって、手紙を預かったんだけど住所が浅草だったな」
「でもさ、彼女と一緒に住んでいたんだろう」
「羨ましいぜ、まったく」
しかし深留は話を遮った。
「さて、それよりもそろそろ終わりにしようよ」
深留の声で飲み会は終わりになった。こうした飲み会は最近、深留の参加で盛り上がり、毎晩のように開催されるようになっていた。
そんなある日の夜の帰り道だった。華やかな道の路地を曲がると前方に女が一人、歩いていた。
「なあ、こんな夜に女がいるぜ」
「飲み屋の女かな」
勝太郎と富男の声に深留はやめておけ、と制した。
「だめだよ、帰ろうよ」
しかし達治が調子に乗って一歩前に出た。
「よし、俺が美人かどうか見て来る。もし、お嬢さん」
「何でしょう……」
酔った達治は声を掛けると、柳の下にいた女はゆっくり振り向いた。
「私……綺麗?」
「ぎゃあああああ」
「どうした。うわあああ」
「ひいい」
達治が腰を抜かし、勝太郎と富男は逃げてしまった。取り残された深留は、暗がりの女を見た。
「すみません、連れが失礼をして……うああああ」
真っ白。顔の無い女の声に深留も腰を抜かした。
「達っちゃん。こ、これは」
「深っ君、逃げるぞ、ほ、ほら」
達治と深留は必死に走って逃げた。
◇◇◇
「と言う事が夕べあってね、一睡もできなかったんだ」
「……では朝ごはんを食べたら少し仮眠してください」
千波を見てほっとしたのか、深留は縁側で横になった。この日、取引が無い日であったため、彼を休ませた千波は、彦三郎に断りを入れて外出した。
「すみません、相崎の者です」
「あ?千波さん、こちらにどうぞ」
味噌屋の暖簾をくぐった千波は、若女将に案内された。
「どうですか様子は」
「ふふ。寝込んでいるわ」
「こっちもですよ」
こうして二人は味噌屋の奥部屋にやってきた。若女将の茜は千波にお茶を出した。
「大体、毎晩飲み歩くのが行けないのよ。もうすぐ父親になるっていうのに」
「でも、夕べの事でしばらくは控えるんじゃないですか」
「だといいけどね」
そういって若女将もお茶を飲んだ。
今回の顔無し女は、若女将と千波の仕業であった。達治の飲みすぎを心配した若女将から相談を受けた千波が、国松に頼んだ仕掛けだった。
千波は干ぴょうの皮を用い、顔の形に切りお面を作り国松に被せていた。
「私も見ていたんですが、勝太郎さんと富男さんは逃げて、達治さんと深留さんは腰を抜かしていました」
「そうなんだ。私にはやっつけたって言っていたわよ?」
フフフと笑う若女将に千波はそれよりもとお茶を置いた。
「お腹の赤ちゃんはどうですか」
「順調ですって。つわりも収まって来たし」
母親の風格がでてきた彼女に千波は安心した。
「では私はこれで、また何かあれば言ってくださいね」
「……千波さん、千波さんは本当に、番頭さんの怪我が治ったら相崎を辞めてしまうの?」
真剣な彼女の様子に千波は驚いた。
「はい。私は彦さんの手伝いですから」
「そんなこといわないで、ずっといればいいじゃないの。深留さんも頼りにしているのに」
「そんなことないですよ」
千波は彼女に微笑んだ。
「そのうちお嫁さんが来ますから。その人にお任せしますよ」
「そう?千波さんがいいと思うけれど」
「ないですから!それだけは……」
そう言うと千波は味噌屋を後にした。
……茜さん、幸せそうだな。
今回はお灸をすえた形であるが、味噌屋の夫婦は仲良しでいつも本音でやり取りをしていた。そんな彼らに千波の心は少々痛かった。
……子供か。私には遠い話ね。
嫁に来る前はそんな将来も夢見ていたが、今の千波には全く縁遠い話だった。
……うちの旦那様なら、可愛がるでしょうね、お子さんも奥さんも。
眩しい太陽の下、大通り行き交う人並みを千波は進んだ。そして従業員の立場の彼女は静かに相崎へと戻って行った。
その二日後、相崎に勝太郎が顔を出した。
「深っ君、大変なことが起きたんだ」
「どうしたんだい、すまない千波さん、お茶を」
「はい、どうぞ」
「ありがとう、実はね」
汗だくの勝太郎は、富男がまずいと言い出した。
「何がまずいんだい」
「顔無し女を見てから眠れてないんだよ」
「え」
驚く深留の横で千波は思わず帳場にいた国松と目が合った。それを知らない若旦那の二名は富男を心配していた。勝太郎は話をし帰って行った。
「あれは怖かったからね。富君が眠れない気持ちもわかるな」
「そ、そうですか」
この日の午後、やはり心配で味噌屋の女将も千波を訪ねてきた。
「どうしよう、千波さん」
「茜さんは心配しないで下さい、ここは私が対処します」
妊娠中の彼女を気遣い、千波が動くことにした、そもそもこの作戦を考えたのは千波であったため彼女は一晩考え、それを翌日、深留に提案した。
「旦那様、お祓いをしませんか」
「お祓いか」
「そうです。これは気持ちの問題もありますが」
祓うことで安心するのではないか、と言う言葉に深留は納得し、この内容を富男に持ち掛けた。すると彼の両親は息子を連れて行ってくれというので、深留は千波に手伝ってもらい富男を神社に連れ出した。
「はあ。まだか」
「富君。もうすぐだよ」
「富男さん。足元気を付けてくださいね」
「あ、ああ」
責任を感じている千波は富男に優しく接していた。そして神社の本堂にて祈祷をしてもらった。彼らは祈祷を受けている間、千波も奥に座り聞いていた。
そして、帰り道、富男は元気そうにしていた。
「やあ、なんだか肩がすっきりしたよ」
「良かったな。富君」
「顔色もいいですよ!」
「ありがとう」
深留と千波の励ましが混ざった笑顔で彼は元気に歩き出した。これに安心した深留は歩きながら千波に話し出した。
「そうだ、千波さん、昨日のあれは?」
「店に残っていた海老茶の反物ですよね。あれは京都へ送るものだとわかりましたよ」
「そう……あ!千波さん。例のあれは、どうなったかな」
「……銀座から来た返品のことですか」
「ねえ、どうして千波さんはそれだけでわかるんだい」
不思議そうな富男に対し深留は目を瞬かせた。
「そうかい?普通だと思うけど」
「いや、そんなわけない」
「いいんです、冨男さん、あの、それについてですが」
千波は慌てて説明をした。
「彦さんと確認しましたが、あの反物の傷はうちのせいじゃなかったんです」
千波は歩きながら話し出した。昨日の苦情についてだった。
「確かに内側に傷があればそうかもしれませんが、全部外側だったのですものね。これを運送業者に確認したところ、運ぶ途中で一度、木箱ごと落としたそうで」
「それならそいつのせいだな」
「千波さん、その業者、良く過失を認めたね」
感心する富男に千波はよくぞ聞いてくれたと彼に向かった。
「そうなんです!大変でした……それにこれを教えてくれたのは、銀座の店の現場の人で、その人が『木屑』が着いていたって証言してくれたんです」
「親切な人で助かったね」
入道雲に目を細めるのんきな深留に富男は待ったをかけた。
「深っ君。そうじゃないだろう?千波さん努力で」
「富男さん、いいんです、それは」
「え」
千波は富男にささやいた。
「深留さんは図案を考える人ですもの。いいんです。下世話な事は気にしなくても」
「しかし」
「本当にいいんです。綺麗な事だけ考えて下されば、私はそれで」
「千波さん……」
「ねえ、二人とも何を話しているの?」
「何でもないですよ」
誤魔化す千波に対し、深留はどこか面白くなさそうだった。そんな二人に富男は思わずつぶやいた。
「敵わない、か」
「どうしたの、富君」
「別に!あ、ちょっと眩暈が?千波さん、手を貸してくれないか」
「ど、どうぞ」
どこか千波に甘える富男であったが、深留も一緒に彼を下駄屋に送り届けた。元気になった息子を見た彼の両親からお礼を言われた二人は、相崎へと帰って行った。
「良かったですね、元気になったようで」
「あんまり良くなかったんだけど」
「え」
すると、ぽつぽつと雨が落ちてきた。深留は急に千波の手を取った。
「こっちに来て」
「あの、もう少しゆっくり」
しかし逸る深留に引かれた千波は、路地の屋根の下で雨宿りになった。
黒い雲の世界、二人は軒下で雨を凌いでいた。
「ねえ。もっとこっちに寄らないと濡れるよ」
「は、はい、失礼します」
強い雨音、千波はおずおずと深留を見た。なぜか彼の横顔は怒っていた。
「千波さん」
「はい」
「君は相崎に勤めているんだから、富君にそんなに優しくする事ないでしょう」
「はあ」
「それに。その、あの、何ていうか、とにかくそういう事だよ」
「すみません」
……はあ、『顔無し』なんてするんじゃなかったわ。
「ご迷惑を掛けました」
「……僕だけを見ていて欲しいんだ」
「ん?何ですって?」
豪雨で声が聞こえない千波の手を深留は握った。
「あのね!僕以外に優しくしないで!」
「別に優しくないです、私」
「優しいから言っているんだよ!あ」
遠くに雷光を見た深留は雨の暖簾を利用し、抱きしめた。
「旦那様。まだ雷は」
「大丈夫、これから鳴るから」
どこか必死な彼の胸は優しく温かく、安らぎがあった。
……ドキドキが聞こえる、旦那様も雷が嫌いなのかしら。
「あの……鳴らないですけど」
すると深留は千波の耳に口を置いた。
「僕知っているんだよ。顔無し女は千波さんの仕業でしょう?」
「う。あ!痛い」
耳を甘く噛んだ深留は千波をぎゅうと抱きしめた。
「達っちゃんの奥さんに頼まれたの?ふふふ。まったく千波さんは」
「ばれていたんですね。あの、でも」
「いいんだよ……それにしても千波さんって、ふふふ」
結城の里の夕立は、まるで子守歌のように紬の元夫婦を包んでいた。
そして止んだ後、二人は歩き出した。
「あの、旦那様、どうして私の仕業って思ったんですか」
「ん?ああ、それね」
深留は抜け抜けと言い出した。
「だってさ。僕が『顔無し女を見た』って話をしても千波さん、何も心配してくれなかったんだもの」
「え?そこですか」
「うん。だからそうかなって思ったんだ」
……不覚なり。千波、お前もまだまだね。
「わかりました。次は気を付けます!」
「おお?次は無いから!?それよりも、そうだ!……かき氷食べて帰ろう」
水たまりを楽しく避けて進む二人には青空が広がっていた。
十二「騒がしい奴ら」完
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