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三 細い糸
雨上がりの土の道を千波は出勤してきた。梅雨時期の薄曇りの日差しは優しいが、あたりはムシムシしていた。
……まさか、本当に勤務することになるなんて。
世話になった彦三郎のために少しだけ協力する予定だった千波は、元夫から仕事を頼まれて、その結果、勤務することになってしまった。
当人の深留は自分を元妻と気が付かず、彦三郎の姪と信じ仕事を依頼してきた。
……それに、ああいう人だったんだ。
義両親から彼の話は聞いていたが、千波の想像とはちょっと違っていた。それは義両親が息子を美化するあまり情報をかなり盛っていたと千波は思っていた。
高い背、そして広い肩。色白の顔に黒髪の前髪は多少長めの彼は、優し気で温厚な雰囲気の男性だった。
紬の問屋の御曹司らしく紬を着こなす姿は自然であり、身のこなしは上品で美しかった。嫁として過ごしていた千波には彼がこの相崎の御曹司だという事が実によくわかっていた。
……美術に専念していたというのは本当のようだけど。
しかし。千波は彼から経営に関しては危うい空気を感じていた。
さらにそれ以外の日常生活も一人で支度できるか、未知数の彼に千波は危惧していたが、彼が京都から女を連れて来ていると聞き、安心していた。
……その人がいるから生活できるでしょうし。とにかく彦さんが治るまでだから。
そんな空気中、かつての嫁ぎ先にやってきた千波はさっそく庭掃除から始めた。夕べの風で散った葉を掃除しながら、彼女は今日の仕事を想定していた。
……昨日の続きの返事と、もうお中元の事を考えておかないと。
昨年は義父がおり、何もかも取り仕切っていた。その際、すべて千波が手伝っていたので今年も千波に協力して欲しいと彦三郎から言われていた。
……大旦那様も経営の事を心配していたものね。
息子は美術向きであり経営は苦手であると亡き義父がぼやいていたことを千波は思い出していた。
……しかし、これは甘やかしすぎよ。これから本人は困るだろうな。
そして到着した千波はさっそく掃除をしていた。
「おはよう、早いね」
「あ?おはようございます」
いつの間にか廊下の窓辺にいた深留は、寝起きなのか髪が爆発していた。
……ゆうべも遅かったようだから。お疲れね……でも、彼女がいるから大丈夫でしょう。
そして挨拶を交わした千波は、そのまま掃除を続行し、やがて帳場にやってきた従業員達と事務仕事を始めた。
相崎の嫁時代、彦三郎以外に無視されていた千波は、当時長かった髪を切り精神的に穏やかになった顔つきのせいか、誰にも全く元嫁だと気づかれずに仕事をしていた。
「彦さん。ここの数字ですけれど、私の計算と違うと思います」
「どれですか。ああ、確かにおかしいですね」
「私ももう一度計算します」
彦三郎の前でそろばんを弾いた千波は、同じ数字を出してみせた。利き腕が使えない彦三郎の代わりに千波はどんどん仕事をこなしていた。
「あの、番頭さん!大変です」
「はい、何ですか」
尋ねに来た織場の女工は切羽詰まった顔をしていた。
「実は織場の方で、ちょっともめ事が」
「またですか、これからお客さんが来るのですが」
困惑している彦三郎は、ちらと千波を見た。
「……千波さん、申し訳ないが話を聞いてきてくれますか」
「私ですか」
「ええ。様子を見て来てください」
呆れている彦三郎に代わり、千波は彼女と一緒に同じ敷地の織場に移動した。
相崎は問屋であるので織物の製造は行っていなかったが、隣家で経営していた織場が止めることになり、亡き深留の父が経営を引き継いでいた。
現在は相崎の敷地には、通りに面した店がありその奥には母屋。その他、裏庭を囲むように反物がある蔵や、店と通じる織場があった。
織場には若い女工が通い、織物を生産していた。
「何があったのですか?」
「喧嘩です。私達だけではどうしようもなくて」
「喧嘩って……あ、あれですか」
そこでは女同士が織場内で取っ組み合いの喧嘩をしていた。周囲には止めようとしたのか、髪を乱した女工が数人へたり込んでいた。
「この!」
「そっちこそ!いい加減にしなさいよ」
「千波さん!早く止めて下さい」
「そんな事を言っても」
激しい喧嘩などした事が無い千波は、殴り合う彼女達に戸惑っていた。
その時、部屋の隅にあった手洗い用の水が入った桶が目に入った。千波はそれを持ち、二人に思いきり掛けた。
「なによ、これ」
「ちょっと。何てことをするのよ!」
怒りが千波に向けられたが、温厚な千波もだんだん腹が立ってきた。
「いい加減にしなさい!自分達のしていることが分かっているの!」
怒りの千波に一同は静まり返った。
「仕事は中断!機械はもう少しで壊れるところ!あなた達のしている事は喧嘩じゃないわ!破壊よ破壊!」
「え」
「あの、その」
ここで千波は怒りに火が付いた。
「言い訳なんか聞きたくないわ!止めようとした仲間にも暴力を振るうなんて最低の人間のすることよ!」
「すみません」
「あの、その」
「あなた達の顔なんかみたくないわ!今すぐ表に出なさい!早く、すぐに!」
庭に指さす千波の怒号に二人はあわてて縁側から裸足のままで庭に降りた。千波は下駄を履き、ゆっくりと二人の目の前にやってきた。
「立っているなんて良いご身分ね」
「あ、すみません」
「はい」
冷静さを取り戻した女工二人は乱れた髪のまま、土の上に正座した。千波は静かに怒っていた。
「……あなた達の暴力行為は見過ごせないわ。これは警察に通報します」
「すみませんでした!」
「ごめんなさい!そんなつもりじゃ」
「じゃあ、どういうつもりだったんですか」
よく見れば自分を虐めていた女工の二人を千波はやんわりと見つめた。
「そうか、あなた達、相崎を壊すつもりだったのね」
「違います!こいつが私の男に色目を」
「そうじゃありません!向こうが勝手に私の事を」
「それって全然、仕事に関係ないですよね」
千波の言葉に二人は息を呑んだ。千波は静かに語った。
「今、あなた達は相崎に手当てをもらっている時間よ。でも頭の中は違っていたようね」
「それは、その」
「こいつが私を」
「まだわかっていないようね」
二人の前を歩く千波は穏やかに語った。
「御覧なさい。この時間、あなた達のせいで織場の仕事は止まっています。本来であれば織物が進み、しかるべき時期に完成し、相崎の収入になっているはずです」
この声に千波の背後で様子を伺っていた女工達はあわてて仕事場に戻り始めた。たくさんの足音を背後に千波は続けた。
「そして。その収入でみなさんにお手当を払い、材料を買うわけです。しかし、あなた達のせいでその流れが止まりました」
「ごめんなさい」
「本当です、もうしません」
「謝らなくていいです」
べそをかく二人の謝罪は不要と千波は首を振った。
「謝ってもあなた達の気が済むだけです。この空白の損失はどうするつもりか。それをお聞かせください」
「……働いて返します。私、戻ります」
「わ、私も」
泣く泣く二人は織場に戻って行った。その様子を千波は背で確認し、帳場へ戻戻ろうと廊下を歩いた。
……はあ、怖かった。
かつて自分を無視していた女工達は怖かったが、今は無性に腹が立った千波は廊下で息を整えていた。
「すごかったね」
「びっくりした?旦那様。いたんですか」
うんと深留は頷いた。
「声がしたからここで見ていたんだ」
「ここで……」
そういうと紬の着物のたもとに手を入れた深留は、そっと織場を望んでいた。
「それにしても激しい喧嘩だったね」
「ええ、床に髪がいっぱい落ちていました」
「恐ろしい……でも千波さん、本気で警察を呼ぶ気だったのかい」
「いいえ?ちょっと大げさに言っただけですよ」
千波は体をブルっと震わせた。
「私よりも年長の人だったし、本当はすごく怖かったです」
「そんな風には見えなかったけどな。ここから観ていると千波さん、カッコよかったよ」
「旦那様……あのですね」
千波は呆れて彼を見上げた。
「そういう時は旦那様も来て下さらないと」
「え?僕が」
「そうです!本来は私じゃなくて旦那様が止めるんですよ」
「僕があの喧嘩を止めるの?そうか、僕なんだね」
……ここはあなたの店なんですけど!?
ため息の千波に深留は真顔で顎に手を置いた。
「でも僕にできるかな……ねえ、千波さん。僕が行くと、返り討ちに逢うと思わないかい」
「……ふ」
本気でそう言っている深留の天然さに、千波はくすくす笑い出した。
「千波さん?どうしたの」
「ふふふ、いえ、ちょっと想像しただけで」
「あ!それよりもさ。彦が君を呼んでいたんだ。帳場に来て。さあ」
深留は千波の背を押し廊下を進んだ。
「千波さん」
「何ですか」
深留は隣を歩く彼女に感心していた。
……こんなに細くて可愛いのに、さっきはカッコよかったな。
「どうされました」
「いや、千波さんはなんでもできるんだなって」
「……できないですし、それをするのは旦那様です」
「はあ」
思わず首をかしげる深留に千波は笑みを見せた。
「さあ!お仕事ですよ。今日も張り切っていきましょうね」
梅雨の晴れ間、庭の百合のつぼみが揺れていた。結城の里、紬の相崎にはゆっくりと夏が近づいていた。
三話「細い糸」完
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