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四 初仕事
「これは旦那様が参加ですね」
「僕が行くのか」
結城の里の地元の会社の集まり。彦三郎が知らせの手紙を広げていた帳場で深留は参加に難色を締めていた。そんな臆する深留を千波も応援した。
「地元の人ばかりですし、皆さん、旦那様の事はご存じのはずですし」
「そうですよ。挨拶だけすればいいと思いますよ」
千波と彦三郎の励ましであったが、深留はため息をついた。
「はあ、気が重い」
……それが貴方の仕事でしょう。
と言いたいのを千波は抑えて見守っていた。
こうして数日彼と接した千波は、深留は非常に温室育ちであり、嫌な事を避けてきた男と認識していた。
……旦那様も。奥様も甘やかしすぎですよ。おかげで苦労しているもの。
そんな甘やかされた深留がだんだん気の毒になってきた千波であるが、自分は部外者であるので静観しようと思っていた。
「会合か……何を着て行けばいいのだ」
「そうですね。千波さん何かありますか」
「え、私ですか、ええと」
「ちょっと、それは私も行きます!」
恋人のリヨは話に入って来た。化粧の匂い、美しい加賀友禅の細身の姿。リヨは深留にそっとまとわりついた。
「ねえ。うちの反物を宣伝するんでしょう?私はこれが好きよ」
「リヨ、これは仕事なんだぞ!お前の好みではないんだ」
「彦さん。私、奥の部屋にいます」
……リヨさんがいるんだもの。任せないと。
深留は少々不安そうであったが千波は部屋を出て事務仕事をこなしていた。
しかし、翌日。深留は千波に尋ねてきた。
「ねえ千波さん、母屋に来て。やっぱり着物を選んでほしいんだ」
「リヨさんの見立ては?」
「僕は君の意見を聞きたいんだ」
……なぜ私が?
しかし。目の下にクマができている深留に千波は同情した。仕方なく千波は母屋に向かった。その和室には数着の紬が出してあった。
「綺麗。この柳色は新作ですか?」
「よくわかったね。それ僕の図案で作ったんだ」
「素敵ですけれど、華やかすぎるかな……ええと、どうしよう?どれもお似合いですけれど」
素敵な着物に思わず興奮してしまった千波であるが、その中から定番の紬の黒地の着物と、古いデザインの帯を彼女は選んだ。
「新作は使わないの?」
「喪中ですので、相崎の定番が良いと思いますよ。ちょっと当ててみましょうか」
そういって深留の胸の前に着物を置き、姿鏡越しに二人で見つめた。
「これに……旦那様はお帽子もお似合いだから……今夜は難しいですが帯締めも面白いですね」
「帯締めは女物だろう」
「西洋では男性はベルトをしますし、それにこれからは新しい時代ですから。どうですか」
「お」
帯を当ててもらった深留は自分の姿に驚いた。
「結構、サマになっているな」
鏡越しの会話の世界、千波は彼の顔を見ず、姿だけを見ていた。
「ええ。それに今は夏ですが、冬なら革靴もいいですね」
「え。靴?」
「そうです。洋装と合わせると面白いですよ。帽子と言いましたが、髪もこんな感じがいいかと」
「やってください」
「はい、失礼します……こんな感じですかね」
正式な和装しかしてこなかった深留は、千波の正装を取り入れた格好に感心していた。
手櫛で髪型を整えた千波は、鏡に声を掛けた。
「どうですか」
「うん。違和感ないね」
「旦那様は肌の色が白いので……この黒も地味にならずに映えますね」
「普段あまり着ないけど」
「夜の会合ですので、みなさん白地のお着物だと思いますが、旦那様は喪中ですし、色を抑えた方が品よく見えますね」
ここで千波はふと実物の彼を見上げた時、深留は尋ねた。
「この会合……君なら何を着て行くかな」
「同伴の方ですか?ああ、そうですね」
深留の恋人は派手な女だと千波は思い返した。
……どうでもいいか。好きにすればいいし。
「旦那様が色を抑えていますので、お連れの方は自由で良いかと」
「参考にするよ、ありがとう」
こうして千波は深留に助言をし、この場を終えた。
◇◇◇
「どうも相崎です」
「ああ。これはこれは大変でしたね」
そして夜の会合の席。深留は葬式に来てくれた人たちに挨拶をしていた。確かに今宵は深留の顔なじみが多く、彼を安心させていた。
着物は千波が選んだ物である。喪中であったので今夜は正しく着用し会合の席をこなしていた。
「ところで。どうですか仕事の方は」
「まだ継いだばかりで、お恥ずかしいです」
この話の時、誰かが深留の肩を叩いた。
「あの、相崎さんの連れじゃないかい」
「え。ああ、すみません」
酒席。たらふく酒を飲んだリヨは、他の旦那にしなだれかかっており、本人は迷惑していた。
「すみません!申し訳ない」
「……飲みすぎですよ。どうも」
怪訝そうであったが、そう言われた深留はリヨを叱咤した。
「何をしているんだ。こんな真似をして」
「だって……構ってくれないし」
「当たり前だろう」
喪中であり挨拶をしなくてはならない深留は、遊びで来ているリヨに正直参ってしまった。
そして彼は酒席を早々に退室することを選んだ。
帰りの人力車、リヨは寝息を立てていた。深留は星を見ていた。
……せっかく。千波さんが考えてくれたのに。
喪中なので派手さは抑えたつもりだが、この紬姿を見た人には深留の亡き父を忍ばれるといわれ、大変好評を得ていた。
夏の夜の結城の里は蒸し暑く、深留の心も重く沈んでいた
「おはようございます」
「あ。ああ」
「夕べは遅かったのですね」
そんな千波は涼しい時間に働きたいと、寝起きの深留に庭掃除の完了を告げた。
「おかげさまで、好評だったよ。ふわああ」
「……お水を飲んでもう少し休んでください」
……そんな顔色で店に出られても彦さんが困るわ。
千波はそう言うと彼を縁側で横に寝かせ、蚊取り線香にマッチで火を点けた。
「さ、どうぞお休み下さい」
「でも仕事が」
千波はにっこり微笑んだ。
「体調不良で店に出られると、従業員も困りますよ」
「でもサボっているみたいだし」
「夕べのお酒の席もお仕事ですから。別に構うことありません」
そして蚊取り線香の煙が立つのを彼が待つ間に、水を汲んできてくれた彼女の言葉に深留はやっと安心して寝そべっていた。
「じゃあ少し寝ているよ」
「旦那様の代わりはいないのですから。どうぞお休みください」
「ありがとう」
そんな深留は本当に気分が悪そうだった。
「私、掛ける物を取ってきますね」
そんな二人で過ごす縁側。中庭の草むらにカエルがいるようで鳴きだした。
「ささ、お休み下さいね]
「ああ」
それでも寝ようとしている深留であったが、さすがにうるさかった。
「千波さん。ごめん。やっぱりダメだよ」
「……ふふふ」
深留が見ると、千波は笑っていた。
「笑ってすみません!旦那様が寝ようとしたら、急に鳴きだしましたね」
「僕の睡眠を邪魔する気なんだよ。失礼なカエルだ、あ。うわあ」
大きなカエルが深留の側に跳んできた。彼は思わず千波にすがった。
「ど、どうすればいいの?」
「じっとして。動かないで!」
カエルは大きく呼吸をし、深留をじっと見ていた。
「こっちに来る……」
「お静かに!大丈夫、大丈夫……」
思わず深留を背にした千波は、あっちに行け!と眼力を飛ばしていた。
しかし、その時、カエルが動いた。
「……きゃああ!」
「うわあああ!」
そんなカエルはこちらに来ず、池にジャポンと戻って行った。
抱き合う二人はほっと胸をなでおろした。
「はあ、恐かった……」
「大きなカエルでしたね」
思わず庇ってしまった千波は、ふと抱き合っている事に気が付き、離れた。
「すみません!」
「いいや……それにしても大物だったよ」
深留は額の汗を拭っていた。
「あのカエル、僕に怒っているみたいだったし」
「そんな感じでしたね」
しばし沈黙が流れたが、深留が額の汗を拭った。
「僕ね、完全に目が覚めたよ」
「そのようですね。では、顔を洗って朝ごはんですね」
「うん。しかし怖かったな……」
そんな千波も額の汗を拭っていた。立ち上がった深留は、つい千波の手を引いて立たせた。
……小さな手だな。でも働いている手だ。
小柄な女性、肩までの髪は元気よく揺れていた。着ている紬は伝統的な藍色の縞模様。華奢であるので縞模様はどこか細く彼女に良く似合っていた。
帯には赤、黄色が交じり、藍色によく映えていた。
……しっかり者なのに、可愛い人だな。
「旦那様?」
「あ。ああ。母屋へ行くね」
恥ずかしそうに頭をかく深留は廊下を進んでいた。千波はその背を見届けると帳場へと仕事に向かっていた。
夏の始まりの結城の朝、カエルの声が相崎の庭に響いていた。
四話「初仕事」完
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