五 ひとりぼっちの御曹司

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五 ひとりぼっちの御曹司

「彦。これは何だっけ」 「旦那様。それは先ほど説明したものと一緒です」 「そうか」 「それが済んだら昨日の続きをお願いします」 「ああ」 忙しい帳場で深留は疲れた目をこすっていた。 今まで親に任せていた商売を引き継ぐことになった深留は、慣れない仕事に心が折れそうになっていた。 子供の頃から紬の模様を考えるのが好きだった彼は、『深く思いを留める』という名前を付けた相崎の祖父の勧めでそれだけを専門に学んできた。 経営の事も知る必要があると父と祖父はもめていたが、深留に天性の才能を感じた祖父は、経済的な事を学べば美術の心が曇ると考え、深留には好きな事をさせる方針とした。 確かに紬の模様の才能を開花させたが、相崎の経営を危惧した父は、彼を支える敏腕な嫁をずっと気にしていた。しかし、深留は、今、一人だった。 ……ええと、昨日の続き、これはいつまでやるんだっけ。 「あの旦那様。お客様です」 「ああ、今行くよ」 そんな仕事に追われていた深留は、午後、奥の部屋で休憩していた。 「ねえ、深留さん。お菓子でも食べましょうよ」 「リヨ……とてもそんな気分じゃないよ」 「少し休めばいいじゃないの。深留さんがいなくてもお店は大丈夫よ」 「そうはいっても」 疲労のため心がくじけている深留は、思わず帳場の方を見つめた。 ……確かに、僕なんかいなくてもお店は大丈夫なのかもしれない。 結婚を拒否し、両親が経営していたここ一年余りは、実質、彦三郎が店を回していたと彼は聞いていた。それを聞くと、自分などいなくても良いのではと思うようになってきた。 「ねえ。お酒でも飲んで心を休めましょうよ」 「……」 帳場の忙しそうな声に反比例するように、深留の心はどんどん沈み、奥の部屋で彼は休んでいた。 「あの番頭さん。旦那様はどちらに」 「……奥の部屋で休憩中だ。その仕事はこっちで処理する」 「はい」 深留がいない帳場の彦三郎は、二番番頭にそう言うと黙々と仕事をしていた。 時折やってくる客は彦三郎が対応し、電話や手紙は千波がこなしていた。 ……しかし、いつまで休憩しているのよ。 仕事が溜まる様子に千波は心配から、だんだんイライラしてきた。この空気を読んだ国松は彦三郎に尋ねた。 「番頭さん。おいら、旦那様をお呼びしましょうか」 「いい。そのままにして置け」 「へえ」 これを見かねた千波は彦三郎にささやいた。 「でも。彦さん、旦那様にここにいてくださるだけでも、いいと思うんですけど」 「はあ……千波さん、ちょっとこちらに」 彦三郎は千波に書いてもらう書類を国松に持たせ、三人で奥の個室にやってきた。 「千波さんの気持ちも分かりますが、旦那様は相崎を継いだばかりです。それに、おわかりのように実務は苦手な方なのです」 「それはわかっています。でも」 「私は旦那様が仕事を放棄されるのを心配しています」 「放棄」 「ええ、嫌になってまた逃げ出さないかということです」 彦三郎のため息に国松もうなづいた。 「確かにそうかも。旦那はお疲れだしな」 「そういうわけです。ですので千波さんもあまり刺激しないでください」 「は、はい」 そういって彦三郎は下がり、国松も下がった。千波は部屋で一人になった。 ……そんな事を言っても。この店を守っていくのは旦那様でしょう。 孤独、無知、重圧。それは全部わかっているはずで自分を追い出した深留に、千波は怒りの煙を必死に抑えていた。 亡き義両親が心配していた通りの筋書きになっていることに千波はイライラしながら、手紙のための墨を筆に付けていた。すると、母屋から二人の会話が聞こえた。 ……従業員が、みんな頑張っているのに。 のんきな会話にさすがの千波も怒りが頂点に達した。 その帰り、国松も同じことを言い出した。 「おいらもだんだん腹が立ってきたよ」 「そうよね。これじゃ、みんな辞めてしまうわよ」 宵の一番星を見ながら国松はつぶやいた。 「きっと旦那は仕事がつまらないんだよ。京都で模様の勉強をしていた方が楽しかったんじゃないの」 「それは遊びだから楽しいじゃない。あ、そうか。なるほど」 国松の話に千波は納得したように自分に言い聞かせていた。 「そういうことね。わかったわ」 「姉さん?」 「旦那様はお仕事が何かってわかっていないのよ。いいわ、私が説明してみる」 「大丈夫かい?」 「ええ。心配しないで。私はいつでも首になっても平気なのだから」 笑顔の千波に不思議の国松であったが、こうして二人は翌日を迎えた。 「あの。番頭さん、旦那様は?」 「今日は休みかもしれないな。こちらで進めるぞ」 「はい」 この日も深留は不在。彦三郎は男性事務員たちにそういうと仕事を進めていた。 「彦さん、私、奥の部屋にいます」 「ああ。お願いします」 この時、千波はちらと国松を見て息を吐いた。そしてそのまま母屋の廊下を進んだ。 「旦那様、千波でございます」 「あ。ああ、どうした?」 「仕事なら後だよ」 襖の向こうから深留とリヨの声がした。千波は静かに声を掛けた。 「お話がございます」 「……わかった。千波さんの部屋に行くよ」 「お待ちしております」 そして千波は待っていた。 「失礼します……あの、話って何かな」 「そこにお座りください」 千波の静かな勢いを察知したのか、深留はすごすごと座布団に座った。 「私がお話したいのは、旦那様のお仕事に対する考え方についてです」 「か、考え方?」 「そうです。はっきり言って今のままではダメです」 「ダメって、それは。僕の態度ってこと?」 「態度というよりも。仕事に対する考え方です。この相崎は旦那様が社長なのですよ」 深留にお茶を出した千波はしっかり彼を見つめた。 「確かに不慣れでしょうし、確かにわからない事ばかりです。でもそれは誰だって初めはそうでしょう」 「まあ、そうだけど」 「ところで旦那様、お仕事は楽しいですか」 「はっきり言って、楽しくはないね」 ここで千波は、待っていました、とばかりに話した。 「それはね、当たり前です」 「え」 「みんな楽しくないのです。でもお金をもらうために、働いているのです」 千波は必死に優しく彼に諭した。深留は驚きで千波に向かった。 「でも。楽しそうに生き生きしている人もいるじゃないか」 「それはですね。どうせ仕事をするなら苦しんでやるよりも楽しくやった方がいいしょう?」 「まあ、そうだな」 「だから。みんな自分で気持ちを盛り上げて仕事をしているんです」 「そうなの?」 驚き顔の深留に千波は呆れて肩を落とした。 「そうです!これが終わったら家に帰れる。これが済んだら好きなものを買うんだ、家族が待っている、と。自分で自分を励まして、楽しく仕事をしているんです」 「知らなかったよ」 「でしょうね!」 思わず千波は興奮してしまった。 「仕事とは辛いものなんです。楽しいものじゃないのです。その代価としてお金をもらうのですから」 「そうか……僕は仕事は辛いと思っていたんだが、それはみんなもそうなんだね」 「そうです。辛いのは旦那様だけじゃないのです、安心してください」 「なるほど」 納得している深留の前で千波は思わず自分で淹れたお茶を飲んだ。 「じゃあ千波さん。僕も仕事を楽しくやればいいんだね」 「そう!その通りです!ああ。嬉しいです。わかってくださって」 笑顔で思わず手を叩く千波に深留はまっすぐ見た。 「千波さんもそうなのかい?君も仕事が辛いから楽しくやろうとしているの」 「え?私は、楽しいとか辛いとか、考えた事はありませんね」 理解してくれた深留が嬉しい千波は湯呑を片付けながら返事をした。 「息を吸うのと同じくらい、しなくちゃいけない事だと思っているので」 「息を吸うこと」 「はい。でもそうですね。私のしたことで誰かが助かるとか、役に立つなら、それでいいかなと思っています」 「……」 ……あれ。言い過ぎたかな。 考え込んでいる深留に千波は少々焦った。 「そういうわけです。さあ!お仕事を始めましょうね」 そう言って千波は彼を帳場へ送り自分の仕事を再開させた。 元夫に説教してしまった千波は、部屋に溜まった仕事をこなし、夕刻、相崎を後にした。 翌朝は雨だった。庭掃除ができないのを理由に千波はいつもよりも遅くに出勤し、早々と個室で仕事を始めていた。 「姉さん、おはようごさいます」 「おはよう、国松君。あの旦那様は?」 「まだ、顔を出していないです」 「そう、か」 ……これは。言い過ぎたか。 「失礼するよ。おはよう千波さん」 「お。おはようございます」 深留は何事も無かったように微笑んでいた。 「あ、国松。新聞を持ってきておくれ」 「はい!」 「ええと、千波さんに聞きたいことがあるんだ」 「はい。何でしょう?」 深留はそっと千波がいるそばにやってきた。 「昨日、君は言ったね。自分のしたことで誰かが助かるなら、それで十分だって」 「は、はい」 ……昨日の続きの話?もしかしてずっと考えていたの。 真剣な深留に千波は冷や汗がでてきた。 「でもね。僕の仕事は、紬の着物の販売や、模様を考える仕事だ。それは僕じゃなくても他の人だって同じことをしている。そんな僕でも誰かの役に立っているのかな」 どこか悲し気な目で自分を見ている深留に、千波は思わず目を伏せた。 「……そんなの、決まっているじゃないですか」 「え」 千波は胸が詰まった。 「亡くなったご両親や、ここの従業員達。それに相崎の取引先はみんな旦那様の考えた模様を待っているじゃないですか」 「そうなの?」 「旦那様。旦那様は何のために京都に修行に行っていたんですか」 雨音が響く部屋で千波は涙を必死にこらえた。 「ただの遊びだったのですか……ご両親がこの店を守っていたのに」 「千波さん……」 千波の涙は抑えていた膝の拳に落ちた。 「旦那様の作品は旦那様しかできないのに……それなのに、そんな風に思っていたなんて」 「あの、その」 自分を捨てて京都に修行に行っていたはずの深留の弱気な言葉に千波は涙が止まらなかった。 ……やっぱり、自分の事しか考えていない人なんだ。 「……もういいです。私は今日で辞めます」 「え」 「どうぞ、好きな事だけをして暮らしてください」 頑張らなくても贅沢をしなければ彼には財産がある。奥座敷には恋人もいる彼に千波はもう必要が無い存在だった。 「私、この書類を仕上げたら失礼します」 「千波さん」 しかし涙を拭った千波は彼に背を向け手紙を必死に書き進めた。深留はその小さな背をじっと見ていた。そして退室した。 ……怒ったかもね、でも、仕方ないし。 そして手紙を書き終え、彦三郎に辞めると報告した。 「そうですか。まあ、こっちは大丈夫ですので」 「お世話になりました。どうぞ。腕は無理しないでくださいね」 相崎を出た千波は雨上がりの夕刻の道を歩いていた。 ……これで、一応、少しだけ恩を返せたかな。 黄昏の道、蒸し暑い紫陽花の道を歩きながら千波は空を見上げた。 妻としての活躍はできなかったが、最後に彼に一言を言い心は少しだけすっきりしていた。 「……さん!千波さん」 「え?」 そこには深留が走って追いかけて来ていた。 「はあ、はあ、待って、待ってくれ」 「旦那様」 深留は膝に手を置き、息を必死に整えた。 「……君は言ったよね。仕事って誰かの役に立つ、と」 「はい」 「僕は、その。それをやってみたいんだ」 「……どうぞ。おやりになってください、では」 「待って!千波さん、それを君に見て欲しいんだ」 去ろうとする千波の後ろ手を深留は掴んだ。千波は驚きで見上げた。 「お願いだ。どうか。僕の事を見ていて欲しいんだ」 「……旦那様、それは他の人に」 「君に、その。認めてもらいたいんだ、こんな僕でも役に立つのかって」 必死の深留は千波の肩を掴んでいた。この様子を通行人がじろじろ見ていた。 「旦那様、人目が」 「千波さん、頼む!どうか」 「ひとまず、こっちに行きましょう」 千波は細い路地に彼を連れてきた。 「……どうして私なのですか。他にたくさん人がいますよね」 「いないよ。君のような人なんて」 「それはどういう」 「とにかく!辞めるなんて絶対ダメだよ。彦が治るまでって約束したじゃないか」 「でもそれは」 「千波さんは誰かの役に立ちたいって言っていたよね。だったら僕のために役に立っておくれよ」 「旦那様」 じっと見つめる深留に千波は思わず目をつむった。 「わかりました」 「よかった」 「でも」 千波はしっかり彼を見上げた。 「そこまで言うなら、しっかりお仕事してくださいね」 「もちろんだとも。さあ、戻ろう」 「え」 深留は嬉しそうに千波の手を取って歩き出した。 「私、今日はこのまま帰るつもりでしたが」 「彦に今の話をしないとだめだよ。明日から君が来ないと思っているからね。あ」 深留はそっと千波を見下ろした。 「千波さん、ありがとう」 ……でた?天使の笑顔! 「うう……はあ」 無邪気なにこやかな深留に千波は何も言えなかった。 自分を元妻と知らない夫は、彼女の手を握り自宅へ連れ帰ろうと元気よく歩いていた。 雨上がりの結城の里、黄昏色の風は元夫婦を揺らしていた。 五「ひとりぼっちの御曹司」完
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