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五 裸の王様
「え?まだ届いていないのですか?申し訳ありません!すぐに確認します」
謝りながら電話を切った彦三郎は痛めた腕を庇い立ちあがり伝票を捜していた。片手では進まない様子に千波も一緒に探し出した。
「彦さん。何をお探しですか」
「注文の反物を、先日『名古屋』の伊なせ呉服店に送ったはずですが、届いていないと言われまして」
「名古屋ですか……ないですね。その住所は」
「いや、ありました。これです」
そこにはあまり見たことがない筆跡の伝票があった。これを見た彦三郎は、なぜかうなった。
千波は一緒にこれを読んだ。
「宛先は『伊なせ呉服店』ですね。あ!でも、それは、東京の住所ですよ」
すると彦三郎は、悲しく話した。
「この『伊なせ呉服店』は名古屋の新宿と東京の新宿にあるんですよ」
「どちらも新宿?……でも、それは同じ系列の店ですよね」
「全然違うのです、むしろ競合相手で」
「うわ。それは」
非常にまずい事態に千波も思わずうなってしまった。
「では、今の反物は東京の伊なせさんにあるんですね」
「そうなりますね」
馴染みの呉服店なので送った人間は間違ったと話す彦三郎は、あの反物は一点ものだと頭を抱えた。
「彦さん。東京の伊なせさんに、相崎に送り返してもらうわけには」
「時間がかかりすぎですね」
「ではお願いして、そのお店から名古屋の伊なせさんに送ってもらうのは」
「それは無理です。名古屋の伊なせさんも受け取らないですよ」
「はあ、これは」
……これは、東京に取りに行くしかない、か。
「どうしたの?」
そこに純粋無垢な深留が顔を出した。今朝は銀鼠の絽の着物の深留からなぜか彦三郎は慌てて伝票を隠そうとしたが、慌てて落としてしまった。
「彦の顔色が悪いよ……あ。これは僕が送ったものだ」
「ああ……そう、ですね」
……そうか、彦さんは旦那様の間違いを隠そうと。
これは深留の誤りであった。彦三郎はこれを彼に耳に入れずに処理しようとしていたことが千波には分かった。
「いえ。あのその。旦那様は奥でゆっくりお茶でも飲んでいてください。ね。彦さん」
「ええ。先ほど渡した手紙の返事をお願いします」
「そう?」
不思議そうであるが深留は奥の部屋に消えて行った。帳場は一気にため息に包まれた。
「千波さん、これは私が今から東京に行ってきます」
「彦さん。その腕では無理です」
他にも従業員がここにはいるが、彼らも深留と彦三郎の支援に追われていた。
「いいです、私が行きます」
「ですが」
「その前に電話で確認しましょうか」
千波は彦三郎に頼み、東京の伊なせに事情を話した。そして反物があることを確認しこれから取りに行くと言い、了承を得た。
時刻はまだ午前中。手土産に近くの菓子屋で結城名物の「ゆでまんじゅう」を買った千波は国鉄結城駅へ向かった。
千波は反物を現地から名古屋に送る事にし、明治22年に完成したばかりの真新し駅舎から汽車に乗った。
……甘やかしといえば、そうだけど。確かにあの旦那様なら落ち込んでしまうかもしれないわ。
せっかくやる気を出し仕事を始めたばかりで間違いが続くと、彼なら辞めたくなるかもしれないと千波は自分に言い聞かせ、列車の堅い椅子に背筋を伸ばして座っていた。
石炭の煙で車窓の景色は途切れ途切れであるが、桑畑の緑が一面広がっていた。
その奥の筑波山を捜しながら汽車の二駅先の小山駅で降りた千波は、ここから東京への汽車に乗り換えて、新宿へと向かった。
「ねえ、彦、千波さんはどこに行ったの」
「ちょっとお使いを頼みました」
「ふーん……」
……おかしい、事務員がどこかそわそわしている。
「あ、電話だ、僕が出るよ」
「いえ?大丈夫です。はい、相崎です」
なぜか仕事をさせてもらえない深留は、仕方なく母屋に下がった。その時、リヨは花札をしようと深留を誘った。
「仕事中だぞ」
「いいじゃないの。従業員にやらせれば」
「しかし」
リヨは真っ赤な口紅で深留に迫った。
「あなたはここの社長なのよ。そんなに働くことないわ」
「だが」
「それに。深留さんは図案が得意なんですもの、経営や難しい事は従業員に任せておけばいいのよ。そのためにいるんだから」
「……」
……確かに僕は戦力にならないかもしれないけれど。
「ちょっと出かけて来る」
「あら、ねえ、遊ばないの」
リヨの声を無視し、深留は近所の幼馴染の味噌屋にやって来た。
「邪魔するよ」
「お、深留か。よう!ちょうどよかった」
江戸時代から続く老舗を継いでいる達治は奥の部屋で一緒にそばを食べようと誘った。深留は一緒に食べた。
「あのさ、なぜかうちの店の者が僕によそよそしいんだ」
「お前、何かしでかしたんじゃないか」
「かもね」
本音で話す達治はそばつゆにワサビを追加した。
「うちはまだお袋がいるから、俺が何かしたら怒り出すけどさ、お前の所じゃ気を遣ってお前に言わないかもな」
「……一応何でも言って、と言っているけどね」
「言わねえだろうな……あ?そばつゆ入れるぞ」
「ああ」
そばちょこに入れてもらった深留はそれでも考えていた。達治は腕を組んだ。
「そういう場合、お前が傷付くと思って言わないわけだ」
「でも、僕はそんなに凹まないんだけど」
「周りはそれを知らないだな」
聞きながら深留はそばつゆを飲んだ。問屋の相崎の一人息子の深留は、幼い頃から王道の御曹司の道をたどって来た男である。
どこへ行っても神対応なのは当然、さらに裕福さが醸し出す余裕がだだ漏れの彼からは、側にいるだけで癒されるような空気を纏っていた。
決して争わず、決して怒らず。いつも穏やかで天然色。側にいるだけで思わずにこにこしてしまうような、そんな魅力の持ち主だった。
「ああ、僕は最初からうまくやろうと思っていないし、今は継いだばかりだから相当失敗すると思って挑んでいるから」
「そこは失敗しないように挑むと思うんだけどな……まあ、それが深留だしな」
幼馴染の達治は深留の精神の強さを熟知していたが、他者にはそう思われていないことも知っていた。
そして達治は深留も従業員の気持ちを考えないとだめだと助言してくれた。そんな深留は納得しながら相崎に帰って来た。
「ただいま」
「はい、お帰りなさいませ」
「彦、僕も手伝うよ」
「いえ、旦那様は奥で休んでください」
ここで深留は彦三郎の隣に座った。
「彦。頼りないかもしれないけれど、僕だって何かするよ」
「え」
この言葉に帳場はしんとなった。
「確かに。僕は実務が苦手だけど、それでも様子を知っておきたいんだ」
「……そうですか」
彦三郎はそっと書類の束を深留に渡した。
「私は旦那様に一気に任せるよりも。少しづつお教えしようとしておりました。では。まずこれをお預けします」
「日誌かい?」
「そうです。それは去年のです。読めばこれからする仕事が分かりますので、よく読んでください」
「わかった」
「やる気が出たのは私も嬉しいです。では、私はちょっと金庫に」
「ああ」
深留がこのまま彦三郎の席で日誌を読んでいた。すると電話が鳴った。
「いい。僕が出る。はい問屋の相崎です」
『私、千波です。その声は旦那様ですか』
……どうしよう、報告したかったのに。
秘密任務を遂行している千波は、まさか本人が電話に出たのでびっくりした。
「そうだよ」
『彦さんはいませんか』
「今、席を外しているね」
公衆電話の千波は背後に並んでいる人を思わず見た。その人は時計の時間を気にしていた。
……短めに切り上げないと!
深留にわからないように伝言しないといけない千波は、目をつむりながら受話器に向かった。
『では、彦さんに伝言お願いします。任務終了、と』
「任務終了ね。わかったよ」
『ではよろしくお願いします』
と電話が切れた。その時、帳場に戻って来た彦三郎に伝言を告げると、彼だけではなく帳場の雰囲気も一気にほっとしていた。
不思議だったが深留はこの日、遅くまで日誌を読んで勉強していた。
翌朝。なぜか千波は疲れた様子であったので、深留は国松に尋ねた。
「ああ、姉さんは東京までおいでになったので疲れたんじゃないですか」
「東京」
「へえ。新宿までの切符代がどうの、って聞こえました」
「新宿」
「慌てていましたからね。何かあったのかなって」
「慌てていた……もしかして」
急ぎで送らないといけない品があり珍しく自分が手配した事を思い出した深留は彦三郎に尋ね、真相を知った。
そして今後は必ず教えてくれと彦三郎に頼んだ。
……そして、今度はこの人だ。
「千波さん、失礼するよ」
「はい、どうも」
彦三郎の代筆なので、奥の部屋で一人で作業している千波に深留はすっと窓辺に立った。
「仕事を続けていいよ。昨日は任務ご苦労だったね」
「いえ。これも仕事ですから」
「僕のしりぬぐいが仕事なの?」
「え」
深留は首をかしげていた。
「あのね、どうか僕を『裸の王様』にしないで欲しいんだ」
「……」
「どんどん意見をだしてくれないかい。みんなに本音を言ってもらえないのは寂しいんだ」
「いいのですか」
「いいよ」
……私もそう思っていましたよ。
周囲が甘やかす様子をおかしいと思っていた千波は、さっそく彼に向かった。
「では、そうですね……」
「どうぞ」
しかし、深留の顔を見ているとどうも浮かんでこない千波はひたすら彼をじっと見つめた。
「今は……無い、ですね」
「そうかい」
「……仕事をします」
悔しい気持ちを抱きつつ仕事に向かう千波を深留は背後から囁いた。
「ありがとう」
「え」
振り向いた千波に深留は微笑んだ。
「では、そういうわけで」
「は、はい」
鼻歌まじりで彼は退室した。千波の耳には深留の甘い声が残っていた。
耳を抑える千波の頬は紅潮していたが、彼女は必死これを打ち消した。
梅雨の晴れ間の青空は千波を熱くしていた。
五「裸の王様」完
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