六 青い月

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六 青い月

「おはようございます。千波姉さん」 「国松君、おはよう。今日も暑そうね」 「うん、姉さんも無理しないでくれよな」 「あ、ちょっと待って」 千波は彼に作りすぎたお稲荷さんを渡した。 「いいの?」 「お昼にどうぞ。気を付けてね」 「うん」 笑顔の少年は配達に出かけていた。相崎の玄関先の掃除を終えた千波はすでに廊下の雑巾掛けを終えていた。 千波が去った相崎は、女工が掃除をするようになったようだが、十分に行き届いておらず、綺麗好きの千波はそわそわしていた。 また義両親の介護がない千波は余裕があるくらいであった。 「彦さん。その計算も私がやりますよ」 「助かります」 「奥の部屋にいますので」 こんな仕事が速い千波を他の女工は感嘆していた。 「番頭さん、千波さんって、前はどんな仕事をしていたのですか」 「そうですよ、どうすればあんなに働けるのですか」 「無駄口は良いから。自分の仕事をしなさい」 そう説教をしている彦三郎を横目に席を外した深留は、そっと千波がいる部屋の襖から中を覗いていた。 ……しかし熱心だな。それに全く動きに無駄が無い。 その時。ふと千波が振り向いたので深留は慌てて隠れた。 ……あぶない!っていうか。僕は何をしているんだ。 ドキドキの深留は胸を抑えて店に顔を出した。そして仕事をこなしていた。 「旦那様、お昼の時間ですよ」 「そうか」 女工達が作る昼飯。深留は彦三郎と母屋の別室へ食べに行こうと立ち上がった。 「ん、そういえば千波さんはどうしているんだ」 「あ?ああ。弁当じゃないですか」 「弁当……」 二人の食事は女工が母屋まで運んでくれていた。この時、深留は千波も誘うと言い出した。 「大丈夫、僕が誘うから」 「でも、その」 止めようとしている彦三郎の声も聞こえない深留は、千波が使用している個室を訪ねた。 「失礼するよ、千波さん」 「どうされましたか?」 「もう……食べているんだね」 一人の小部屋にて千波は弁当を食べていた。深留は思わず彼女を見つめた。 ……お稲荷さんだ。 「一緒にどうかと思ったんだが、すまないね」 「……こちらこそ、お先に失礼でした」 深留はそっと襖を締めた。そして母屋で彦三郎と食事をした。リヨは遊びにでかけており、男二人で食べていた。 「はあ、また『けんちん汁』か」 「すみません。支度がこれしかできないようで」 「しかたない」 そう言って食べ始めた深留であるが、ふと思い出した。 「それにしても、千波さんはずいぶん仕事が速いんだな」 「そうですか、あんなものでしょう」 「いやいや。実家はどんな家なんだ」 「そうですね」 嘘を言う余裕もない彦三郎は、千波の本当の話をした。 「父親は有名な染め物職人でしたが、早くに亡くなりまして、母親はあの子を連れて再婚したのですがその家は商家でしてね。そろばんや書はそこで習ったと聞いています」 「なるほど」 「商人の家で育ちましたが、やはり父親の血でしょうね。紬に興味があるというので結城に来ている次第で」 「なるほど」 この後、仕事の話をしたが彦三郎は外出した。深留は千波の事が気になって仕方なかった。 そしてやはり彼女の部屋を訪れた。 「……失礼するよ。あ」 早朝からの出勤のせいか、または満腹のせいなのか。千波は畳の上で寝落ちしていた。 ……書類にうずもれて寝ている。 行き倒れのようにすうすうという寝息を立てる彼女の寝顔を深留は、今が好機とじっと見た。 長いまつ毛、肩までの黒髪はさらさらで、少し見えるうなじの産毛は若さを物語っていた。 紬の着物から見える肌が白く細く。少しはだけた足は無防備でなぜか胸が騒いだ深留は恥ずかしそうに着物を直した。 しかし。千波は熟睡していた。 ……おっと、手紙が破れそうだ。 見かねた深留は彼女を抱き上げ、部屋の隅へと移動させた。 ……まだ起きない。ふふ、無邪気だな。 近い寝顔に微笑みながらふと見ると彼女の着物は古い模様の紬だった。 ……これは変わった文様だな。どういう作りで。 「う……うーん」 ……まずい!起きそうだ!? 慌てた深留は部屋を出て行った。そんな事とは知らない千波はゆったりと起きて仕事を再開させていた。 そんな出来事の翌日の朝顔の朝、深留が庭先で背伸びをしている時、会話を耳にした。 「姉さん。昨日のお稲荷さん、ありがとう、すごくおいしかった」 「良かった。あのね、今日もあるのよ。それと、これはいただき物のさくらんぼよ」 「うわ!うまそう」 ……くそ!国松の奴、千波さんの手料理をたべているのか。 二人の仲がよさそうな雰囲気に深留はいらいらしていた。そんな深留は千波を昼食に誘った。弁当だった千波はそれでいいならと応じてくれた。 彦三郎は遠慮すると言い、元夫婦は千波の部屋で食事をしていた。 「旦那様は『けんちん汁』ですか」 「ああ、君は」 「お稲荷さんです。好きなんです」 「へえ、僕も好きだよ。さくらんぼも大好きだ」 じっと見つめる深留に、千波は澄ましていた。 「……そうですか」 「ああ」 ……食べてみたいのかな。でも、私の手料理なんか。 そんな深留は実に悲しそうにけんちん汁を食べていた。目の前の悲壮な深留を見た千波は、さすがに気の毒になった。 「あの、一つ召しあがりますか」 「いいのかい。おお」 黄金色のお稲荷さんを繁々と見た深留はパクと食べた。 「うん……酢の加減が、いいね!」 「ありがとうございます」 ……相崎の大奥様の直伝ですから。 酢に入れる砂糖と塩加減を母の味と知らずに感動している深留は、他にも千波の弁当をみていた。 「あの……これも食べますか?煮物ですけれど」 「おう。どれどれ……ああ」 煮物を嬉しそうにかみしめる深留を千波は複雑な思いで見ていた。 ……毎日何を食べているのかしら。 見れば痩せているし、千波の弁当をやけにうまそうに食べる深留が千波には不思議だった。 「あの、このさくらんぼは形が悪いので」 「千波さん!」 「え、何ですか突然」 「頼みがあるんだ」 深留はこのお稲荷さんが食べたいと千波の両手を握った。 「費用は払うから。明日作ってきてくれないか」 「これをですか」 「ああ、これだよ。頼むから」 「でも」 「お願いだよ」 必死の深留が握る手の強さに、千波はまたしても負けた。 ……これは、断るのは無理そう。 この深留に千波は作ってくると約束した。そして翌日の正午になった。 「さて、お昼だ、彦、行ってくるよ」 「はいはい。私は後にしますので」 楽しそうな深留は千波と約束した部屋に入った。 「あ。旦那様、こちらに用意しました」 「おお。すごい」 相崎で使用していないお重を借りた千波は、たくさんのお稲荷さんと煮物や、卵焼きを彼にだした。深留は黙黙とこれを食べていた。 「お茶」 「はい、どうぞ」 「お新香は?」 「これです」 ……すごく集中しているわ。いつもと雰囲気が違う。 初めてみる真剣な様子の深留の箸がふと止まった。 「……この卵焼き」 「え?何かありましたか」 「美味しい……」 うなるように食べる彼に千波は思わず笑みをこぼしていた。 ……大奥様は厳しかったけれど。 こうして深留が食べている様子を見ると、千波は少し苦労が報われて気がしてきた。 「千波さんは食べないの」 「そうでしたね。食べます」 優しい深留であるが、彼は自分を拒絶した男であった。一緒に過ごし楽しくなればなるほど、千波は悲しく空しく寂しい気持ちになっていた。 ……本当だったら。こうして夫婦で食べていたのかな。 義理の母から必死に教わった料理は夫のために習得したものだった。その本人に追い出された千波は、優しい深留に複雑な思いを抱いていた。 「ごちそうさま!明日もいいかな、何でもいいから」 「……わかりました」 そして仕事をこなした千波は、黄昏の道を歩いていた。 ……きっと。お母さんの味だから、美味しいのよね。 自分が作ったからではなく、母の味だから喜んでいる深留に千波の心の傷が痛んでいた。 「ちょっとそこのあんた」 「私ですか」 帰り道の路地には派手な女が立っていた。彼女は顎で千波を呼んだ。 「そうだよ、お前だよ。人の男にちょっかい出しやがって」 「何の事ですか、きゃあ」 「生意気なんだよ!」 足蹴にされ倒れた千波はそのまま何度も蹴られてしまった。 「止めてください!」 「いいかい!深留は私の男だよ!金輪際近寄るんじゃないよ!わかったか!」 そう言うと唾を吐き捨て彼女は去った。ボロボロの千波はゆっくり立ち上がった。 ……そうか、あの人が深留さんの恋人、か。 土の道で転んだ手は血が滲んでいた。蹴りが顔に入り、唇を切っていたが、一番星を見つめる千波は心が痛かった。 ……私、一体何をしているんだろう。 元夫のために尽くしてしまっている自分は、無意味であり、無情だった。痛む体で立ち上がった千波は一人きっりの家に帰って行った。 ◇◇◇ 翌日、千波は午後に用事があるといい、弁当だけを深留に渡し、帰宅してしまった。 一緒に食べることはないが深留は喜んで食べ、こうして弁当を毎日頼むようになっていた。 「あの、旦那さん」 「どうした国松」 「怒らないで聞いてくださいますか」 朝の庭先で少年は小さく話し出した。 「おいら、見たんだ、姉さんがその、旦那さんの姉さんに虐められている所を」 「姉さんって」 「その……いつも奥の部屋で酒を飲んでいる、京都の女だよ」 深留は背中が急に冷たくなった。 「リヨのことか?なあ、それはどこでだ」 「千波姉さんの家の近く。キラキラ女は待ち伏せして意地悪をしているんだ」 「なぜ」 「弁当がどうとか聞えたよ」 「まさか」 顔色が変わった深留に国松は真顔を続けた。 「旦那さん、最近姉さんの顔をみたかい」 「え、そういえば」 ……見てないな、忙しいと言って。 この時、国松を呼ぶ声がした。彼は応じた。 「旦那さん、姉さんを守って」 「わかった、すまなかった」 ……リヨが、千波さんを。 立ちあがった深留は部屋で化粧をしていたリヨに事実を確認したが、そんなことはしていないと言った。 「私がそんなことをするはずないじゃないの」 「しかし」 「ところでさ。遊びに行こうよ。映画でも観ようよ」 美しいリヨの細い手は蛇のように深留に迫っていた。彼はその手を振り払った。 「今は忙しくてそんな時間はないんだ!いい加減にしろ」 リヨを叱った深留は、奥の部屋で事務仕事をしているはずの千波を探した。 「失礼するよ、あれ」 しかし千波はいなかった。深留の胸はなぜか騒ぎ、帳場にいた彦三郎に尋ねた。 「彦よ。千波さんはどこに行ったんだ」 「あ、ああ。それは」 「辞めてしまったのか?なあ」 「落ち着いてください。ほら、そろそろ時間ですよ」 「え」 すると廊下の奥からお膳を持った千波が現れた。 「旦那様、お昼の時間ですよ」 「千波さん」 「私、時間があったので食堂の手伝いをさせていただいたんです。どうぞ」 「食堂にいたんだね」 昼時間、深留は千波の誘いで母屋の部屋で食事にした。 「どうぞ」 「美味しいそう……チラシ寿司だね」 「はい。お吸い物は熱いですよ」 「いただいきます!これは」 優しい味、懐かしい味、深留は感動しながら食べた。その様子を千波は優しいまなざしで見ていた。 「旦那様。私、これから食堂のお手伝いをさせていただきますので、お弁当は勘弁してくださいね」 「ああ、もちろんだよ。それにしてもお代わりはあるかい」 「そうかと思って、ここにあります」 むしゃむしゃと食べる深留を千波は愛しい気持ちで見ていた。 ……こうすれば、毎日食べていただけるものね。 弁当は問題があるので千波はみんなの手伝いをすること選んだ。それはすべて深留のためだった。 ……義母様から教わったお料理を、ここにいる間、せめて少しくらいは。 深留にとっては母の味。しかし彼の母は亡くなり彼は食べることはない味を、千波は少しでも彼に食べさせたいと考えるようになった。 「ごちそうさまでした」 「はい。あら。顔にご飯粒が」 「どこだい」 「ここです」 千波は思わず自分の頬に指を当て、彼のごはん粒の場所を示した。しかし深留は千波の顔の傷を発見してしまった。 「千波さん、その顔の傷は」 「え?ああ、これは。猫に引っかかれて」 「見せてごらん。ああ」 横髪で隠していたが、顔には打たれたような跡があった。深留は頭から水を浴びたような気がした。 「リヨか、リヨの仕業か」 「違います」 「いやそうだ。だから君は弁当じゃなくて食堂の手伝いをすると言い出したんだ」 「旦那様、私は決して」 「いいかい千波さん!君は僕にとって大切な人なんだ」 深留は怒りと悲しみで震えながら千波の頬に手を当てた。 「これから絶対こんなことはさせない。本当にすまなかった」 「旦那様……」 ……優しい。でも、私は。 この好意を受け入れてはいけない、と千波は心に鍵を掛けた。 「……ご飯粒、取れましたよ」 「あ」 「それはそうと。最近、図案の方は進んでいますか」 「それは?その、なかなか時間がなくてね」 彼から離れた千波は諭すように向かった。 「旦那様。時間は作るものですよ。少しでも始められるといいですね」 「そう、そうだね」 「さあ。今、お茶を淹れますね」 千波はそう言うと部屋を出た。その後ろ姿を深留はじっと見ていた。 夕刻。化粧で飾った派手なリヨは出かけようとしたが、下駄がなぜか消えていた。 「変ね、一つもないなんて」 仕方なく冬用の草履を吐いたリヨは、玄関から出てきた。 「チンドン姉さん」 「ん。何よお前。きゃあ」 国松は振り向いたリヨに樽の水をぶっかけた。 「ちょっと!何するのよ!」 「おいら、ここに水をまいていたんだ。チンドン姉さんが飛び出してきたんだよ」 「ねえ、そのチンドン姉さんって何よ!」 「え?チンドン屋さんの意味だよ。みんなそう呼んでいるのを知らないの?」 「バカにしやがって!ちょっと、これじゃ出かけられないじゃないの。どうしてくれるのよ!」 「あれ、チンドンさん、顔が」 「え」 びっくりしている国松にリヨは慌てて手鏡で確認した。 ……化粧が落ちてる?ああ、これでは。 化粧が崩れ姿の醜い顔が見えているリヨはその手で隠した。 「お、お化け」 「クソガキ!覚えていろよ」 あまりの顔の代わりように恐怖の国松に対し、リヨは鬼の形相で家に戻って行った。 その後、国松は深留に報告した。 「旦那さん。お出かけできないように水をぶっかけました」 「ご苦労」 「あの、その時なんですけど」 「どうした」 化粧の下は皺があったと国松は恐る恐る話した。 「まさか?女の素顔はそんなもんさ」 「そうですか。ではおいらはこれで」 この夜、リヨは酒を飲み不貞腐れて寝てしまった。深留は一人寝の部屋で虫の声を聞いていた。仕事が山積していたが、今夜はやけに月が綺麗だった。 ……青い月か、夏の紬をこの色でつくりたいものだ。 深留はこれを纏う女性を想い布団に入った。目をつむる暑い夜、彼の耳には千波の優しい声が流れてくるようだった。 五「青い月」完
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