くれない物語

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 慶応4年、秋のこと。  名前のない女が寺の廊下を歩いていた。  女の年はまだ若く頬には艶がある、しかし、その顔には失いすぎた不幸な運命が染みつき、暗い影が落ちている。  女が暗く冷たい廊下を曲がると、目の前には真っ赤な景色が広がっていた。  庭を覆い尽くすほどに広がる紅葉が久しく心を痛ませる。父を、母を、兄を失い、何もかが燃えたあの日の夕暮れのよう。  しかも、後の幼い自分に唯一残されたのが名前であったのに、それすらも出家する際に、「忘れよ」と命が下った。だから、女は自分の本当の名前すら、もう覚えていない。生きるためとはいえ、本当に無一文となった。  だから、抗うことは無駄と早々に悟ったその人生は憂鬱を通りこして、常に虚無がつきまとう。女自身、名前を失ってから何に対しても気色が沸かなくなった。そして、招かれるままに憎き恩人に会いに行く今がある。  尼頭巾が風防の役割を担い始めた紅の頃。女―――十九才の時のこと。  徳川の天下となった慶長は、実に平和なものだった。  各地で小競り合いはあるものの、民が丹精込めて作った田畑が大きな人災によって踏み荒らされることはなくなった。慶長は武士の時代の終り始め。  しかし、平和になったとはいえ、名前のない女と、憎き恩人の間には大きな川のような激動の時代が横たわり、二人がこうして会うまでに何年もの歳月が立ってしまった。  灼熱地獄の道がごとく赤く照らされた廊下の奥。女を招いた張本人がいる障子の前に立つと、先ほどまで青白く、気色のなかった女の顔にわずかな緊張の色が浮かぶ。  命の恩人とはいえ、父を殺した憎き男の娘。今は義母といえど、兄を殺した憎き男の孫娘。 鬼の子は、同じく鬼の顔をしているのかしら?  女の覚悟は引き戸にかけた手に出た。思わず大きな音を立てながら障子が開いてしまう。  そして、音に反応してか部屋の奥、火鉢の前に丸まった背中が振り返る。女は振り返ったその顔を見て、思わず目を開いた。  美人だ、美人だと聞き及んではいたが、聞きしにまさるとは、まさにこの事。名前のない女は、仏門に入った以上、質素倹約を重んじ、信仰にばかりに身を置く、地味な尼に囲まれているせいもあるが、これほど美しく華やかな人を見たことがなかった。  髪と頬には生き生きとした艶があり、肌が抜けるように白い。しかも、落ちついた色の着物をまとっているにも関わらず、その体からは強い生気が滲み出ていた。まるで茎を持つ鮮やかな花のよう。 「ごめんなさいね。お前様が来る前に、部屋を温めておこうと思ったのだけれど、ちっとも温かくなりゃしないのよ。乳母の手がなければ、こんなこともできぬのだから、ほんとダメね」  そう言って再び、火箸を手にとり、灰をこねくり回す彼女の手元は危なっかしい。  名前のない女は無礼を承知で、部屋に足を踏み入れると、 「今日はさほど寒くはございませんので、お気づかいは無用ですよ」  と言って、火箸を預かった。  それをすまなさそうではあるが、どこか安堵した顔で見つめると、天下人徳川秀忠の娘であり、世を泰平させた徳川家康の孫娘。そして、名前のない女の父である豊臣秀頼の正室、千姫が頭を下げた。 「ありがとうございます」  鬼とはほど遠い、美しい所作であった。  ―――どう生きればこうなるのか  火鉢の側で隣あった千姫の横顔を眺めながら、名前のない女はそう思った。  もう三十路にもなるその人は、仏門を極めたような澄んだ瞳と、神々しいまでの雰囲気を漂わせている。  仏門の道は、辛く険しい。また、奥が深くて一生をかけても、まだ終りが見えぬこともあるそうだ。現に、女は七つで仏門に帰依したが、未だにその穂先すら掴めていないような気がする。  なのに、一介の姫がどうすればこうなれるのか? ――――あの業火は煉獄よりもなお、人の魂を磨くに値したのだろうか? 「お前様は、今、いくつになられましたか?」  と、千姫が突然尋ねてきた。 「今年で十九になりました」 「あらまぁ。ずいぶんと大きくなられて。  けれど、若いということはよいことですね。お前様が口を開いてくれるだけで、私くしはうきうきしてしまうのだもの」  彼女は春風のように軽やかな口調でそう言うと、花を愛でるようにニコニコと女の顔を眺めた。  その気さくさは秀頼と別れた後、格式高い本多忠政の奥方のものであるとは誰も思わないだろう。いつの間にか、虎の前に来たように緊張してしまっていた女の肩から力が抜けた。 「実は私くしも出家することに決めたんですよ」  はっとして、女が顔をあげると、菩薩よりも尚、優しい笑みで千姫は、名前のない女を見つめていた。その姿は、俗世を捨てて、今よりも簡素で侘しい仏門の道に入ろうというのに、いたく心晴れやかなように見える。 「だからこうして、私くしはお前様を呼んだのです。  私くしになど、会いたくもなかったでしょうが、私くしは会えなくなる前に、一度でいいから会って話がしたかったのです」  千姫は菩薩から無邪気な子供のような笑顔にくるりと表情を返ると、火鉢の横に置いてあった漆塗りの四角い箱の蓋を持ちあげた。すると、中から花束のように色とりどりの饅頭が現れた。 「まぁ」  菓子を見た女は思わず声をあげる。しかし、僧侶として慎まねばならぬ身と、すぐに硬い表情に戻してしまったのだが、それを見た千姫はいたずらっ子のように笑った。 「今日は私くしとお前様だけ。親心をむげにしまいと気を遣っているだけなのだと、仏様はお許しくださいます。 ですから、これは二人だけの秘密にしましょう。あ、仏様を入れると3人ですね」  千姫があまりにも軽やかに冗談を言うので、女は耐えきれず噴き出してしまった。 「では、お言葉に甘えまして頂戴いたします」  千姫はその返事に笑顔を返した。  日当たりがよくなってきたことを理由に、二人は縁側に出て、紅葉を眺めながら茶を楽しむことにした。  辺りには野を焼いた香ばしい匂いが立ちこめていて、ずっと空っぽだった胸の中が満たされていくような気がした。そして、語り合ううちに、名前のない女の心はますますほぐれ、遂にずっと聞きたかったことを尋ねるに至った。 「あの……」 「なんでしょう?」 「あの、その、千姫様はどうして私くしをお救い下さったのですか?」  名前を捨てさせられ、出家させられた時からずっと疑問に思っていたこと。  あの時、いっそ父母と同じところに行かせてくれたらよかったのに、と恨んだことさえある。けれど、こうして生きながらえているのだから、いつか会えたら尋ねようと決めていた。 「千姫様、どうして側室の子である私くしを養女としてまで、救ってくださったのですか? 私くしのことなど、捨て置いても構いませんでしたのに……」  そう言われて、千姫の瞼を伏せ、蚕のように白い肌に、まつげの影を落とした。豊臣秀頼の娘である女はその憂いある姿を同じ女でありながら、扇情的で美しいと思う。 「そうですねぇ。  あの頃は必至に生きていましたから、今更言葉にするのは難しいですね」  ふと、千姫が視線を落とした手の先には湯飲みがあり、それを撫でる手には、女が思った以上に深い皺が刻まれていた。彼女がただ姫として安寧な日々を過ごしてきたわけではないことが伺える。 「なんと申しましょうか」  互いにしばらくの沈黙。  それでも、女は想いを断つことができなかった。 自分はどうして名前を無くしたのか。 自分はどうして豊臣として死ななかったのか。  広大な時代の流れに流されて、失ってしまった多くの物語を知りたかった。 「では、言葉にするのは難しいので、私くしが豊臣に嫁いでからのお話をしてもよろしいですか?」  女は意外な申し出に言葉を探すうちに頷いた。 「仏門に入られたお前様にとって、女として苦しい話しになるかもしれません。それでも、どうか聞いてください。私くしが命をかけて嫁いだあの時代の話を」
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