二 相崎深留

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二 相崎深留

「はい、御茶よ」 「ありがとう、リヨ」 「まだ模様を描いていたの?」 京都の狭い長屋。テッセンの花が揺れる窓辺の机で深留が描く模様をリヨは肩越しでのぞいた。 「そうだよ。水紋を見た時にこれが浮かんでね」 「そ、そう」 生き生きと話す深留はリヨに嬉しそうに説明をした。 「水紋というよりも、アメンボがほら、水に浮かんで足跡を、そうだ!題は『水の足跡』というのがいいな!色はもちろん水色で……夏の匂いがして、ああ。織りを粗くしてこう涼し気に」 「いいんじゃないの。私、出かけて来る」 話を大して聞かず、リヨは立ちあがった。 「ああ」 「……お金を借りるよ」 「どうぞ。ああ……金魚の色も少し入れると映えるかな……」 リヨの下駄の音も聞こえない深留は美術の世界にふけっていた。 まだ身を固める気はない深留は、式後、家を出て勉強先の京都に戻りデザインの勉強を続けていた。 結婚は親が勝手に決めたもので、彼はまだ京都で着物の図案の勉強をしていたかった。 一人息子でありいつかは跡を継ぐつもりであったが、実家に帰った際、用意されていた今回の結婚は彼には寝耳に水であり、式だけは参加したが、どうしても許せずその後、家を出ていた。 現在一緒に暮らす女は京都で知り合ったモデルの女。気さくで優しい彼女は、男に騙されたと言い金がないが、深留は同情もあり一緒に暮らしていた。 それでも深留は実家を案じ、結城まで商売に行くリヨの弟から実家の噂を聞いていた。 「では両親は健在なんだな」 「へえ。大旦那さんも店に出ていましたし、奥さんもお茶を出してくれましたぜ」 「……嫁はどうしていた」 「嫁ですか、ええと」 「早く言いなさいよ」 リヨに則された男は思い出したように話した。 「そ、そうだ!極悪の嫁ですぜ。金は使う、仕事はしない、そしてその」 「その?」 「男にだらしないですよ」 さらに男は、嫁は深留の父親の愛人だと話した。 「そういう噂ですぜ」 「やっぱり」 父親がやけに押してきた縁談を不信に思っていた深留は、ようやく納得した。 「おかしいと思ったんだ、これは破棄してよかったな」 「そうよ。そんな女は追い出してしまえばいいじゃない。私がいるんだから」 「しかし、母さんが可哀そうだ。そんな嫁がいるなんて……」 そんな深留は両親の危篤を知った。駆け付けたが臨終には間に合わなかった。 「先生、両親をどうして入院させてくれなかったのですか?」 「ご両親の意志でしたし、お嫁さんが看護するという事でしたので」 看取った医師に迫る深留にリヨは背後から声を掛けた。 「まあ可哀そうに……入院していたら治っていたかもしれないのに。お嫁さんがそう進めたのかしら」 「先生、その嫁はどこに」 「入院されていますよ」 「え?自分は入院しているの?信じられないわ……」 リヨの囁きに深留は許せないと震えた。 「離縁だ!そんな嫁は顔も見たくない!」 彼女を悪と思い込んでいる深留は、彦三郎の話も聞かなかった。さらに多忙を極めた相崎の関係者も冷遇された嫁を無視し、葬儀を終えてしまった。 「はあ、疲れた」 「深留さん。ねえ、お金はどうなっているの」 葬儀後、リヨは蛇のように深留にまとわりついた。 「金?」 「そう香典よ。どこに置いてあるの。盗まれないか心配なの」 「心配してくれてありがとう。確か仏間の金庫じゃないかな」 こうして葬儀を終えた深留は、来る日も来る日も仕事仕事。それも苦手な事ばかりの毎日だった。 唯一頼れる彦三郎が骨折してしまい、リヨの支えもあったが深留は限界が近づいていた。 「え。彦三郎の姪っ子さんが来ているのかい」 「は、はい。私を心配してきてくれましたが、少し手伝いをさせておりまして」 「どれ、挨拶するか」 「いえ?あの、ほおっておいて結構ですよ」 「そんなわけはいかないよ。さて」 ……うちの店が破産するかと思って。辞める者がでてきているのに。 助けに来てくれた娘に挨拶しようと彼は部屋に入った。仕事部屋の奥の和室、背筋を伸ばした正座の後ろ姿の彼女は大量の書類を難なくこなしていた。 ……すごい、書くのも早いし、字も綺麗だ。 振り向くと小顔の小柄な娘だった。紬の着物に髪は短く肩の長さで揺れていた。 「あの旦那様、私、お線香をあげたいのですが」 「線香かい?ああ、どうぞ」 ……うちの両親と面識があったのかな、まあ、礼儀でそう言っているんだろうな。 それでも娘の心がうれしかった深留は仏間に彼女を案内した。そして遺影を見た彼女は途端に膝を崩し、大きく泣き出した。 ……こんなに泣くなんて。 両親は仕事優先で厳しい人だった。息子としてそれを知る深留は、弔問客から二人を称える言葉はもらっていたが、悲しみで涙を流す人を初めて見た気がした。 「これは、大旦那様の紬ですね……」 「ああ。なぜかこればかり着ていてね」 彼女は遺品である父の着物を泣く泣く見ていた。 「結城で一番の針子さんに縫ってもらったものだから、着心地が良いと言っていました。それに『べっ甲の(かんざし)』……」 「ああ、母は気に入っていたからね」 しかし彼女は大粒の涙の首を横に振った。 「あまりお好きではなかったようです……実家からお嫁に来る時に、方向が悪いといわれたそうで。魔除けで差していただけで」 「魔除け?……知らなかった。あ、これを」 涙の彼女に思わず深留は手拭いを渡した。彼女は受け取った。 「ありがとうございます……」 深留にお礼をいった彼女は涙を押さえながら戒名を読んだ。 その意味を考えていなかった深留は、その後、彼女の事を考えるようになっていた。 ……なぜなんだ、なぜうちに来てくれないんだ。 夕昏。相崎で働てい欲しいと頼んだが、彼女はこれを拒んだ。深留は彼女の悲しそうな顔を思い出していた。 しかし、生き生きと仕事をしている彼女を深留はだんだん手放したくなくなってきた。 ……くそ!こうなったら。 「彦!彦はどこだ」 「どうしましたか、大きな声で」 「僕はやはりお前の姪を雇いたい。どうしてもだ」 「えええ!?それはちょっと無理かと」 「理由を申してみろ」 苛つく深留に彦三郎は深くため息をついた。 「わかりました、これは当人同士で話し合いをしてください」 「当人?まあいいさ」 「私は呼び出しますが、どうぞ二人で決めてくだされ」 そして彼女はやってきた。深留は彼女に頭を下げてなんとか返事をもらった。 ……でも、なぜあんな悲しい顔なんだ、どうして、どうして。 「あ、ああ、もう朝か」 夕べも仕事で帰りが遅かった深留は、梅雨の蒸し暑い朝、カエルの声で目覚めた。 さて、と起き上がった深留は、隣の部屋からはリヨのいびきがする中、そっと廊下に出た。 ……曇りか。ん? 窓の外では彼女がほうきをもって庭の掃き掃除をしていた。 ……千波さんか、掃除もしてくれているのか。 頼んだのは事務仕事であったが、書き物ばかりでは手がくたびれるという彼女は、自らの申し出で他の仕事も手伝っていた。 庭でもくもくと掃き掃除を片付けた彼女は雑巾をもちだし、なぜか深留がいる廊下の方にやってきた。 「あ、旦那様、おはようございます」 「お早う、早いね」 窓越しで挨拶を交わした深留は寝起きで髪が爆発していたが、始動していた千波は素早く動いた。 「はい。窓を拭かせていただきますね!」 口うるさい義母はもういないが、その言葉が身に染みてしまっている千波は、元来の綺麗好きも手伝い、必死に窓を拭き始めた。 ……おっと、ひどい恰好だ。さすがにこれは恥ずかしい。 寝間着の浴衣姿の彼はいそいそと顔を洗いに向かった。 そして朝食になった。この時、リヨはあくびで起きてきた。 「また梅干し?他にはないの」 「リヨ、その前に挨拶だろう」 「ふわあ、眠いわ」 何もせず寝てばかりのリヨは文句ばかりで箸を持った。相崎の母屋で深留は呆れて先に食べていた。 「ねえ、どうしてこんな食事ばかりなの」 「通いのばあやではこれが限界なんだよ」 「今まではどうしていたのよ」 「そ、それは」 深留は元妻が母屋の食事をつくっていたという彦三郎の話を思い出していた。 ……父さんは寝たきりだったようだし、母さんは味にうるさかったから。食事の支度は大変だったろうな。 思わず箸を持ったまま心を傷める深留に朝から完全化粧のリヨは真っ赤な口紅でほほ笑んだ。 「ねえ、深留さん。それよりも今度の休みにどこか行こうよ」 「仕事があるんだ、無理に決まっているだろう」 しかし駄々をこねるリヨに疲れた深留は金を渡し、一人で遊びに行かせることにした。そして仕事にとりかかった。 「旦那様、お客様です」 「おお。相崎さん、この度は気の毒でしたね」 「痛み入ります。どうぞ、こちらへ」 問屋の仕事は付き合いが多く、商談が多い毎日に深留は参っていた。梅雨の暑さもあり疲労が溜まっていた彼はこの日の午後、母屋の縁側で一休みをしていた。 ……声がする、これは彦と千波さんか。 縁側にいた深留には二人が相談する声がこぼれていた。 「千波さん。今年も大阪屋から新作の見本をくれと手紙がきましたが、どれを送りましょうかね」 「それは去年、うちの模様を真似した店ですよね」 ……千波さんの声だ。 「だいたい自分達は送ってこないのに、こっちだけ送るなんておかしいですよ」 どこか怒っている千波に深留は思わず笑みがこぼれた。 ……さて、彦はどうするのやら。 「しかし、毎年の事ですからな。送らないわけは行きませんよ」 「わかっています。今回は去年の反物にしましょう」 ……え。 「え」 深留だけではなく彦三郎も驚きであったが、千波は話を続けた。 「いいんですよ。これで何か言ってきたら、『間違えました』って私が言いますから」 「その時はぜひ頼みますよ」 「ええ?お任せ下さい。ええと、次はこの返事ですね」 これを聞いた深留は立ちあがり背伸びをした。 ……千波さんは、本当に面白いな。 梅雨の晴れ間の空には燕が飛びタチアオイの花が揺れていた。二人の会話に深留の心は空色になっていた。 二話「相崎深留」完
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